ACT.23

 エラーはセノを探して、所内をぶらついていた。彼を見つけられないまま、しばらく歩いた彼女の頭に過ったのは、出張の二文字である。

 彼は出張の為、島外に出ることも少なくない。それは厳密に言えばではないのだが、彼女はここを「職員や囚人の家のような肥だめ」と考えているので、少なくとも彼女にとっては出張なのである。

 ファントムから出られない事に負い目を感じているのか、エラーは外に家族や友人を持つセノをあまり意識しないようにしている節がある。

 職員達のそういった話はたまに耳にした。最近顔を見ないと言うと、里帰りしてるだの旅行に行ってるだの、大体のことを把握しているセノが記憶を頼りに答えるのだ。

 旅行。里帰り。恐らく、もう二度とエラーには縁のない言葉達。いや、旅行は可能かもしれない。出所さえ出来れば可能性はある。

 しかし、親族にとうの昔に見離され、恐らくは地元の土を踏むことすら許されない程に恨まれているであろう彼女に、帰る場所はなかった。どうしても里帰りをしたいと言うのであれば、この場所、ファントムに舞い戻るしかないのである。


「エラーさん! どうも!」

「あぁ、ムサシ。久々だね」

「はい! これから当番なんです!」

「そうなんだ。頑張って」


 囚人番号、634番。ムサシと呼ばれたポニーテールの小柄な女性は、見ての通りエラーを慕っていた。もちろん、ボスとして、という意味でだが。

 ドラッグ推進派には相変わらず疎まれているが、こうして彼女を慕う人間も少なくない。エラーはムサシの後ろ姿を見送ると、ほんの一瞬、優しく微笑んだ。


 好きでボスをやっている訳ではない。ただそうする必要があるので、彼女はその役割を担っているだけだ。しかし、慕われて悪い気はしなかった。

 これまでのエラーであれば、自身を慕う人物と会話を交わすことで、ボスとして頑張ろうと決意を新たに意気込んでいたかもしれないが、今の彼女は違う。仲間との会話が、何の励みにもならなかった。いや、与えられる安堵を上回るほどの悩み事があると言うべきか。


 ラッキーがB-4にやって来てから、かれこれ二ヶ月が経つ。日本国内のどこかにあるこの島にも等しく、もうじき冬がやって来るのだ。

 刑務所の冬は厳しく、特にこの島の冬は頂けない。脱獄前に札幌の刑務所に収容されていた囚人に、ファントムよりもところは無いと言わしめる程だ。

 エラーに言わせれば、セノからの呼び出しが最も嬉しいのは冬である。下着姿になれるほど暖房が効いている、暖かいココアが飲める。棟長室は、囚人達にとって夢のような空間だった。


 大型新人の入所により、今年の冬はまた違った趣きを見せる。エラーには確信にも似た予感があった。

 人を殺したかどうかは定かではないが、素手で人を殺すような技術を持ち合わせているようには見えず、強い宗教的・政治的思想を持ち合わせているようにも見えない、ただ前代未聞の待遇を受ける囚人。

 彼女が何を抱えているのか、今のエラーにそれを知る術はない。しかし、彼女がやってきてから、これまで上手く回っていた四人の均衡が崩れようとしているのは紛れもない事実である。


 つまり、棟の囚人をまとめる立場でありながら、自分の区画の事で手一杯となりつつあるのだ。自覚はあったが、対策の立てようも無く、エラーは見えないところで蠢く力に翻弄されるばかりである。

 セノに会って話をすれば、何かいい案が浮かぶかもしれない。見逃している可能性のある、他の区画の話も聞きたい。彼女にしては珍しく、藁をもすがる気持ちで、他人を頼ろうとしていたのだ。



 先週の出来事をふと思い出す。サタンに押し倒され、挑発された日。あの時、エラーは咄嗟に距離を取って部屋を出た。その後、サタンは何事もなかったように接し続けたが、それしきのことで心乱されるエラーではない。

 サタンがそのように振舞う事は分かっていた。彼女にとって、あれは駆け引きと呼ぶにも拙い、児戯に等しい戯れだろう、と。だからエラーも態度を変えなかった。あの瞬間、前後五分間の記憶を喪失したかのように、二人の振る舞いは完璧だった。


 実を言うと、ラッキーが初対面でサタンの性的指向を見抜いた時、エラーは心の何処かで恐れていた。もし、こちらを見て同じ事を言ったらどうしよう、と。

 エラーは同性愛者であることを否定したが、異性愛者だと宣言した事はない。抑揚のない喋り方、特定の誰かと深く関わろうとしない距離感、この事からエラーをロボットのようだと揶揄する者もいた。

 それは彼女の耳にもしっかりと入っている。誰が言い出したか、それすらも知っていた。しかし、彼女は陰口とも言える言葉を吐いたその人物に感謝すらしていたのだ。

 ロボット、それこそがエラーの求めるものであった。彼女はそうなるべく、吹き溜まりのようなこの場所で、あえて頂点に居続けようとしているのである。


 彼女は二十代半ばという若さで、もう何も感じたくないと心の底から願っていた。欲求を感じず、誰かを特別に思ったり必要としない。その為に、所内の重要な役割と、莫大な苦労だけを欲していたのだ。

 ラッキーが現れたことにより、パワーバランスが乱れ、サタンに核心を突かれてしまったのは誤算だった。部屋から立ち去る時のサタンの表情を思い出す。彼女は確実に、嘘を見抜いていた。それに気付かぬ程、エラーは愚かではない。


 誰かに隙を見せるのが怖い。僅かな綻びをこじ開け、隠し続けたものに不躾に触れられる、それがエラーには耐え難かった。

 そう、彼女は同性愛者である。本人は封印したつもりではいるが、人が生まれ持った性質を変えることなど、誰にも出来はしない。もし彼女が今後、誰かに惹かれる事があるなら、その相手は相も変わらず同性だろう。

 しかし本人は、次など無いと本気で考えていた。いや、あってはならないのだ。それは誰の為でもない、自分自身の為。あの煩わしさから逃れる為に、彼女は今も所内を散歩しているのである。


「よかった、いたんだ」


 目的の男を見つけると、エラーは安堵したように少し微笑んだ。


「? あぁ、どうした? 要件があるなら手短に頼む。これから本土に戻るんだ」

「出張なんだ」

「出張というか……まぁいい。どうした」

「ラッキーの事なんだけど」


 名前を聞いた途端、セノの表情が強張った。辺りに聞き耳を立てている者が居ないか確認した後、エラーにだけ聞こえるトーンで声を発する。


「それについては教えられない。前にも言った筈だ」

「セノだって知ってるでしょ? クレがエドにヤクを盛られたこと」

「……あぁ、それについては俺も調べたんだがな。力になれなくて済まない」

「それはもういいよ。問題は、今後も安心できないってこと。ラッキーが何を企んているのか、知っておきたい」

「企んているというのは確かか?」

「私の勘」

「そうか……すまない、もう時間なんだ。帰ってきたら話そう」


 セノはそう言い残し、カードキーを使い、職員専用通路に出て行った。

 逃げられた。エラーはそう思った。こうなると”出張”だって怪しいものである。


 今の彼女に分かるのは、セノは何らかの事情により協力出来ない立場にある、ということだけだ。いや、今後の流れによっては、彼を敵と見なさなければならない日が来るかもしれない。

 鬱屈とした気持ちを晴らす為にセノに掛け合ったというのに、エラーの足取りはこの場を訪れた時よりも重くなっていた。


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