ACT.36


 エラーはセノに対して、妙な気を回す男だと常々思っていた。入浴時間を細かく区切り、区画毎にローテーションさせると言い出した時も、彼女は呆れたものだ。

 一応その訳を聞くと、クレやムサシのような囚人への配慮だと言う。言わんとしていることはエラーにも理解できた。暴行を働きそうな危険人物はゴトー達だけではない、ターゲットになりそうな人物もまた然り。監視が手薄になるタイミングで、複数人が集まって悪企みを働く機会を潰そうとしているのだろう。

 だからと言ってここまでやるか。自信を失くした等と言っておきながら、やれるだけの事を実行する姿勢に、エラーはほっとしていた。

 セノはこうでなくては。彼がいつもの調子を取り戻しつつあると実感したのだ。


 細かく時間を区切ると、刑務官の負担も増える。これらはあくまでも、様々な状況を鑑みた応急処置のようなものあり、せいぜい二週間程度の処置の予定だ。

 期間中にゴトー達の一件について、何らかの結論を出さなければいけない。反乱が起こったり、模倣犯が決して出ないよう、大多数の囚人が納得する何かを。

 セノは自らにそう課し、エラーをも巻き込んだ。かつてのように、ボスとして強さを誇示し、その座を更に揺るぎないものにしたいという気持ちは持てなかったが、所内の暴動など彼女は望まない。断る理由はなかった。

 これがボスとして最後の仕事になるかもしれない等と考えつつ、彼女はセノの提案に乗ったのだ。



 そんな訳で、サタンは大浴場にいた。そして、隣の女の体に驚愕していた。寒いと言って、不格好に首に巻いていたタオルが傷を隠す為のものだったと知り、その痛々しさに思わず視線を逸らす。

 キスマークであったなら冷やかし甲斐もあっただろう。しかし、白い首に浮かんでいたのは、ひっかき傷以外には考えられない、真っ赤な直線である。

 ボディソープを出そうと軽く捻った体は、サタンに無防備に背中を晒した。首の傷跡が可愛く見えるほど、背中の爪痕は苛烈である。遂に我慢出来なくなったサタンは、珍しく進んで訳を聞いた。


「クレ、それ……」

「……あぁ、気にすんな」

「でも」

「別に、どうってことねぇよ」


 エラーはセノと打ち合わせ、エドは相変わらず独房。ラッキーは昼寝。個性的なB-4のメンツはそれぞれの時間を過ごしており、数日毎の日課とも言える入浴に顔を出したのは、半数にも満たない二名であった。

 しかし、この二人は直接的な接点があまりない、エド辺りが見かけたならば「珍しいなオイ」等と笑っていたであろう取り合わせだ。不仲ではないが、話す理由が無い。互いに言葉は通じそうだという認識はあるが、如何せんタイプが違い過ぎた。

 サタンはやんわりと遠慮する程度だが、クレがとにかく気を遣っていたのだ。こんな図体がデカくて柄の悪い女に絡まれたら迷惑だろう。心の何処かで負い目を感じていた。

 もっとも、いくらクレがサタンにそんな感情を抱いていたとしても、クレよりも更に品が無く、柄の悪い女であるエドが遠慮というものを知らないので、全く意味がないのだが。


「答えてくれないんだろうけど、誰にやられたの?」

「答えてやらねーよ」


 どう見ても滲みそうな傷口が、みるみる内に泡にまみれていく。クレは痛覚を失ってしまったように、無表情で体を洗った。痛いだろうに。サタンは気付くと、背中の傷跡に触れていた。


「なんだよ」

「もう少し優しく洗ったら?」

「いいんだよ」


 言い終わるや否や、クレはサタンの手を引き、そのまま体ごと抱き寄せる。全く警戒していなかったせいか、クレの胸の中に飛び込む形となったサタンだが、柔肌に抱き止められても尚、自分の身に起こった事を理解できずにいた。


「クレ……?」

「……何してんだろうな、オレ。悪い」


 すぐに手を離し、頭を掻くクレ。サタンは目の前の美女に、自分が何を求められているのかを計りかねていた。いや、クレの望みは分かっていたが、彼女がそんなことを求めるとは思えない。サタンはただただ困惑した。


 体を洗い終え、湯に浸かる頃には、口を開けるような雰囲気ではなくなっていた。縁に肘を付き、首筋の傷を撫でるクレを見て、サタンは直感する。あれをやったのはエラーだと。

 エラーがサタンを巻き込み、様々な当番を放棄したあの日。彼女は「全て無駄になった」と言った。それが何を指すのか、未だに本人からは聞けていない。ただ、サタンは直感したのだ。もしかするとそれは、クレとの関係だったんじゃないか。と。

 しかしそれを指して「全て」と言うのは、些か大袈裟である。そしてサタンはさらに思い出す。エラーを押し倒した日のことを。日頃の傍若無人な振る舞いを。そういった点を線で結んだ結果、サタンの指は、遂にその確信へと触れたのだ。


「エラー?」

「はぁ? なんだよ、急に。あいつがどうかしたのか」

「……ううん、何でもないわ」


 サタンは追求することをやめた。二人の間に何があったのか、詳しく知るのはエラーの口からがいいと考えたのである。

 それを聞いたとき、おそらくは本気でエラーの死を望んでしまう予感があった。だけど、もう止められない。


 サタンはクレの背後から抱きつくと、胸を押し当て、耳元で囁いた。

 さっき、私に触れようとしたでしょう、と。

 背中から分かるほどに動揺が伝わり、サタンは楽しそうに目を細める。


「さ、サタン、オレは」

「だめ。前を向いていて」


 クレは顎を優しく掴まれ、その指に一切抗えなかった。力が強い訳でも、何かを人質に取られている訳でもない。だというのに、従うしかなかった。


 サタンはどういった経緯で、二人が関係を持つことになったのかを知らない。興味もなかった。ただ、自慰を覚えたばかりの子供のように、自身の欲求を制御しきれていないクレが可笑しかった。


 細い指でクレの背中を、いや、背中の傷をなぞる。薄い肩が震えた気がしたが、サタンは気にせず続けた。


「痛そう。でも、クレは痛くなかったんだよね」


 慰めるような声色が響く。痛かったに決まってる、クレはそう答えることも出来たが口を噤んだ。その傷にはそれ以上の、別の印象が有るせいだ。


「綺麗な肌が台無しね。本当に、可哀想」


 痛みを再燃させるように、爪痕をなぞる女がそう言った。どの口が言うんだ、そんな非難の声が聞こえてくるかもしれないと踏んでいたサタンだったが、クレは思いのほか大人しい。頬と耳を上気させ、言いつけを守るように、ただ前を見ていた。


「ねぇ。どういうことか分かる?」

「……そりゃ、こんな風になって幸せだと言う奴のがイカれてんだろ」


 クレの背後で、小さな水音が鳴る。指先で押さえられていた傷口が解放された。しかし、すぐに別の何かがそこに触れる。

 滑った感触、生暖かい何か。舌だ、そう気付いて反射的に体を捻ろうとしたが、いつの間にか腰を抱かれており、逃げ出すことは叶わなかった。


「そう。じゃあ私はある種イカれてるのかもね」


 顎に触れていた手は、クレの胸へと伸びていた。包み込むように触れると、クレはそこに自身の手をそっと重ねる。引き剥がそうとでもしているのか、サタンはクレの反応を待つように、手の代わりに口を動かした。


「可哀想だし、幸せだと思う。セックスに溺れる人なんてたくさんいるけど、痛みを凌駕する程のそれに出会える人は稀だわ」


 クレの身体が小さく震える。腰に巻き付く腕、胸を包む掌、背中にくっついたまま熱い吐息を吹きかける唇、そのどれがクレに悪さをしたのか、サタンにははっきりとは分からない。むしろそのどれもが見当違いで、自分の吐いた言葉こそが、彼女の性感帯に触れたのかもしれないとも思えた。

 そんな中、クレは不自然なほどに会話に集中していた。彼女自身、答えを探しているような必死さが窺える。


「……可哀想ってのは?」


 本来ならば、聞くまでもないことだった。彼女はたった数分前、自分で言ったのだ。これほどの怪我を見て可哀想という感想が湧くのは当たり前だ、と。

 しかし、聞かずにはいられなかった。サタンのそれには、別の意味があった気がしたから。クレ自身も、どこかでそれを分かっていて手を伸ばしてしまったのかもしれない。

 よせばいいのに、賢い誰かが味方ならきっとそう言って止めてくれた。しかし、は、クレのまだ治りきっていない背中の傷口に、キスを落とすことに夢中になっている。


 あーあ、聞いちゃった。サタンはニヤけながら口を離した。そして、額を目前の背中にぴとりとつけて言う。


「クレ、もう普通のそれじゃ満足できないんじゃない?」


 沈黙が続く。クレは否定するでも肯定するでもなく、俯いた。

 聞かなければ良かった。言われる前からそんな気はしてた。クレの頭に、同時にこの二つの言葉が浮かぶ。沈黙は二人の間に気まずさしか産まない。


「私で試してみる? 生憎、普通の方しか出来ないけど」


 返事は無いが、サタンは構わず続ける。


「クレみたいな子が急に性に目覚めるなんて、なんかえっちだね」


 そして、鈴を転がすように笑った。返事を待たず、硬直する体から離れる。


「冗談だよ。ちょっとからかっただけ。でも、他の子にあんなことしたら駄目だよ? クレ、美人なんだから。普通の子なら落ちちゃうよ」


 サタンはそう言って立ち上がると、出入口へと歩いていく。


 ——まるで自分はじゃないような言い方だな。


 言いそびれた言葉が、しばらくクレの頭の中で響いていた。


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