ACT.35

 エラーは囚人服として着用が義務付けられている作業着を久々に着崩していた。冷え込む所内で、負けじと前を開けて歩いている者も少なからず存在したが、彼女にそんなポリシーはない。ボタンを閉めた方がいくらか暖かいのなら、そうするまでである。夏は着崩し、冬はきっちりとボタンを閉める、それが彼女の着こなしだ。

 そんな女が柄にもなく着崩すには訳があった。制限なく稼働する室内の暖房を、その身で体感したかったのだ。ココアを啜りながらセノの後ろ姿を見つめると、自然とため息が出た。そう、彼女は棟長室に居たのだ。


「よく来てくれたな」

「呼んだんじゃん。私が話をしようとしたときは出張だとか言ってたのに」

「それは仕方がないだろう。オレにだって仕事があるんだ」

「そうだね。私達クズとは違う」

「……エラー、どうした?」


 来客用のソファにエラーを座らせ、向かいに腰かけると、セノは安堵の表情を浮かべた。彼女に相談したいことは、それこそ山程あったのだ。ササイの待遇、ゴトー達の処遇、新たに万延しはじめたドラッグについて。エドとクレの一件も、何か進展があるのなら知りたいと考えていた。

 しかしそんな話題を一先ず横に置いて、妙に自虐的なエラーの言動をセノは訝しんだ。無駄話をしている時間はないと分かっていても、問わざるを得ない。


「ううん、ごめん。なんでもない」


 エラーは初めてクレに手を出してから、箍が外れたように行為に耽っていた。自己嫌悪と性欲がせめぎ合う中、これまで自制していた分を取り返すように回数を重ねていく。

 彼女の嫌悪は強烈で、情事の中ですら快楽を上回ることがある。しかし、最中のそれがいくら上回っても、背徳感というスパイスにしかならなかった。だから始末に追えない。エラーは自分と相手が壊れていくような、その感覚が嫌いではなかった。そしてまた事後に頭を抱えることになる。

 だけど止まれない。エラーの中では、灯るべきではなかった炎がずっと揺らめいている。痛みと快楽に翻弄されるクレ、自己嫌悪と性欲で揺れるエラー。エラーはクレの首と同時に、自分の首をも締めているのだ。彼女自身がこの構図に気付き自嘲したのは、長い髪に触れたまま目を覚ました、今朝のことである。


「何かあったなら言え。力になれるかは分からないが」


 エラーがここ数日所内に姿を現していないという噂を思い出しながら、セノは言った。実態は隠れてクレとの情事に耽っているだけなのだが、色恋沙汰とは無縁だったエラーがそんな生活を送っているとは、B棟の下品な囚人達もゆめゆめ思っていないらしい。

 看守達には点呼という必ず声をかける機会があるが、彼女を捕まえたい囚人からすれば難儀なことだ。ゴトー達の一件もあり、囚人達は精神的支柱を欲しているのだと彼は考えていた。


「そういえば、最近昼間はどこにいる」

「さぁ。どこだろ。ふらふらしてるよ」


 エラーは答えになっていないような返答をし、あからさまに煙に撒いた。これ以上は聞いてくれるなという、彼女なりの牽制である。人目につかない場所を選んでクレと楽しんでいる等と告げる事は、いくら仲の良いセノが相手でも憚られた。


「みんなお前を頼りにしてるんじゃないか」

「はは。どーだろうね」


 大事なときに姿をくらますなと、暗にクレームをつけられた事に彼女は笑った。誰も自分を頼ってなどいないとでも言いたげな表情に、セノは僅かに眉を顰める。

 彼が感じる通り、今のエラーはこれまでとは少し違う。模範的なボスであることを放棄し、半ば自棄になっているのだから。しかし彼女には、これまで培われてきた感覚と、元より持ち合わせた利口さがある。

 好き放題し過ぎたゴトー達が厳しく罰せられることを望んでいたり、奴らが回すヤクに骨抜きにされていたり、彼女達がどうなるのか知りたくて堪らない連中がそわそわしている、ただそれだけの事だと大局を見ていたのだ。


 そして、エラーにとって、それらは既にどうでもいいことだった。なんでもいい、どうでもいい。頭の中で何度も吐き捨てた。欲求から目をそらす為にボスになったというのに、結局は欲にまみれた手で、同じ区画の仲間を犯したのだから。もうエラーには、ボスを続ける意思はなかった。そうする意味すら、分からなかった。

 今の彼女は目的を喪失しながら、これまでとほとんど変わり映えのしない働きをするという、ちぐはぐな状況に陥っている。役割を降りると言えば、すぐにでも終わらせることが出来るのに、気持ちはまだ声に成らない。もしかすると、これまでボスとして働いてきた意地のようなものがあるのかも知れなかった。

 しかし、彼女のそんな感情は、性欲のために全てをなげうった自分自身の手によって、より踏みにじられることになる。今後は自分の欲求の為にボスをやるという、凶悪な思い付きをしてしまったのだ。幸いなことに、まだ決心はついていないが。

 もしその決心がついていたら、ゴトーの処遇については任せて欲しいと告げ、身柄を預かって闇に葬っただろう。障害になりそうな人物は消しておくに限る、冷徹な彼女はそう判断するに違いない。


「ゴトーについて、率直に言ってどうすべきだと思う」

「棟長がそれ聞くの?」


 投げやりになっている自分よりも、はるかに投げやりな対応に、エラーは短く笑う。紙コップに口をつけた瞬間の発言だった為、吐いた息に弾かれ、ココアが指に飛ぶ。それを舐めながら、エラーはセノの独白に耳を傾けた。


「オレは……思い上がっていた。この棟を少しでも平和にしたいと思っていた。その為に努力できるとも思っていた。しかし、どう足掻いても、オレは刑務官でお前達は囚人だ。この隔たりは思った以上に大きい」

「あのさ、そんなの最初から分かりきってたことじゃん。その為に私達が手を組んでんじゃないの?」


 男に甘えられるのは好きじゃない。内心でセノに呆れながら、エラーは淡々と事実を述べる。暗黙の了解とはいえ、そもそもボス等というものを刑務官達が許す理由はそこにあるのだ。


「ま、分かるけどね。クレも、ムサシでさえも、セノには何も話してくれなかった。違う?」


 彼女はいとも簡単にセノの心が折れかけた要因を言い当てると、ココアをぐいと飲み干した。彼は何も言わない。ただエラーの向かいに座り、机を睨んでいた。エラーは立ち上がり、ココアの粉末が入ったスティックの袋を破るとコップの中にあける。そして、湯を注ぎながら続けた。


「でもさ、こんなこと言うのなんだけど、私達って訳ありのクズだよ。分かり合う必要なんてなくない?」

「オレはそうは思っていない。お前についてはグレーゾーンだがな。少なくともムサシとクレについては同情できる点が多々ある」


 プラスティックのマドラーを動かす手が止まる。セノが罪状によって囚人を区別しているとは知らず、エラーは少なからず驚いたが、一番の問題はそこではない。


「……ま、聞かなかったことにするけど。いくらボスとは言え、囚人の罪状を勝手にバラすのはマズいんじゃないの?」


 クレからはここに来た経緯を聞かされてはいたが、ムサシについては何も知らない。愛想のいい後輩。人懐っこい妹のような存在。サタン同様、一見しただけでは、何故ここにやってくることになったのか、皆目見当もつかないような女。エラーは彼女にこの程度の印象しか持ち合わせておらず、今後深く関わる予定もない。

 強いて言うならば、今回の一件で、彼女の狂気に触れた気はするものの、それだけでどのような罪を犯したか想定するのはほぼ不可能である。

 しかし、セノに同情されているということは、少なくともそうせざるを得ないような理由が窺えたということだろう。エラーは無意識のうちに、少しほっとしていた。


「そうだな。細かくは言わん。オレはそんな風に思ってた囚人達に全く相手にされなかった、ということだけ分かってもらえれば、それでいい」

「いじけないでよ……」

「いじけてなどいない。おかげで目が覚めた」

「つまり?」


 組んでいた手を膝の上に置き、セノは姿勢を正す。そして、突き抜けるように広がった窓の外へと視線を向けた。


「内情に詳しいお前が指示を出し、権限を持つオレがそれを執行する。今までだってそうしてきた。これからもそうだ。思い上がった最近のオレは、それを忘れていたんだ」

「……ゴトーについてはまだ時期じゃない。引き続き独房にブチ込んでおいてよ」

「分かった」


 エラーはセノにつられて、窓の外を眺めながらそう言った。



****



 小柄な体が軽やかに跳ねる。束ねられたしなやかな髪が生き物のように舞う。

 ムサシはB-4区画へと走っていた。理由もなくボスが居る区画を訪ねる囚人はいない。彼女達に気味悪がられてはいけないと、人目につかない柱の影を利用して、ここ数日ずっと張っていたのだ。


 彼女は待っていた。自分を庇ってくれた、自分と同じように小柄で、そして自分とは正反対に横柄な女を。

 施しに対して礼を言うのは道理である。いや、むしろそうしなければ気が済まない。非常に律儀な性質を持った彼女は、飽きもせずにエドの帰りを待ち続けたのだ。


 ——ゴトーとエドの証言は概ね一致している。さらにゴトーはササイへの暴行も認めた。ムサシ、君から何かを聞いても、肉体的に苦痛を強いたり、社会的に不利になるような待遇をするつもりは一切ない。全て正当防衛として処理すると誓う。我々はただ、真実が知りたいだけなんだ。


 彼女は棟長室での会話を思い出す。初めて入ったその部屋は、想像していた以上にまともな空間で、窓の外さえ見なければ、どこぞの企業の役員室を彷彿とさせた。

 彼は善良な棟長であり、信頼に値する男だ。ムサシは少なくともそう感じた。


 ——エドさん達の言う事に間違いはありません。確かに私はあのパイプが腐っていることを知っていました。しかし、それは当番に参加したことのある囚人であれば、誰もが知っていることでしょう。


 セノを信頼に値すると評した上で、ムサシはそう証言した。エドが自分を理由なく庇う訳がない。聡明な彼女にはそれが分かっていたのだ。

 ゴトーとゴクイの二人が暴行を認め、それを返り討ちにしたということになっているエドもいる。

 一件落着で解決したように見えるそれを、何故わざわざ蒸し返す必要があるのだろうか。誰があのクズ共を殴ろうと変わらないじゃないか。ここで自分が「実は私がやりました」と言って何が変わるのだろうか。ムサシはしつこく尋問されることに、小さな不信感を抱いていた。



 B-6区画634番、ムサシこと一之瀬いちのせ みやびは、友人の為に殺人未遂事件を起こした。そしてその役割を全うし続ける為に脱走を図り、ファントムの住人となったのだ。


 友人というよりも、幼稚園の頃からの付き合いになので、いわゆる幼馴染と呼ばれる間柄である。同性、同い年、近所に住んでおり、親同士の仲がいい。二人が仲良くなるのは必然とも言えた。

 そうして迎えた中三の冬。公立に通っていた二人は、ここで初めての受験を経験する。どちらも学力には問題がなく、選択肢はたくさんあった。大学の進学率もそれなり、望めば芸術やスポーツに注力した生活も送れそうな高校に二人は進学する。

 ムサシは剣道の才に恵まれていた。専門紙で小さく取り上げられたりと、業界からの期待も高く、同年代で彼女の名を知らぬ者はもぐりとすら言えた。


 幼馴染とクラスは離れてしまったものの、充実した生活を送っていた高校二年の夏のある日。彼女がいじめられていることを知った。部活に少年団にと、剣道に打ち込んでいたムサシは、事態が悪化するまで全く気が付かなかったのだ。

 インターハイに向け、最後の追い込みをしている時期だった。彼女は普段から鍛錬を怠らない勤勉な性格だったが、大きな大会が近付くと、より気を引き締めて練習に励む。大会直前で故障してしまうことも少なくなく、今回こそはと、彼女なりに適度な休憩を挟んで臨んでいた。

 そして息抜きに、気まぐれに二軒隣の幼馴染宅を訪ねて、事態は発覚したのだ。突然の来訪に備えていなかった彼女は、半袖にショートパンツという、ごく平均的な夏の装いでムサシを出迎える。久しぶりに遊びにきちゃった、などと言いながらドアを閉めたムサシだが、幼馴染の体の異変に気付くと、殺気立った表情で訳を聞いた。


 イジメと称した過激な暴行は日に日に友人を蝕んでおり、ムサシが体の痣について聞くと、彼女は「最後まで知られたくなかった」と言った。

 最後って、何だ。死ぬってことか。珍しくムサシが声を荒げると、幼馴染である彼女は、他人事のように淡々とこれまでの出来事を述べた。それは無視から始まり、暴行にまで至った経緯である。まともな神経をしていれば、とても平常心で聞いていられるようなものではない。

 ムサシはそれまで何も知らず、のうのうと過ごしていた自分を責めたが、彼女は「だから知られたくなかった」と言った。反撃の意志を持つのはムサシだけで、当の本人は「あと一年ちょっとの辛抱だから」と、事を荒立てることを嫌がったのだ。


 余計な事はしてくれるなと釘を刺されて以来、ムサシは悶々とした日々を送っていた。彼女が泣こうが笑おうが、当然、時間は平等に流れる。気がつくと、インターハイ当日を迎えていた。優勝候補と謳われていたムサシだが、そのような驕りは無い。

 早朝、精神統一もそこそこに、会場に向かうバスへと乗り込む。バスが発車する直前、一通のメールが届く。それは幼馴染の彼女からだった。恐らくは応援のメールだろう。ムサシは僅かに表情を綻ばせるが、メールを開くとそんな気持ちはどこかに吹っ飛んだ。

 『助けて』。本文にはそう書かれていた。気付くとムサシは刀袋を引っ掴み、弾かれるようにバスから飛び出していた。まずは家に向かおうと足を向けたが、辿り着く前に彼女は見つかった。往来の多い道を、彼女と複数の男女が曲がる。その後ろ姿を捉えたムサシは、さらに速度を上げて追いかける。


「だからー、あたしらはカラオケ行きたいって言ってるだけじゃん?」

「金が無いんだよ。俺ら友達だろ? な?」

「もう相手のオッサンもあっちでスタンバってるから。よろしくね」


 反吐が出るような会話が路地に響く。下卑た笑いを浮かべる男女のおぞましさに鳥肌を立てたのは、呼ばわりされた彼女だけではなかった。路地の入口に立ち尽くしていたムサシもまた、同じように嫌悪し、恐怖した。

 自身の体が震えている事に気付く。しかし、彼女は無防備に後ろ姿を晒すクズ共を、爛々とした目で睨み付けていた。彼女が恐怖したのは彼らの醜悪さではなく、その醜悪なものに向けられた自らの殺意である。

 そして、自身の体を抱き、この震えが武者震いである事を確信する。刀袋の紐を解くと、竹刀ではなく木刀を掴む。その選択に躊躇は無かった。


 ムサシは試合会場ではなく、幼馴染の前で長物を振るったのだ。平時ですら、彼らが背後から奇襲を受けてムサシに敵う確率はゼロに等しかっただろうが、その日は試合に向けて鍛錬を積み、珍しく故障なく迎えられた大会の当日である。まさに絶好調だった。

 あっという間にその場にいた五人を血祭りにあげたムサシは、頬に返り血を滴らせながら、幼馴染に手を差し伸べたのだ。


 その決断に、今も後悔はない。有段者の自分がその道具を使って動けば、単なる暴行ではなく、殺人未遂となることも分かった上での行動だ。ムサシはあの日の自分の勇気を讃えはするものの、恥じたことは一度もない。


 これまでずっと、守る側の人間として生きてきた。ムサシにとって、それは当然の事で、その役回りを損だと思ったことすらない。

 それが今回、初めて誰かに庇われたのだ。例え相手が悪名高い商売女だとしても、義理堅い侍はその恩に必ず報いるつもりで、物陰に潜み続けた。

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