ACT.33

 サタンこと藤堂美優はいつかの白昼夢を見ているようだった。自らを卑下しながら、声を殺して膝を抱える女。そして、その女の肩や背に手を回す自分。背中を優しく撫でると、くたびれた作業着の感触が指先に広がる。

 これはかつて見た光景だ。しかし、当時も同じように、前にもこんなことあったな、と感じていた事を不意に思い出し、サタンは口元だけで嗤った。

 要するに彼女はこういった役回りになりやすい人物だったのだ。特殊な欲求を解消する為には、非常に相性のいい立ち位置である。頼られ、甘えられ、その度にチャンスが転がり込んできたのだから。


 しかし、逮捕の直前のこと。ふと、今までの役回りが、性癖を優先し、性格を最適化した結果ではないかという可能性に彼女は気付く。

 そう考えると全てがおかしかった。否定できないのだ。自らの欲求の為に人格を構成し、それを貪るだけの自分。ウィルスと何が違うのか、そんなことすら真剣に考えてしまうほどに、自らの生が馬鹿馬鹿しく思えた。


 部屋に押しかけた女は、壁際で膝を抱えていた。せめてベッドでと諭そうにも、全く聞く耳を持たず、依然部屋の隅で小さくなっている。

 観念したサタンは隣に座り、癖のない短い髪を手で梳くように撫でる。一時は自らをウィルスと卑下した彼女だったが、現在は立ち直っている。というよりも、開き直っていると言う方が正しいのかもしれない。

 考え方を改めたのだ。自分は確かに、己の欲求の為に他者を殺している。しかし、元々人間はそういう生き物ではないか。食う為に他者を殺し、時には釣りや狩り等、娯楽の為にいたずらにその命を奪う。自分の対象はそれが気に入った同性だった、ただそれだけだ、と。


 手を伸ばせば届きそうなところに、渇望していた次のターゲットがいる。彼女がターゲットになるとは、サタン自身かなり意外であったが、嫌な気はしない。逸る気持ちをどうにか押し殺して、女の髪を梳くスピードが一定になるよう努めた。


「ねぇ、サタン」

「なに?」

「何があったか、聞かないの」


 女は顔を上げずに、自身の頭を撫でるサタンの手に触れ、優しく絡める。もちろん、彼女は拒絶しない。手くらい好きにしてくれて構わないと、差し出す覚悟で女に預けた。


 ぐずぐずと顔を伏せたまま、サタンの手を離さないその姿は、まるで母に縋る未修学児だ。こんな子供がこのB棟を仕切っていると知れたら、ゴトーや他の派閥のメンバー達はどう思うだろうか。


「理由は聞かないけど、私に何か出来ることがあるのか……それは気になるわ」


 昨晩何かがあったのだということはすぐに分かった。何故ならば、点呼や食事など、朝の日課を済ませてから、エラーは部屋に直行してきたのだ。おそらく、当番なんかは適当な人間に押し付けている。

 刑務作業に向かおうと部屋を出たところで、サタンはエラーに肩を掴まれ、部屋に押し戻されたのである。そして、「今日は仕事しなくていいから。側に居て欲しい」等という、歯が浮くような台詞を真正面から告げられた。

 サタンが普通の女ならば、例え異性愛者であったとしてもときめいたかもしれない。しかし、現実とはままならないものである。エラーの言葉を聞いた時、彼女は冷静に何が起こったのか、考えを巡らせる事しかしなかった。


 そして、半ば強引に自室で二人だけの時間を過ごさせられている。何があったのか、エラーは明言を避けていたが、このような事態は今までに前例がなかった。重大な何かが起こった事は明白である。

 サタンはただ、エラーの言葉を待つ。急かさず、突き放さず、黙って頭を撫で続けた。嗚咽に混じって時折聞こえるのは、「全部無駄になった」という、自虐的な呪詛。しかし、サタンはそれを、恐らくは築き上げてきたボスの実績だろうと踏んでいた。

 知人に泣き縋ってまで彼女が悔やむ物に、他に心当たりがなかったのだ。というより、ここで生かされている人間の多くは、これほど号泣できる程の何かを、自分の体以外に持ち合わせてすらいない。

 身も蓋もない言い方をするなら、無駄になっているのは他でもない、人生だからだ。ここにいる時点で、生物としてかけがえのないものを喪失している。サタンはそう感じていた。


「ごめん……できること……というか、私がして欲しい事を考えられなくて……」

「側にいる誰かが必要なら、それでいいわ。それでエラーの気が楽になるなら」


 これほど頼られ、弱みを曝け出されたなら。並の人間なら、もう十分だろうと思い、訳を聞くかもしれない。しかし、サタンは徹底していた。エラーは何かを悔いている。懺悔の言葉を誰が引き出すかを、非常に重視していたのだ。

 告げる決意もきっかけも、相手に委ねてこそ大きな意味がある。引き出してやるような真似は絶対にしない。相手が完全に自分の意志で頼ってくるのを待つべき。その考えの元、サタンは融通が利かないと言われてもおかしくないくらいに、聞き役に徹していた。

 彼女はゆっくりと、エラーの心に根を下ろしていく。サタンもまた、自身の欲求に、呆れ返るほどに愚直だったのだ。


 膝を抱えたエラーが、服の袖を強く掴む。痛々しいその姿を見ても、サタンの心は一切揺れ動かなかった。


「前、サタン、私のこと、ソッチって言ったでしょ」

「えぇ。ちなみに今もそう思ってるわ」


 突然振られた話に少々面食らいながらも、サタンは卒なく返事をした。


「……うん」

「違うの?」

「……違わない」


 あれほど頑なに否定していたセクシャリティが、やけにあっさりと打ち明けられる。あぁやっぱり。サタンはエラーが顔を伏せているのをいい事に、表情でありありとそう語った。


「ボスとして生きれば、そんなこと、考えなくてもいいって思ってた」

「うん」

「いや、違うかな。考えなくても済むように、ボスとして振る舞う事に徹底してた」

「うん」


 まるで自白だ。サタンはそう思った。いけない事をしてしまったかのようなエラーの言い回しに、彼女はそんな印象を受けたのだ。つまり、エラーは誰かを好きになってしまい、それを心から悔いている。サタンはエラーの涙の理由をそう解釈した。

 無駄になってしまったというのは、つまりボス業が疎かになり、何かしらの影響が出てしまったのだろうと考えることにした。それにしては些か大袈裟な気もしたが、悩み事というものは他者から見れば往々にしてそういうものだ。サタンは気の毒そうにエラーを見た。


「もう……やだ……」

「エラー……」


 人はこれほど弱れるのか、そう言いたくなるほど、エラーは慰めを欲した。例え死ぬようなことがあったとしてもこうはなるまい、と考えていた予想を遥かに超えた光景が、サタンの目の前に広がっているのである。


「ごめん……都合、いいよね」

「お互い様だよ、気にしないで」

「でも、すごい強引に引き止めたし……」


 確かに先程のやり口はかなり強引だった。しかし、彼女のそういった振る舞いを挙げればきりがない。むしろこれまで自覚が無かったということに驚きつつ、サタンは黙って頭を撫でることにした。

 彼女はエラーから溢れた愚痴を、一つ残さず掬い上げるつもりでいるのだ。今はそれだけでいい、焦る必要はない。時間だけは反吐が出る程有り余っているのだから。


 サタンが関係を長期的に見ている一方、エラーは早急に破滅でもなんでもしたいと考えていた。考え足らずと言われがちなエドですら、今のエラーの頭の中身を覗いたら驚くことだろう。

 彼女は自棄になっており、非常に危うい状態である。しかし、その手の修羅場をいくつも掻い潜ってきたサタンは冷静だった。

 エラーのようなタイプが自暴自棄になって危ぶまれるのは、彼女の身の安全だけではない。周囲の人物、少なくともエラーがこうなるのに関わった人間と、B-4区画のメンバーくらいは気をつけた方がいい、というのがサタンの見立てであった。


「全部……結局私は……」

「エラー、とにかく今は色々考え過ぎてしまっていると思うの。どうせ作業も当番もさぼっちゃったんだし、たまにはゆっくり寝たら?」


 まるで被害者のような振る舞いをするエラーに、サタンは優しく話しかける。慈しむように肩を抱き、寄り添った。さすがの彼女も、この件に真の被害者がいるとは思わないだろう。



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