ACT.22
鼻を突く
「なぁ、暗くて見えねぇんだけど。あと臭ぇ」
エドは落とし物を探すような調子で話しかける。視線の先には赤い髪の女、クレが四つん這いになって簡易的な水洗トイレを覗き込んでいた。下半身を露出させたまま便器に嘔吐する様は、非常に痛ましい。
しかし、その原因を作った張本人であるエドは笑っていた。
臭いの原因は、便器の中の吐瀉物だった。頻繁にトイレを流すと、看守に怪しまれるかもしれない。そんな懸念から、クレは水洗レバーを引けずにいたのだ。
「あぁくっせぇ」
「てめぇが帰ればいいだけだろ……」
「うっせぇ」
後ろからじろじろとクレの局部を観察していたエドであったが、クレが口を利いた瞬間、穴に指を差し込み、折り曲げた。淡々とした表情で何かの作業をするように、エドは内壁を押し広げる。その手付きは婦人科医を彷彿とさせた。
「可哀想だよなぁ。吐くほど嫌なのに、ここは濡れるんだからよ」
「てめ……」
「わぁーってるよ。ただ、そういう体の構造とはいえ、皮肉なもんだなと思って」
エドの発言は、クレに過去の記憶をフラッシュバックさせた。濡れていると大喜びする男達と、軽蔑するような女達の視線。それらが脳裏にこびりついて、何度も脳内でリフレインする。そして、何度目とも分からぬこみ上げる衝動に身を任せた。
医務室から帰ってきて以来、エドは気まぐれに部屋を訪ねては、クレの体を弄んだ。この関係を崩さず、力を誇示し続ける必要があると彼女は考えていたのだ。あとは単に、これまでの憂さ晴らしである。
エドはこの、猿の自慰にも劣る愚行を、誰よりも必要であると思い込もうとしていた。
——キスをしただ? ふざけんな、適当なこと言いやがって。ぶっ殺すぞ。
脳内で何度この言葉を吐いたことか。しかし、知らされた日以降、エドがこの件について声を荒げることはなかった。
それは喧しい女の静かな肯定である。つまりは思い出してしまったのだ。もうあの話はしたくないとでも言うように、エドは目を背け続けている。
苦しそうに胃液を吐き、体中に広がる嫌悪感に震えるクレを目の当たりにするのは、やはり気分が良かった。そんな自分に、エドは安堵した。
わざと音を立てて穴を弄り、捩じ込んだ二本の指を中で広げては、苦しそうに喘ぐ後ろ姿を楽しむ。
そうこうしている内に、エドはあることをふと思い出す。目の前の白い尻をぱちんと叩いて口を開いた。嘔吐の真っ最中に話しかける傍若無人っぷりである。
「お前の部屋にあんだろ、注射器」
「おぇ……っは…? しら、ねぇ……」
「そういうのやめろよ、めんどくせぇ」
「マジで、知らねぇ……って……」
強情さに痺れを切らしたエドは、再び指を曲げ、乱暴に壁を爪で掻いた。
「ああぁぁぁ……! いっ……てぇ……」
「……今度はケツの穴で同じことしてやろうか? あ? どうするよ」
「……んでだよ……まさか、無くしたのかよ……」
問いかけに返事はない。しばらく沈黙が続き、クレの中で暴虐の限りを尽くしていた指が、死んだように動きを止める。エドは眉間に皺を寄せ、口は半開きのまま固まっていた。彼女が嘘をついているようには思えなかったのだ。
つまりクレは本当に注射器の在処を知らず、自分は事もあろうに、それを紛失した、と。受け入れざるを得ないその事実が、彼女をしばし放心させた。
記憶では確かに持ち帰って、枕の下に隠した。せめて元あった場所に戻すべきだったが、知っての通り、エドはそれからずっと普通の状態ではなかった。
医務室から戻った数日後、やっと注射器の存在を思い出したのだ。いくら探しても見当たらず、最終的にクレの部屋にあると思い至ったというのに、あてが外れてしまった。
「……ヤバいんじゃねぇ?」
クレは軽く身を捩り異物から逃れると、ズボンを上げる。そして客観的な意見を述べながら、エドの方を向いて座った。彼女はすぐに、自分を辱めている場合ではなくなったと気付き、ここぞとばかりに陵辱を中断させたのだ。余韻に身震いしながらも、なんとか平然を装う。
「……隠してるだろ?」
「オレが? 何の為に?」
「ビビらせようとしてんだろ!? おい!」
「ばっ! 静かにしろよ!」
クレは慌ててエドの口を塞いで、そのまま地べたへと組み伏せた。エドの後頭部が床にぶつかる音がしたが、両者共に気に留めている余裕はない。
クレはエドの馬鹿さ加減にため息を吐きながら、口を塞いだままその小柄な体に体重をかけた。いくらクレが華奢といえど、二人の身長差は二十センチほどになる。この体格差を埋めるほどの腕力を、エドは持ち合わせていない。
「冷静になれよ。オレがそんなことして何になるんだよ」
クレはエドの様子を見ながら問いかける。手を離すとまた喚き散らされそうだと感じたクレは、そのまま続けた。
「オレは誰が相手だろうと、過去を知られたくない。だからてめぇの玩具にまでなってんだよ」
口を塞ぐ手が震え、力の制御が失われていく。顎が割れそうだと訴えようにも、今のエドにはそれを伝える手段が無かった。
「下手打ちゃ過去を暴露されかねないってのに、そんな危ねぇ橋渡るかよ」
クレは頭にきていた。人の命を握っているという自覚を、エドからまるで感じられない為だ。うっかり口を滑らせてしまったとしても、適当に謝って終わりにしそうな、いや、謝罪すらせず、逆上して有耶無耶にしそうな気配すらある。憤りがクレの心をじわじわと侵食していく。それは、自身が長い間抱えてきた過去を蔑ろにされている、言い知れぬ怒りであった。
他の囚人に知られれば、クレは自分がどうするのか、想像もつかなかった。自らの手首を切るかもしれないし、それよりも先にエドを殺しに行くかもしれない。そのどちらも失敗し、精神に異常を来して、別の施設に移される可能性も大いに考えられる。彼女は、そんな未来を望んではいない。
「聞いてるか?」
エドははっとした顔をして、首を縦に動かした。目は据わっているが、先程よりはずっと冷静そうだ。そう判断したクレはゆっくりと手を離した。
「……下りろよ」
「言われなくても」
言い終わるや否や、クレはエドから離れると、無造作にベッドへと倒れ込んだ。続いて、ぶつけた後頭部をさすりながら、エドが体を起こす。気怠げに立ち上がると、顔を顰めてトイレの水洗レバーを倒し、ベッドの空いたスペースに腰掛けた。エドが触れてこない事に、クレは内心ほっとしていた。
有り得ない失くし物をしたエドは、心ここに在らずといった様子でぼんやりとしている。無理もない、エラーにバレれば半分程の確率で獄死するであろう大失態だ。クレは恨めしそうにエドを見つめる。出て行けと伝えようにも、声を掛けることすら億劫に感じるほど、身体は疲労していた。
一方、エドの脳内はそれ以上に深刻だった。注射器の行方だけを考えていたいというのに、頭の中のほとんどが別件で埋め尽くされていたのだ。
口を塞がれ、乱暴に覆い被さられ、挙げ句の果てには説教をされた。不服に思う以外に感情の行き場など無い筈なのに、エドはただ動揺しているのである。
心臓がばくばくと鼓動し、頬が熱かった。ぶつけた頭なんて気にならないくらいに、それらの主張は激しい。今までクレ相手に、いや、誰が相手だろうと、この手の不調を感じたことは無かった。エドは今年で二十一歳になる。何も知らない訳ではない、むしろ同年代の中では知り過ぎている程だ。
「これじゃまるで……」
言いかけてエドは便座を覗き込み、そのまま嘔吐した。あと数秒遅ければ、何の罪もないクレのシーツが犠牲になっていただろう。
「えぇ……お前、人の部屋で何やってんだよ……」
「……帰る」
「はぁ!? そのトイレさっき流したばっかだろ!?」
「あぁ。しばらくあたしのゲロと仲良く寝てろ」
「てめぇマジで最低だな!」
二人は器用に小声で怒鳴り合う。エドは逃げるように部屋を後にしようとするが、クレは彼女が扉に触れる前に、手首を掴んで引き止めた。想像以上に細い腕に、場違いに驚きつつも声をかける。
「駄目だ。帰るな」
「は、はぁ?」
「はぁ? じゃねぇ、当たり前だろ。現実逃避してる場合かよ」
そしてエドはすぐに思い至った。クレが言っているのは、注射器の件だろう、と。エラーにバレるかもしれないという不安から吐いたと思われている、誤解の内容を推察するのは簡単であった。
むしろ、エドは感謝すら感じていた。一連の流れが不自然に見えない状況を作り出してくれた、行方不明の注射器に。
この件を放置できるほど、クレは愚かではない。呆けているエドを叱咤し、静かに部屋の中を捜索するが、それは出てこなかった。
結局、睡魔が二人に勝利したのは、窓の外が白み始めた頃である。
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