ACT.37
女はどこかから調達した煙草を手に、個室のベッドに腰掛けていた。ソフトパッケージのそれは、くしゃりと縒れたままベッドに投げ出されている。
つり眉にくっきりとした二重、たれ目のその女は、長い付き合いになるzippoで火を点ける。前髪をかきあげて、薄い唇でフィルターを銜える姿は一枚の絵のようだった。
床の空いたスペースでは、すっかり相方となってしまった女が腕立て伏せをしている。黒い長髪が床に付く事もお構い無しに肘を曲げるその姿は、お世辞にも女らしいとは言えない。
煙を燻らせる女に言わせれば、それは”どれだけ暇を持て余したとしても絶対にやらない”行為の一つであった。そんな行為に没頭する相方の上下する後頭部を視界の隅に納めつつ、深く息を吸い込む。
「全く。煙草なんて、わざわざ裏ルートを使ってまで吸う価値があるものか。いや、ないな」
「そっちこそ。腕立て伏せなんて、わざわざこんなところに来てまでやる必要あるかって感じなんだけど」
互いに互いの趣味をこき下ろしつつも、二人の口元は笑っていた。彼女達にとってこれは戯れ、ただのコミュニケーションに過ぎない。しかし、両者共それなりに立場があるので、あまり人前ではやらなくなった。
見せられる側としては生きた心地がしないだろうという指摘を、弟分であり現ボスのとある囚人から受けたのだ。それからは、こういったじゃれ合いは専らどちらかの自室で行われている。
一汗かいた後は好きに過ごす。それが彼女達のやり方だったが、冷え込むようになった最近は、このようにまるで陰と陽という程に差が付いてしまっていた。とっとと風呂に入りたいとぼやくと、女は燃え尽きた先端を小皿の上で弾ませてから、ベッドの上で天井と相対した。
「あ、おい。寝タバコは」
「起きてるじゃん」
「体は寝てるだろうが。私のベッドでそいつを銜えたまま横になるな」
「はいはい……ったく、アンタって本当にこういうとこうっさいっつーか」
「当たり前だ! 大体、今日はエラーの件で話し合おうと言ってたのに、貴様が」
「え? 私のせいにすんの? 盛って押し倒してきたの誰だっけ?」
「時間がなくなったのは、貴様が何度も『もっかい』と言うからだろう!?」
睨み合う二人は気付かない。扉一枚隔てた先に、来客が立ち竦んでいるということに。そればかりか、外に聞こえるような大声で喚き出す始末である。
意を決した闖入者は扉を強く叩き、反応を待たず、すぐに声をかける。
「あの! 失礼します! 634番、ムサシといいます! ナルシスさんにお話があるんで……す……?」
「やぁ。あの堅物ならそこで難しい顔してるよ」
出迎えたのは先程まで煙草を燻らせていた女、ハイドである。彼女は小言から逃れるように、扉へと向かった。ちょっと持っててと、フィルターを銜えさせられたナルシスはまさに踏んだり蹴ったりである。
興味本位でフィルター越しに息をしてみると、喉を焦がすような息苦しさに見舞われ、眉間に皺を寄せた。本音を言うならば咳き込みたいところであったが、見慣れない顔の前で醜態を晒す訳にはいかない。ナルシスはどうということもない、という顔をして扉へと歩いていった。
「……ムサシか。私は君の名前を知っている、が……話したことは、あったか?」
「あ、いいえ。恐らく無いと思います。あの、ちょっとでいいんです」
「いや大体の用件は想像がついている。どこぞの馬鹿のせいで臭いかもしれないが、良かったら部屋で話さないか」
ナルシスはムサシを部屋に迎え入れると、ベッドの端に座らせた。壁に背を付いて腕を組むと、どかっとトイレに座るヘビースモーカーにほとんどシケモクのようなそれを返却してから切り出す。
「ゴトー達の件だろう」
「……えぇ」
「私達も事情は詳しく分からないんだ。ただ、エラーが……」
「そーそ、あのエラーがね。ホント、ワケわかんない子だよね」
ハイドはトイレに座ったまま、棚の上に放り出されたマッチと煙草を手に取った。素早く火を付けて、すぐに股の間からトイレへと、燃えたそれを投げ入れる。
お世辞にも上品と言えないその所作にナルシスは小言を言いそうになるが、彼女の下品な所作をいちいち指摘していてはキリがない。ぐっと堪えて話を続ける。
「正当防衛という形でゴクイにはある種の鉄槌が下った。命に別状は無いが、リハビリが必要な状態らしいじゃないか」
「はい。それは間違いありません。その場にいた私達は、死んだとすら思っていました」
ナルシスはハイドに、”お手”の要領で手のひらを差し出す。煙草とマッチを乗せようとすると、ムサシの方を向いたままのナルシスが、ふざけるなと凄み、釘を刺した。見えずともお見通しであることを悟ると、今度は棚にあったハンドタオルを手に取り乗せてみる。合ってるかどうかは分からない。なんとなくそれを欲していると感じただけである。
手渡されたそれを一瞥すると、ナルシスは首の汗を拭いながら、話を続けた。
「君の気持ちは分かる。被害者なんだろう? ならば、重い処罰を望むのは当然だ。珍しくエラーがはっきりしないお陰と言うべきか、かつてのボスだった私達のところへ、似たような話がいくつか届いているよ。相談のような愚痴のような、実体はそのどちらでもない、”ってエラーに言っとけ”という、回りくどい言伝のようなものだと思っているが」
「みんな直接言う度胸ないんだよ。だから私達を使って用件をあの子に伝えようとしてるってワケ」
二人の、特にハイドの言い方は、そのつもりで訪れた人間にとって刺さる言い回しであった。彼女はあえてきつく言ったのだ。正直、ハイドは現状に辟易していた。ボスの座を下りて数年が経つというのに、少しでもエラーの判断が気に食わないとこの有様である。
実を言うと、二人に似たような話がくるのはこの件が初めてではなかった。といっても、今回ほど多いのは初めてだが。誰も真相を知らず、どちらが加害者なのか分からず、更に両者共に棟内の嫌われ者。様々な意見が噴出するのは火を見るよりも明らかだった。
「やれゴトー達の罰を重くしろ、やれエドはこのまま独房に閉じ込めておけ、やれゴクイにリハビリが必要ならいっそ別の施設に移せ、正直もううんざりだよ」
「まぁそう言うな。うんざりする気持ちは分かるが、曲がりなりにも私達はボスだったんだ。有事の際にこうして頼られるのは当然だ」
「ガッコの委員長みたいな奴なんだ、コイツ」
ハイドはナルシスを指差して笑った。不快そうにその指を睨みつけているが、ナルシスは否定しなかった。なにせ、元々この気質を買われてボスを頼まれたのだ。
張り詰めた空気が少し和んだところで、ムサシは二人が耳を疑うような発言をする。なんと彼女は、他人事のように”そんな人達がいるんですか、大変ですね”と言ってのけたのだ。
これにはハイドもナルシスも驚いた。自分は違うつもりでいるらしい。
久々に面白い女と出会えた。二人は視線を合わせてそう語らうと、改めてムサシの用件を聞く事にした。
「で? 君はそのどれなワケ?」
「どれでもありません。エドさんがいつ出てくるのか、二人にお聞きしたかったんです。本来ならエラーさんに伺うべきなのは分かっています。ただ、あの人は今、ちょっと変で……二人なら何かご存知かと思ったんですが」
「まぁ、ね。エラーが普通じゃないのは分かるよ。ずっと塞ぎ込んでるよね。よっぽどあいつらに酷いことされたんだろうね」
「あー……」
他の囚人達と同じように、この二人もまた、真実を知らない。ハイドの発言を聞いたムサシはそう確信した。所内では、エラーがゴトー達に暴行されたのでは、という噂がまことしやかに流れていたのだ。
そんなことでもない限り、エラーのあの落ち込みように説明が付かないというのはムサシにも理解できたが、それが事実ではないことを彼女は知っている。
エラーはセノを連れて突入したのだ。触れられてすらいないはず。にも関わらず、彼女は人前にあまり姿を現さないようになり、棟内のいざこざや小競り合いを完全に放置ときた。ムサシとてエラーを慕っている人間の一人だ。彼女の身を案じない訳ではない。しかし、物事には優先順位というものがある。
「えぇ。今はエラーさんの話はいいんです、エドさんです。おかしくないですか? 正当防衛なのに、こんなに長い間入れられるなんて」
「エラーの話はいいって……まぁいいや。エドが出てこない理由については想像がつくよ」
「本当ですか!?」
「あぁ。あいつがそれを望んでない、これっきゃないね」
「そんなこと……!」
ないだなんて、言えるはずがなかった。エドは元々、ムサシの罪を被って独房行きになったのだ。余計なことさえしなければ、あの日の夜だって、彼女は自室のベッドでぐっすり眠ることができた。
ムサシが下を向き、心当たりと葛藤する姿を眺めながら、ハイドはマッチを擦った。フィルターを銜え、ゆっくりと息を吐く姿を眺めながら、今度はナルシスが切り出す。
「ラッキーという囚人を知っているか」
「え、えぇ。エラーさんのところの新入りですよね」
「あれはなかなか特殊でな。ファントムに入所する前の所在を知っているか?」
「噂では、娑婆と聞きましたけど……」
「では、B-4区画に来る前は?」
「独房、ですよね?」
ナルシスが何故突然ラッキーの話を始めたのか、とんと理解できないムサシであったが、ようやく繋がったことに心がざわついた。
「聞いた話によると、ラッキーは大人しく過ごしていたそうだ。どれだけ理由をつけて期間を伸ばそうが、振る舞いに問題がなければ、閉じ込めておけるのは精々数週間前後というところだろう。永遠にあそこに閉じ込めておくことはできない。それがここファントムであってもだ」
「ある一つの条件を満たしていない限りは、ね」
ハイドはもったいぶるようにそう言って、ムサシを見る。彼女には大体の見当がついていた。
「反省の意思が見られない場合、ですか……?」
ハイドと視線を交錯させたまま、ムサシは意見を述べる。その声は掠れていた。そこでようやくムサシは、どうやら自分は喉が乾いているらしいということに気付いた。
「ご明察。君は物分かりがいいな。おそらく、エドは独房で吠え続けているのだろう。全く、B-4区画の連中は何かと慌ただしいな。エドとクレが医務室から戻ってきて、それほど時間も経っていないだろ」
「医務室行ったり独房行ったり、エドはおでかけが好きだねぇ」
茶化すようにハイドが言うと、ナルシスはくすりと笑う。やはり、何らかの理由で自分は利用されただけだった。その事実に幾ばくかの寂しさを覚えつつも、ムサシは折れなかった。恩は恩だ。
「で。エドがいつ帰ってくるのか知りたいと言っていたが、それは何故だ」
「エドさんには恩があるので、戻ってきて欲しいんです」
「恩!? あいつに!? ムサシ、悪いことは言わないよ、あいつに恩義を感じるのは間違ってる。いつだって損得勘定で動いてるんだから。たまたま利害が一致しただけで」
「分かってます。そもそもほとんど面識も無かったですし。でも私は助けられたんです。どうしても、お礼がしたいんです」
ムサシの視線は、真直ぐにハイドを見据えていた。嘘偽りのない、そして一歩も引く気のない瞳であった。観念したように声を発したのはナルシスだ。彼女もまた同じように、ムサシの真剣さに当てられてしまったのだ。
「助けたって、一体何があったんだ」
「ゴクイを鉄パイプで殴ったのは私です」
「え? 今なんて?」
「棟長が駆けつけたとき、エドさんは自分がやったことにして、独房行きになってしまったんです」
ムサシの暴露を聞いた二人の目は、点になっていた。目の前にいる小さな、成人にすら見えないような、少女と呼んでも差し支えないような小柄な女性が、あの巨漢を鉄パイプで殴り、沈めたという。比較的早めにショックから立ち直ったハイドがムサシに質問を投げかける。
「待って。殴ったの? なんで?」
「ムカついたからです」
「え?」
「殺す気でやりました」
「えぇ……」
「リハビリが必要な状態と聞いた時は心底がっかりしました。長物の扱いには自信がありましたが、人を死に至らしめる急所までは熟知していなかったので。未熟でした」
「ねぇナルシス、この子1mmも反省してないんだけど。独房入ったとしたら絶対出てこれないんだけど」
突然のカミングアウトにより、張り詰めていた空気は一瞬で消散した。無表情でムサシを見つめ続けるナルシスに、手のひらで額を押さえるハイド。彼女は煙草に火を点けることすら忘れ、しばらく燃焼しないそれを銜え続けていた。
「あー、なんかね、拾ってきた子猫が実は虎だったって気分。分かる?」
「えと、ごめんなさい……?」
「あのさ、えーと……まぁ、ここに来るくらいだもんね、ただの優等生なワケないか」
「あぁ。思い出した」
表情を変えないまま、ナルシスがぽつりと呟く。このどうしょうもない状況を変えてくれるならなんだっていい。そんな縋るような思いで、ハイドは彼女を見つめた。
「ササイさんが言っていた剣道少女が、確かムサシという名前だった」
「……なるほどね」
彼女の名前が出ると、ハイドはやっと銜えていた煙草に火をつけ、シリアスな調子を取り戻した。元々彼女と交友があり、顔の広い二人である。ササイと親しい者が、ゴトー達にどういった感情を抱くかは、想像に容易かった。
「よく殺さなかったね」
「出来なかったんですよ、言ったでしょう」
「そうか……しかし、不幸中の幸いだろう。殺せなかったことを残念に思っているようだが、客観的に見れば、ムサシのような若い子が、あの下衆の命のせいでここに長く足止めを食らうのは勿体ない」
「そう、でしょうか……」
「エドがなんでムサシを庇ったのかは分からないけど、あの事件からもう二週間は経ってる。戻ってこないのはあいつの意志だと思うよ。だからこちらからしてやれることは何もない。分かる?」
ハイドは話をまとめると、些か強引にムサシを頷かせた。しかし、こんな大胆な行動を取れる囚人が居たとは。彼女は内心、舌を巻いた。とんだワイルドカードである。
ムサシはというと、言葉の意味は理解しているようだが、エドが戻ってこようとしないことが残念で仕方がないようだった。
「もし戻ってきたら、またおいでよ。ゆっくり話ができる最高のお膳立てをしたげるよ。ね、いいでしょ、ナルシス」
「あぁ。ササイさんには我々も世話になった。それくらいしか出来ないが、その時は是非頼ってくれ」
「……ありがとうございます」
少し癖はあるものの、二人の元ボスは優しかった。ムサシは二人の心遣いに感謝し、部屋を出る前、一礼をしてから去っていった。
扉が閉まると、ハイドは「ここ、道場じゃないんだけど」と言い、ナルシスを笑わせた。
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