ACT.38

 厚い雲に覆われた月は何も照らさない。今夜起こる全ては完全に隠匿される、そんな予感をさせる夜であった。

 いつにも増して暗い独居房、影すら存在しない空間で二人の女が睨み合っていた。


「エラー、嫌だって」

「なんで? 今しかできないでしょ」


 口調こそ穏やかだが、エラーはいつかのようにクレを組み敷き、首筋に手を添えていた。クレはというと、嗜虐心に燃える瞳をじっと見つめて懇願している。今ならまだ抵抗できる見込みがあった。それはつまり、一度行為が始まってしまえば抗えないことを認めている、とも言えるのだが。

 まともに話が出来る内に説得しようとは思うものの、失敗に終わるであろうこともクレには分かっていた。エラーに自覚があるかどうかは知らないが、この女はどこまでも頑固で、やると言ったことは必ず実行する勝手さと強さを合わせ持っている。これまでは主にボス業に正しく発揮されてきた力なので、誰も止めようとはしなかった。

 しかし、暴行まがいの性交渉で発揮されるとなると厄介である。何せ誰も止め方を知らないのだ、きっと本人ですらも。そして恐らく、そんなものは元より存在しない。クレはじりじりと自分を甚振ろうとしているエラーの手に触れ、それでもどうにかしたいと視線で訴えた。


「クレは、私とするの、嫌い?」

「……嫌い、じゃねーけど……ここは嫌だ」

「”嫌いじゃない”、か。あのね、私は好き。クレとするの」

「そうかよ」

「分かってるよね? 私は」

「分かってるって! この間も、その前も、初めてヤったときも聞かされた!」


 今までずっと我慢してきた。我慢しているという自覚すら感じないよう、完璧に押し殺してきた、エラーという女の歪んだ性癖。それを呼び覚まさせたのはクレである。

 解放できて良かったと思う反面、エラーは欲望に身を任せたことを悔いていた。その全てがクレを慮るものではなく、面倒な性欲に振り回される事になってしまった自身を哀れむ気持ちから湧き起こるものではあるが、こうなってしまったことを後悔していることには変わらない。

 だからエラーはクレをたくて堪らないのである。自棄になって全てを放り投げたい気持ちも、この感覚を取り戻せた喜びも、煩わしさと再び向き合わなければいけなくなった怒りも、沸き上がる欲望も、全てを目の前の女にぶつけて吐き出したがっている。


 苦痛と快楽の狭間で揺れる彼女の顔がもっと見たい。声が聞きたい。本気で抵抗して欲しい。そうしてそれを捻じ伏せたい。

 エラーの欲求は、常識からは完全に逸脱していた。それは煙草よりも性急で、首吊りよりも穏やかな死と同義である。


 に連れてくればクレは嫌がると、彼女は分かっていた。何せしばらくの間、自分を玩具にした相手の自室である。そしてエラーは知っていた。消灯時間になると、独房に入っている受刑者の部屋には自動的にロックがかかることを。

 これは本人が居ない間に取引等の悪事に使用されない為の処置だが、もちろん今の彼女のように、逆手に取って悪用する者も少なくない。セノの前の棟長の時代から改善を要望する声はあるが、その予定は已然としてなかった。


 手を貸して欲しい等と言われ、エラーについていった時点で、クレは詰んでいたのだ。飛びかける意識を何とか手繰り寄せながら、彼女は間抜けな自分を嗤った。

 エラーは股の間から割って入り、クレに覆い被さると、右耳の軟骨を噛む。どうやら自分は耳が弱いらしいとクレが気付いたのは、三度目に抱かれた時のことだ。自覚してしまうと一気に骨抜きにされてしまうようになった。

 エラーはすぐにそれを見抜いた。もしかするとクレが自覚するよりも早くに気付いていたかもしれない。馬鹿馬鹿しいくらいに単純な自分の体を、少し恨めしく思いながら、クレは声を抑えることを諦めた。


「朝……点呼、どう……すんだよ」

「ここで私達がシなくても、朝は来るんだよ。どっちにしろ出られないんだし、クレも少しは楽しんだら?」


 エラーは全く反省した素振りを見せず、飄々とこう答えた。彼女の目付きは、普段の冷たい、どこか投げやりな印象を与えるそれとは全く違っていた。獣が狩りをするとき、きっとこういう目をするんだろう。痛みと快楽に身を委ねる直前、クレはそんなことを考えた。


 一見するとエラーにだけメリットがあるような光景だが、実を言うとギブアンドテイク、むしろwin-winであった。クレはセックスによる快楽を知った。その恩恵は彼女に莫大な変化を齎したのだ。

 あれほど恐ろしかった他者から向けられる欲望が大して恐ろしくなくなった。蔑んできた連中と似たような何かを、自分自身も飼っていると知ったのだ。エラーとの関係がなし崩し的に続いた事も功を奏した。

 陵辱された記憶は現在も彼女を時たま苦しめるが、逃避する当てが出来たのである。それも、エラーとのそれは、考えなければいけないことまで塗り潰す程に、完璧に思考を飛ばしてくれた。このところ考えたくない事だらけだったクレにとって、それは大層都合が良かったのだ。


 太ももの歯形を見て、すぐ隣にある痣がやっと治ってきたところだったのに、と少し残念な気持ちになる。視界に入ったシーツが血で汚れていることに気付き、どうすんだよコレと、面倒に思う。

 クレの意識が着地する度に考えることと言えば、この程度である。他の何かを思案する前にまた痛みか快感で思考がジャンプするのだ。


「ね……っ……エラー……」

「何?」

「私、変になりそうだ」


 吐息混じりに言われたその一言に、エラーを激しく揺さぶられた。

 ここに入所してから、クレの一人称は一貫して”オレ”である。蹂躙された過去を思えば分からなくもないと、彼女が歪んでいく過程を哀れに思いつつ、納得していた。

 どうせ最中は相手はまともに話せない、そういうやり方しか知らないエラーにとって、個性的な一人称などというものは矮小な問題に過ぎなかった。


 おかしくて堪らない。はは、と、乾いた笑いが口の端から溢れる。この期に及んで、恐らくは辛い経験をする前に戻るとは。

 もしかすると、自分のしていることは自分にしかできない人助けなんじゃないか、なんて冗談を言いたくなる程に、クレの一言はエラーを楽しませた。



 そして朝。

 寝ぼけ眼で体を起こしたクレの視界にまず飛び込んだのは、毛布とシーツである。所々が赤茶け、視力に問題のない人間であれば必ず異変を感じるような汚れ具合。太ももや背中の痛みも無視して、クレは膝を抱えるように丸くなり、頭をぐしゃぐしゃと掻いた。


「めんどくせぇ……おい、エラー。起きろ」


 体を揺さぶってもなかなか彼女は目を覚まさなかった。二人が肉体関係を持つようになってクレが知ったことと言えば、快楽とエラーの寝起きの悪さくらいである。この女はとにかく起きない。横たわる問題を片付けようと声をかけたのに、その女は新たな問題としてクレを苦しめた。


「こいっつ……はぁ……」


 行為の最中、エラーは脱がない。どこぞの阿呆が無意識で脱いでいた事を思い出すと、ここまで個人差が出るものなのかと、クレは少し不思議に思ったりもした。しかし、こういった場面ではエラーのようなタイプの方が有り難い。点呼まで時間が無いが、とりあえずは自分が服を身に付ければすぐにでも扉の前に並べるのだ。

 クレは手短かに着衣を済ませると、改めてエラーに声をかけた。揺すっても起きなかったので、結局髪を引っ張って強引に起こす事となった訳だが。


「いった……信じらんない……女の髪引っ張る? 普通」

「お前、昨日オレにそれをしなかったと神に誓えるか?」

「さってと、もう点呼の時間だね」

「オイ」


 直前に起こされといて何言ってんだ。言いながら扉を開けようとしたが、それはがしゃんという音を立てて、クレを阻んだ。早めに出れば誰にも見つからず、自分の部屋の前にしれっと並べると思っていたクレにとって、それは青天の霹靂だった。


「あぁ、開かないよ。開くのはブザー鳴ってから」

「はぁ? それじゃうちの連中どころか、看守にまで見られるじゃねーか」

「え、うん」


 エラーの発言を受けて絶句するクレであったが、それをかき消すように朝のブザーが鳴り響いた。同時に、扉の中から機械が動くような小さな音が聞こえる。クレが押すと、今度こそ扉が動いた。

 二人が出てきたことに、目を丸くするサタンとラッキー。その視線に気付かないふりをして、クレは自室の扉へと向かった。一方でエラーはエドの部屋の前から動かない。


「何をしていた?」

「調べものですけど」


 当然、普通の囚人がこんなことを言っても相手にされない。そもそも、一時的に空いた部屋を悪用するときは、必ず点呼の対策をするものである。具合が悪くて起きれないと、自室のベッドの中に物を入れて影武者とする者や、他の囚人に気を引かせて、その隙にこっそりと出てくる者など。大半が白々しい程に馬鹿げた手法であるが、言い訳が用意されていれば、それがどれだけ下らなくても、看守にとってスルーする口実と成り得るのだ。

 このとき、クレは終わったと思った。のこのこと二人で部屋から出てきたところを仲間に見られ、挙げ句の果てにはそれらしい言い訳も用意せず、看守に応対したのだ。彼女の考えは正しかった。彼女と一夜を共にした相手が現ボスだということを計算に入れなければ、の話だが。


「そうか。何か棟長に伝えることは?」

「今のところは何も」

「分かった。では点呼を始める」


 エラーは特権を行使し、何事もなくこの急場を凌いだのだ。心配した自分が馬鹿みたいだと、クレは囚人番号を呼ばれながら肩を落とした。


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