ACT.40
最高の玩具を手に入れた彼女は、その玩具がいつ自分の聖遺物として身を捧げてくれるのか、時たま考えを巡らせては勝手にときめいていた。
「……戻ったんだな」
その鍵を握るのは、久々に独房のおつとめから戻った知人に声をかける、この長身の女である。彼女は赤い頭を掻きながら、一瞥してエドに話し掛けた。
控えめに言っても品のいい顔付きとは言えない、しかし確実に整った顔立ちの不良女は、いつもの調子を発揮することなく、「おう」とだけ返して部屋へと足を向けた。元々下がり気味の目尻がいつにも増して億劫そうにクレの姿を捉え、興味なさげにフレームアウトさせる。
この様子をサタンはじっくりと観察した。二人の仕草などを注視するつもりの彼女であったが、その光景は拍子抜けするほど穏やかで、目を擦りたくなるほど奇妙であった。
サタンはエドとクレの両者に関わりがあるであろう、注射器のことを思い出す。いつあのカードを切るかはエラーに任せるとして、二人の間には確実にあれで繋がった何かがあるのだ。医務室から戻ってきた時だって、明らかに普通ではない様子でぎくしゃくしていた。
だというのに、今の二人は一変して、ラッキーが入所してくる前のような距離感で接していた。お互いに吹っ切れたような、何かを放棄したような。サタンにはそれが奇妙でならないのである。
クレの変化については理解できる。エラーとの性交渉によって、何かが彼女の中で変わった。自分自身でもそれを制御しきれていないような危うさを感じるものの、彼女は元々そういうところがあった。心の中に住まわせている猛獣の名前が恐怖から、性欲に変わったに過ぎない。サタンはクレの突然の変化に戸惑いはしたものの、嫌な感じはしなかった。
問題はエドである。事ある毎にクレに絡んでは喧嘩を売ってきた女が、独房から出てきて顔を合わせたにも関わらず、大人しく部屋に戻るとは。サタンには想像もつかない出来事であった。
クレは主を迎え入れ、すぐに口を閉じた”弐”の部屋の扉を見つめると、自身もすぐに自室へと戻った。一人その場に取り残されたサタンは、周囲に人影がない事を確認してから”弐”の扉をそっと押す。
****
部屋に戻ると、クレはすぐにベッドに体を横たえた。数日前のエラーとの情事を思い返していたのだ。あれからエドの部屋には入っていない。エラーもそこに連れ込む口実が思い付かなかったのか、あの汚い毛布を更に汚すことは無かった。
「あいつ、どう思うんだろ」
病気を疑う程の節穴でなければ、あの血痕には気付くはずである。そして、留守の間に部屋を使われたと分かれば、エドは黙っていないだろう。誰が相手だろうと、タコ殴りにしないと気が収まらない筈だ。もしかするとその状態の彼女ならば、冷徹非道と言われる現ボスとも互角にやり合えるかもしれない。そんな下らない妄想に耽りつつも、クレは一方で現実問題として、エドの帰還を重く受け止めてもいた。
「……オレ、被害者だよな?」
それは間違いない。被害に合い、心の傷をこれでもかというほどに抉られた。血が出ることだって珍しくなかった。関係を解消した日の夜の開放感を、彼女はまだ覚えている。
しかし、それからのことを振り返っても、事実だけを並べるならば、代わり映えのしない日々を送っているように思えた。
エドと関わり合いにならないようにした直後、ゴトー達に絡まれた。温い辱めで徐々に慣らされていった体は、久々に浴びる"性欲を処理するモノ"としての視線に震え、それらはいとも容易く忌々しい記憶を引き連れ、クレを追い詰めた。なんとかその危機を脱したかと思えば、今度は信用していた仲間に犯される。
クレは、自分には他人を狂わせる何かがあるのか、と疑わずにいられなかった。しかし、恐らくそんなものはない。ただ、ここには嗜虐心に振り回される阿呆が多いだけなのだ。今はエラー達のことをそんな風に一蹴できるくらい、気持ちに余裕があった。
肩の腫れを優しく撫でながら、クレはエドの部屋での情事をより深く思い出す。強く噛まれたそこは、未だに痣が残り、少し腫れていたのだ。
エラーとのそれは、エドとの情事がママゴトに思えるほど激しかった。怪我の量も度合いも、とても性交渉の結果とは思えない。
だというのに、クレはそれに溺れかけていた。本人は「これ以上はマズい」と評しているが、傍目に見れば、彼女はもう手遅れであった。少なくとも、エドの部屋から出てきた二人を見た時、サタンはそう確信している。
「いてぇ……」
口の中を切るなど日常茶飯事だ。昨日、脱衣所で押し倒され、かごをしまう棚に頬を強打したのだ。もちろん、エラーは手を止めなかったが。クレにとっては、一時的に少人数で入浴するようになった弊害と言えるだろう。
確実に存在する筈のエラーとエドとの違いは、本人にすら言い当てることはできない。エラーとの行為に興じてしまう自分の性をマゾヒストと片付けると、ならば何故エドの時はそうならなかったのだ、と考えてしまう。結局は体や性癖などではなく、気持ちなんだろうか、という結論に行き着くこととなるが、それでもクレはまだ納得できなかった。
「別に、エラーのこと好きじゃねぇし……」
クレには恋愛というものが全く分からなかった。まだ普通の学生だった頃、周りはそんな話題で色めきだっていたような気もする。しかし、幸か不幸か、彼女はそれを知らないまま、ここまで来てしまったのである。
異性に対する気持ちで経験があるのならば、この問題の解決に一役買ってくれそうであったが、彼女の中には比較するものが何もないのだ。
そうしてぐるぐると考えて、肩の痣に触れるのに少し飽きた頃、クレは漸く間違ってはいないであろう、ある結論を導き出す。
「まぁ、エドのことは嫌いだな。うん」
ここしばらく、エラーが気を回しているらしく、クレには当番が一切回ってこなかった。目まぐるしく変わっていく状況への適応で手一杯だったクレが、そのことに気付いたのはごく最近である。考えることが億劫になった彼女はここで仮眠を取ることにした。
*****
金髪の女は、自室の入口で立ち尽くしていた。自分の部屋なのにそうではないような、奇妙な感覚に襲われ、じっとそこから部屋を観察していたのだ。特に違和感を感じたのはベッドである。
エドはゴトー達と大立ち回りを演じたあの日のことを思い出す。まさかそんなことに巻き込まれると思っていなかった彼女は、いつも通り起床し、生活を始めた。エドに布団を整えるといった習慣はない。だというのに、目の前のベッドは違った。捲れ返った布団にまた潜り込むつもりだったエドは、不審に思いながら寝具を見つめる。
「エド。大丈夫?」
「あぁ!?」
ベッドに一歩近付こうとした瞬間ドアが開き、背後からサタンが話しかける。必要以上に威圧的な声を上げ、慌てて振り返ると、エドはすぐに悪態をついた。
「おいサタン! てめぇ」
「私じゃないわ」
「あぁ!? じゃあ誰が」
「入るね」
エドが威嚇するように声を荒げるも、サタンは全く相手にしない様子でそれを遮った。許可が下りる前にドアを閉めると、複雑な表情を浮かべてエドの前に立つ。
まるで悪いニュースがあるとでも言いたげなサタンのその様子に、ただならぬ空気を感じ、エドは逃げるように、ベッドに胡座をかいて座った。そして何も言わず、隣のスペースを叩き、サタンにも座るように促す。エドにしては随分と気が利くと驚きながら、彼女は浅く腰掛けた。
「なんだよ、てめぇ。クソが」
「どうしてそんな言い方されないといけないの?」
「てめぇよ、少しはあたしの身になってみろよ。やっと独房から戻ってきたと思ったら、普段ろくに話もしねぇ女が、困った顔で部屋に来る。嫌な予感以外の何を感じろってんだよ」
「あぁ、それはそうかもね。しかもその予感の通りだしね」
「はぁ?」
エドとサタンは、久方ぶりに会話を交わす。最後に二人きりで話した時の事など、どちらも覚えていないだろう。
サタンとてエドと接するのは得意ではない。特にこの手のタイプは、嫌な事や受け入れ難いことがあると、すぐに八つ当たりとしか言いようのない暴言や暴力に走るので、どちらかと言えば嫌いな部類である。しかし、サタンにはどうしても遂行したいことがあった。
「私が知る限り一回だけだけどね」
「なんだよ」
エラーを攻略したいサタンは、まずクレを上手く動かす必要があった。互いにずぶずぶと深みに嵌り合うこの二人は、放っておいてもそのうち身動きが取れなくなるだろう。
しかし、そこにエドというスパイスが加われば、二人の関係はどうなるのだろうか。要するに、サタンはエドを唆しにきたのである。
「ここでエッチしてる人達がいるよ」
「あ……? 人の留守中にヤリ部屋にしたってことか!?」
「ヤリ……まぁ、そうだね」
エドの口からさらっと出てきた汚い言葉に軽くげんなりしつつも、彼女はその言葉を肯定した。一方、エドはというと、ベッドで感じた違和感の正体を理解したという表情で、胡座を組んだ脚の隙間から、器用にベッドを殴りつけた。
「ざけやがって……」
「私に当たるのはやめてね。文句があるなら」
「誰だよ! あたしの部屋で商売しやがったの!」
「……え?」
「あ?」
犬歯をむき出しにして、眉間に皺を寄せるエドを尻目に、サタンは彼女の勘違いの内容について思考を巡らせた。
商売をした。なるほど、確かに空き部屋ならエド達がするような仕事も、いつもと違った趣きで出来るかもしれない。ラブホテルでするようなものだと思えば理解できた。
「誰も商売はしてないよ、エド」
「はぁ……? わざわざあたしの部屋でヤるって、なんでだよ……」
「知らないよ。エラーに聞いて」
「……は?」
あの堅物が、誰かを連れ込んでセックスをした。エドにとってこれは大ニュースだった。以前組み敷かれた時には、素人の手付きではないと感じたが、まさか本当にそっちだったとは。エドは驚きつつも、同区画の仲間であり、我らがボスを祝福した。
「マジかよ……あいつ、性欲とかあんだな」
確かに勝手に部屋を使われたことは腹立たしい、が、ボスともなれば突然部屋を尋ねてくる輩も居るかもしれない。安心して行為に没頭できないのだろうと、エドは自室が勝手に使われたことに、最大限の理解を示した。
そして頷きながら、綺麗に整えられていた布団をめくる。何の気なしに、ただそうしただけだった。しかし、そこに広がるのは生々しく、夥しい数の血痕。一つ一つは小さく気にならないが、それらが引き摺ったり、押し付けたりしたような痕跡を残しながら、淡い色のシーツを不気味に彩っていた。
「……なんだよ、こりゃ。相手はあれか、ケチャマンか。あーあ、だからてめぇの部屋でヤらなかったのか。やっぱ段々腹立ってきた」
ケチャマンって何? と聞こうとしたサタンであったが、言いかけたところで、なんとなく察しがついたので口を噤む。下品な言葉が次々と飛び出す、妙な語彙力を持つエドを歩くスラング辞典と、心の中でこっそりと讃えながら。
エドはエラーが、生理中の女をここに連れ込んだと勘違いしたのだ。そうなって当然の汚れ方をしていた。血液ばかりが目立つが、ちょうどエドが手を付いたところは、ちょっとした染みになっている。赤を抜いたとしても派手に汚されたことには変わりなかった。
祝福ムードはどこへやら、エドは自分の寝床が酷い有様だと確認すると、ぼりぼりと首を掻いた。看守の心遣いにより、せっかく風呂に入ってからB-4区画に戻ってきたというのに、その手はなかなか止まらない。
「あ? 有り得なくねーか?」
「……ここまでなるんだ。まぁ、あの傷だもんね」
サタンは、少し前に風呂場で見た傷を思い出して、納得したように一人頷く。そうこうしていると、エドが”相手は誰だ”と吠え、サタンを恫喝した。突然胸ぐらを掴まれた彼女は驚きつつも、簡潔に返答した。
「ベッド見たら分かるでしょ」
言いながらエドの手を振り解き、存外華奢な体を布団の上に放る。ただのお嬢様としか思ってなかった女に、まさかそんな仕打ちを受けるとは。エドは間抜けな格好でベッドに手を付き、少しの間、固まっていた。
そしてすぐに言葉の意味を確かめるように、周辺を観察する。理解するまでに、それほど時間は掛からなかった。
「……クレか」
「うん」
ベッドには長くて赤い髪が数本落ちていた。こんな毛髪を残せる人物を、エドは他に知らない。サタンが直接言い難そうにしていた理由も、少しだけ分かった気がした。二人ともがエドにとって近過ぎる。気まずい思いをするのでは、と憂慮されるのは当然だと思った。
サタンの真意は全く別のところにあった訳だが。彼女は単純に、下手にクレの名前を出して、また怒鳴られたくなかったのである。サタンから見た二人の関係は、まさに犬猿の仲。そんな人物の体液やら体毛やらが付着していると聞かされて、あのエドが正気でいられるとは思えない。どう伝えようか考えあぐんでいたのだ。
何はともあれ、これで彼女が二人に面白く作用してくれれば、サタンの思惑通りの展開となる。
しかし、彼女の目論見は大きく外れた。サタンに背を向けたまま、エドは布団に入り、事もあろうにそれを頭の先まですっぽりと被ったのである。
「え。ちょ、ちょっと」
「悪ぃ。ほっといてくれ」
「……うん。わかった」
予想外のリアクションに戸惑いながらも、サタンはエドの部屋をあとにした。死体を愛でることが本業の彼女だが、そんな彼女ですら、エドの行動には若干引いていた。
——私は血とか気にならないけど、普通嫌じゃない?
それは普通というものが最初から備わっていなかった彼女にすら分かることである。サタンは自室に向かった。エドとサタンの部屋は隣同士なので、最短距離でいけば他の部屋の前は通らなくて済むのだが、足音を立てないよう、こっそりと向かいの部屋の前を通った。
エラーの部屋には人影はない。ほっとしたような気持ちで、その隣のクレの部屋を覗くと、二人の女が絡み合っていた。厳密にいえば、そこには、立ったまま壁に押し付けられる女と、その女の首に噛み付いてる女が居た。
「……大丈夫なのかな」
サタンが言うのは、これから行われるであろう行為によって、一方が新たな怪我をこさえないか、ということではない。二人の性行為が、段々とあけっぴろげになってきているように感じたのだ。面倒な人物に見つかって大事にされれば、さすがのエラーも立場がなくなる。極端な話、それを苦に死んでしまった場合、それはサタンへの愛の為に命を絶ったとは言えない。
サタンは死体が好きな訳ではなく、あくまで、自分の甘言に唆されて命を手放した者だけを愛するのだ。
いま、彼女に出来る事は一つ。ボロボロの状態で自分を頼った、あのエラーの好意を育てる、それだけだ。いつ死にたくなっても、必ず頼ってくれるように。ぞくぞくと体の中を駆け巡る予感に身震いしながら、サタンはそっと自室の扉に手をかけた。
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