ACT.24
所内に鳴り響くブザーを合図に、刑務作業を中断させた囚人達がぞろぞろと食堂へと足を向ける。
早めに担当作業が一区切りついたクレは、長テーブルの端に座り、既に昼食を摂っていた。何も考えないよう集中しながら、食事というよりも、黙々と咀嚼と嚥下を繰り返す。
そして、それが終わる寸前、交流のない囚人が正面に座る。自身を辱める目的でなかったとしても、今のクレは近くに他人が存在する事に敏感になっていた。
少々心がざわついたが、取り乱す程ではない。クレはなんとか自分の心を宥めすかす。あと少し、あと少しと、壊れかけた何かを騙し騙し使うように、彼女は自身の心を慎重に取り扱った。
沢庵を口に放り込み、ぼりぼりと音を立てていると、ふと正面に座った囚人の箸の持ち方が気になった。そして、視界に入った瞬間、安易に目を向けたことに後悔する。その囚人の不格好な握り箸は、エドのそれとよく似ていたのだ。
「あぁクソ……」
こうなってしまえば、彼女は悪態をつかざるを得ない。というよりも、悪態をつくくらいしか出来ることがない。
感じないふりをしていても、昨晩エドに踏まれた脇腹は動く度に軋み、口を開けると顎関節が悲鳴を上げる。クレの身体にはそこかしこに暴行の痕跡があった。
いつまでこんな事が続く。クレは眉間に皺を寄せ、トレイの端を持つ。すぐに立ち上がり、作業場に戻りたい彼女であったが、数時間前にできたばかりの爪による創傷が主張を始め、それを阻んだ。生理でもないのに敷かれた座布団が役に立っているらしい。
「いってぇ……」
「おっ、クレじゃねーか」
「……よう」
エドはクレに気安く話しかけると、彼女の正面の囚人に、”退け”とだけ告げ、空いたばかりの席にどかりと座った。
彼女がクレの正面に座ったのは、単なる気まぐれである。ここ最近は、互いに日中の無駄な接触を避けて生活する傾向にあった。正面にエドが座っただけでクレが眉間に皺を寄せたのはその為だ。
「なぁんか顔色悪ぃな?」
てめぇのせいだろうが。そう言って胸ぐらを掴んで、テーブルに叩きつけたくなるような衝動を圧し殺しながら、クレは「別に」とだけ呟く。
これでも医務室から戻ってきた最初の数日と比べれば、かなりマシになった。周囲に発覚した時のリスクは重々承知していたが、それでも平静を装えなかったのだ。
談話室や食堂などでエドを見かける度に、心臓を鷲掴みにされ、さらに臓物に鋭い爪が食い込んでいるような、抗いようのない恐怖と息苦しさに見舞われた。歯の根が合わなくなり、動悸が激しくなり、時には金縛りのように動けなくなったりもした。
身体がトラウマに慣れてきたのか、その所以は本人にも理解できていないが、人前でエドと対峙できるようになっているのは間違いない。
それはエドにも伝わっている。ほんの少し前は、腕を掴むだけで体をびくりと震わせていたというのに、今では白けた顔で払い除けるのみである。徐々に恐怖を克服していくその様が、とにかく気に食わなかった。
彼女の性格をよく知るクレは、この対応が恐らく悪手である事も想像がついた。周囲に気取られない程度に怯えたふりをしておく、これが対エドの当面の利口な接し方である。
しかし、彼女は頑としてその策を打たなかった。思い付かなかった訳ではない。ただ、そんな演技をしてしまえば、それはもう演技と割り切ることの出来ないものになってしまう気がしたのだ。意地と恐怖が交錯する中、クレは必死に自我と自尊心を保とうとしていた。
「クレ? 大丈夫?」
「あぁ、なんでもねーよ」
隣に座りながら話しかけてきたのはサタンだった。彼女はエドとは違い、純粋にクレを気遣っている。
医務室より戻ってきてからというもの、全くと言っていいほど、クレは笑わなくなった。以前から影のある女ではあったが、サタンから見た彼女は、それなりに上手くやれていた。クレが視線を落とすと、担ぎ込まれる直前、自身で掻き毟ったであろう跡が手首をグロテスクに彩っていた。
「にしても、最近大人しいよね、二人共」
若干の含みを持たせてそう言ったのはエラーである。サタンと同じく作業を終えた彼女は、若干訝しみつつエドの隣に座った。大して気にした素振りも見せず、むしろエドは笑う。
「喚き散らして殴り合ってた方がいいってのかよ」
「少なくとも前はそんな感じだったでしょ」
違和感を覚えながらも、エラーはエドを軽く煽った。これまでの彼女であれば、「あぁ!?」とでも言い、勢い良く席を立ち上がっただろう。だが、エドは馬鹿馬鹿しいとでも言うように、鼻で笑って食事を続けたのだ。
「そんなことしても何も得しねぇしな? んなことより、食いにくいな。ムカつく」
「えぇ……ただのホッケでしょ……」
エドは今にも癇癪を起こしそうになりながら、凡そ普通に魚を食するだけでは発生し得ない音を響かせている。
彼女の魚嫌いは今に始まったことではない。以前から何度も似たような事をぼやいていた。ある日、クレが呆れた顔で、箸もまともに扱えない奴が献立にケチつけてんじゃねぇよ等と火に油を注ぎ、殴り合いの騒ぎになったこともあった。
あまりにも愚かしい出来事を回想しながら、エラーはクレを見る。彼女はトレイの端を掴んだまま、テーブルを睨みつけていた。先程から微動だにしていない。様子がおかしいのは傍目に見ても明らかである。
しかし、B-4区画に戻ってきた際、彼女は「もう迷惑はかけない、これっきりだ」と言った。あの縋るような視線を、エラーは忘れていない。のっぴきならない事情があるのだということは容易に察せた。クレがエドに弱味を握られている可能性がある以上、下手に刺激して事態を悪化させてしまうことだけは避けたかった。
注射器の所持が発覚した時点で、エラーはエドに容赦するつもりは一切無い。ただ、クレは別だ。もし彼女が被害者だとしたら、例え薬物の使用者でもエドと同じように裁くのは不公平にあたる。
このバランス感覚が、彼女がファントムで長くトップを務められている一つの所以であった。舐められる事があってはいけない。しかし、理不尽があってもならない。過去には力で全てをコントロールしようとした暴君もいたが、気まぐれに振るわれる暴力で統率が取れる程、ここの連中は一筋縄ではいかないのだ。
棟内でB-4の面子を知らない者は、皆無と言っていい。特にクレとエドは、その容姿と派手な喧嘩で、新入り達に真っ先に覚えられる顔と言ってもいいだろう。そんな二人に雑な喧嘩両成敗を押し付けるなど、できる筈がない。どう考えてもそれぞれの信者が黙っていないのだから。両者のそれが徒党を組んで、暴動を起こすことだって可能性として考えられる。
それについてはエラーは重要視していないのだが、聡明な彼女は可能性として視野に入れている。そんなことよりも、単純にエラー自身がすっきりしないのだ。彼女にはボスとしての最適解を導き出す、センスのようなものがあった。意図せずそれを行えるのだから、見る者が見れば才能と呼んだかもしれない。
妙な箸の持ち方でホッケと格闘するエドを一瞥して、エラーはため息をついた。
「食べるのやめたら?」
「うるせぇな。腹は減ってるし、味は嫌いじゃねぇんだよ」
エドのこの発言には、エラーはもちろん、サタンですら驚いた魚が出る度に文句を言う者を見れば、誰だって誤解するだろう。
エラーはエドの皿を取り上げると、綺麗に身をほぐす。食べられるところをまとめて箸で持ち上げると、彼女はそれを自身の茶碗の上に移動させた。
「はぁ!? シャリ上げたぁいい度胸してんじゃねーか!」
「なんで怒ってるの? エドが残したところでしょ。ここ全部食べられるんだよ?」
「あぁ!?」
「良かったね、勉強になったね」
「サタンは黙ってろ!」
「あ、おいしい」
「食ってんじゃねーよ! 聞け!」
エドは激怒しているが、エラーは内心呆れていた。お前に対して母親のような真似をしてやる義理はない、と思わずにはいられなかったのだ。
サタンはそんな二人のやり取りを微笑ましげに眺めていたが、内心はどうだって良かった。この二人がバカを演じているというのに、いや、一人は本当にただのバカだが、とにかく、隣に居るクレの表情がぴくりとも動かないことの方が気がかりだった。
サタンは再び話しかけようとしたが、それよりもクレが立ち上がる方が早く、どこか危うげな背中を見送る事しか出来なかった。
「……そういえば、四人で揃ってこんな風に座るの、久々だったね」
ラッキーがその場に居れば、かなり疎外感を感じる言い回しだろうが、それを咎めようという人間はいない。サタンのその呟きに、エラーは否定も肯定もしなかった。
サタンの少し寂しそうな横顔を見たエドは、欠片の欠片、その一部ほどの、ほんの僅かな罪悪感を抱き、居心地が悪いのを誤摩化すように舌打ちをした。
そしてその気持ちは徐々に大きくなっていく。今まで大切だなんて、微塵も感じていなかった時間。サタンに言わせれば団欒とでも表現するかもしれない、そんな時間を壊した出来事に自分が関わっていること。もう二度と戻れないこと。それらをぐるりと考えると、エドは自らの罪悪感を許した。
謝ったら負け、過ちを認めれば死ぬ。そんな信条で生きていそうな女は、小さな罪悪感すら素直に受け入れることが出来ないのだ。
エドに言わせれば、そもそもそう思っているのはサタンと、せいぜいエラーくらいである。クレとの喧嘩はいつでも本気で、死ねと言う時は心の底から死を願っていた。それを見て微笑ましい等と感じ、和んでいる方もはっきり言って異常である。歪んだ意見の押し付けだ、そんな風に思ったりもした。
「そういえばラッキーは?」
「知らね。作業場はクレと一緒だったろ」
つまり、ラッキーはあえてクレと席につかなかったということになる。エラーは思った。クレの元ファンだったのに、そんなこと有り得るだろうか、と。普段からエドにくっついては、鬱陶しいと邪険にされている女の行動にしては妙だと、少し引っかかったのだ。
「そっか。じゃあ別で食べたんだね」
「あ。ねぇエラー。あれ」
サタンが指差す方を見ると、ラッキーが別の区画の囚人達と談笑していた。
いつの間に。そもそも何故。いくつかの疑問が三人の頭の中にふわふわと浮かんだが、口に出す者はいなかった。普段の病的なまでの馴れ馴れしさも相俟って、その様子は取り立てて不自然ではなかったのだ。
昼食を平らげるまでに、エラーだけが「まぁいっか」と呟いた。
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