ACT.39
人の嗅覚というものは、存外早くにイカれるらしい。
独房で二週間以上過ごしたエドの率直な感想である。気が向けば自慰に興じ、刑務官の気配を感じては大声で吠える。ただそれを繰り返し、疲れれば眠っていた。
深夜でも構わず見回りがあり、独房には窓もないことから、彼女の時間感覚は最初の数日で狂っている。昼なのか夜なのか、独房に入れられてから何日が経ったのかも、今のエドには分からなかった。
外に出ても何も無い。いや、ここを出たくない理由だけが存在しているのだ。その為に、光すらも届かない空間に縋るようにしがみついた。
彼女自身、何を拒絶しているのか、何から逃げているのか、分からなくなっていた。エラーに軟化した態度を見せるクレが嫌なのか、あの赤い髪を視界に収めること自体が嫌なのか。もしかしたら、そのどちらも理由としては間違っていなくて、更に半端に事情を知っているラッキーに冷やかされることも嫌なのかもしれなかった。
とにかく、外にはエドがうざったく感じる様々なものが待ち受けていたのだ。ここに居ても、憂さ晴らしできるようなものは何もなく、手が何かで汚れても自由に洗うことすらままならない。
更に、いつのものとも知れない先人達が残した汚れを踏まないよう、部屋の四隅を避けて過ごすことにも疲れていた。それでもエドは、地獄の肥だめのようなこの場所を、天秤にかけた上で選んだのだ。
環境に慣れると、次第に生まれるのは余裕である。それはすなわち、これまで気が回らなかった事に脳内のリソースを割けるようになってしまった、ということである。
自慰が自慰として機能していたのは始めの数日のみである。あとはただの時間潰し、現実逃避。ここ数日はむしろ、自身の性器には触れたくないとすら考えていた。当然だが、回数を重ねる度に下着は汚れていく。しかし、体を清潔に保つ術など、この暗闇の中には存在しない。数日に一度、見兼ねた刑務官が食事のトレーにウェットティッシュを数枚添えることがあったが、プラスマイナスで言えば、明らかにマイナスだった。
臭いが気にならなくなった要因として、鼻が慣れてしまったのと同じくらい、彼女自身が周囲と比べて遜色無い程に悪臭を放つようになった、という事も挙げられるかもしれない。
環境に慣れ、頭はクリアになってきた。自慰もできるだけしたくない。看守が見回りに来た時以外は大声で騒ぐ必要はない。この常闇に閉じ込められた初日から頭にこびり付いて離れないのは、やはりエラーに抱きつくクレの姿。当然のように抱き返すエラーの背中。
このことは、前進も後退もせず、エドの中でただの事実として横たわり続けていた。彼女に暴行を働いた自分が信頼出来るボスと同等に扱われる訳もないと理解していたし、かと言って二人が特別な関係とも思っていない。
そんなことよりも問題は他にある、とエドは感じていた。つまり、自身がいつまでもそれをウジウジと気にしている、という点である。しかし、ここまで来ても往生際の悪い馬鹿女は、己の気持ちを認めようとはしなかった。
あの情景を思い出すと、ぐるぐると似たようなルートを辿り、最終的には女々しい自分に苛立って、強引に思考を中断させるのだ。
そして、彼女は少し前から、別の出来事を思い出すようになっていた。それは黙っていると約束したことに対する口止め料をラッキーに支払った時のことである。
——ねぇ、楽しかったんでしょ
——うるせぇ
——否定しないんだ
——てめぇに関係ねぇだろ
——あそこに指突っ込んでめちゃくちゃに掻き回したんでしょ
ラッキーはエドがクレに何をしたのか、逐一確かめるように、時には自分達の体をそれに見立てて模してまで、暴行の詳細を聞きたがった。
「楽しかったんでしょ、か。楽しかったに決まってンだろ。あのイケ好かねー女の泣き顔が、楽しくねぇワケねーんだ」
エドは、その時にラッキーに言い返せなかった分を取り戻すように、思い出せる彼女の発言に対して、ぽつりぽつりと反論していく。
「めちゃくちゃに掻き回さなきゃ意味ねーだろーが。あいつが吐いても、やめてくれって泣いても、血が出ても、あたしはやめなかった」
エドの行為はクレを苦しめる事を目的としていた。だからこそ、クレはエドの暴行に
本当の鬼畜は、女を人として扱わない。性癖に関しては存外まともな感覚を持ったエドである。それは、彼女一人では、到達できない領域であった。
「アイツ。誰にも言わないって、約束したくせに。よりにもよって本人に言いやがって。あたしがあのクソバカとヤったの、なんだったんだよ」
厳密に言うと、ラッキーはエドとの約束を破ってはいない。”当時者以外には伝えないようにする”という言葉を、エドが”誰にも”と解釈しているに過ぎないのだ。それにしても不憫な話ではあるだろう。彼女にしてみれば、約束を反故にされたにも関わらず、報酬は先払いで済ませてしまっているのだから。
口が恨み言を放つ間に、記憶は奔流する。そして、それは彼女の意思とは関係無しに、頭の中に浮かびあがる。
——あの子の熱い吐息を耳に受けながら、どんなこと考えた?
「……うるせぇんだよ、そんなモン覚えてねぇよ」
普段の言い回し同様、ラッキーの質問には含みがあった。いや、少なくともエドにはそう感じたのだ。後ろめたい心当たりがあるからこそ、彼女の言い方が余計、癇に障った。
覚えていないというのは嘘、ただの悪あがきだ。特にその内の一回は”忘れられないでいる”と表現するのが適切な程、気まぐれにエドに思い出されてみては彼女を苦しめた。
暴行の直後、壁に背をついて、動かなくなったクレを見下ろした日のこと。
彼女は下着もつけず、だらしなく脚を開いて局部を露出させたまま、涙を流していた。散々弄んだエドであったが、放心するその様子を大袈裟だとでも言うように、彼女の体を足蹴にし、舌打ちをする。
それでも全く反応が無かったので、エドはすぐ隣に座って、手の平で覆えそうな小さな窓の外を見た。どれほどそうしていたかは分からないが、雲間から半月が顔を出すまでのしばらくの間、壊れた人形のようにただ静かに涙する女の傍らで、エドは狭い空を眺めたのだ。
その月を見るとエドは、自分達が一体何の為に存在しているのか、いや、何かの為に存在していなければいけない気がして、途端に焦燥に駆られた。だけど、エドには若い体と、持ち前の喧嘩っ早さ以外何もない。本人もそれをよく分かっている。
一方で、クレは恵まれていた。生まれ持った美貌を武器に芸能活動をするなど、殆どの人間は経験できぬまま生涯を終えるだろう。そんな彼女がこうして陵辱の限りを尽くされ、放心しているのだ。
いい気味だと思う気持ちに偽りは無かったが、同時に、少し虚しくも感じた。エドは自分の感じたこの気持ちの理由を突き止めようとしたが、それは叶わない。
彼女の思考を邪魔するように、ずるずるとクレが凭れ掛かってきたのだ。エドの肩に体を支えられた彼女は、泣き疲れたのか、逃避の為か、静かに寝息を立てていた。
規則正しい吐息が、エドの耳を行き来する。暖かい。冷たい。くすぐったい。
平時であれば”気持ち悪ぃんだよ”と一蹴しているところだが、その日のエドは月に魅せられたのか、何とも不思議な気分でじっとして居た。耳にかかるクレの息を感じながら、ただ彼女が”生きてる”と感じながら。
それからエドは朝の点呼の為、体を離すと、それとなくクレを起こして部屋に戻った。彼女はあの日のことで、一つだけ気になることがあった。もし、点呼の対策が必要なかったとしたらという、有り得ない”もしも”の話である。
決して暖かいとは言えない時期に、わざわざ下半身を露出させ、自身を辱めることに余念が無い女の肩を借りて目覚めても尚、彼女は目を開いた時に「生きてる」と呟くのだろうか。と。いつか、じゃあ死ねよと茶々を入れた医務室でのやりとりを思い出す。
エドの手は自然と股間に伸びていた。相当この状況に毒されてんなと笑いつつも、弄る手は止まらない。それは彼女にある予感があったからだ。下着の上からそれを確認すると、深くため息をついた。
——クレちゃんってエドちゃんにとってなんなの?
飄々とした問い掛けが何度か頭でリフレインした後、エドは自問自答するように、そして呪詛のように呟く。
「うるせぇんだよ、黙れ。死ね」
しかし脳内で響く言葉に足る返答は出てこない。
「くたばれ、てめぇこそ輪姦されろ」
「あの女があたしにとって何かなんて、あたしが聞きてぇんだよ。ふざけんじゃねぇ、死ね」
自身を慰める手は止まる気配が無い。
「あたしは一体どうしたいんだよ、どうされてぇんだよ。そんなことも、もう分からなくなっちまった」
言い終えると、不自然なほどに濡れそぼり、貪欲に刺激を求めるそこに深く指を沈めた。根本まで咥え込ませると、かつてクレにしたように、乱暴に掻き回す。腹の裏を抉るようになぞり、伸びた爪が内壁を傷付けようが構いはしなかった。
荒い息遣いが暗い個室に響く。奥を求めて伸びる指が不格好に自分の中を泳ぐ。下らないと見下していた行為に、戯れでなく、本気で溺れた瞬間だった。息遣いが短い声となり、体が強張る。充分に腕を広げるすらままならないベッドで脱力すると、息が整うよりも先に、彼女は呟いた。
「だいたい、なんで女が相手で、しかもあいつにマジになってんだよ。あたしが死ねよ」
目を背けるのも、もう限界だった。
エドはそう言うと、目を瞑る。観念してここから出るシュミレーションを始めたのだ。愚痴愚痴と悪態を付きながらも、B-4区画へと連行される自分の姿を思い浮かべてみる。ふと、風呂に入る前にクレには会いたくないと思った。
「あーぁ、マジのマジじゃねーかよ」
エドは自分の中に存在していたらしい、なけなしの乙女心に自嘲するしかなかった。
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