ACT.32
赤い髪の女はベッドに腰を下ろして、ぼんやりと惚けていた。自室と同じ作りであるはずの部屋の中を、つぶさに観察しているようにも見えなくもない。
暴行未遂事件というべきか、傷害事件というべきか、ゴトー達との一件から早四日、クレの痩身にはさらに磨きがかかり、見た者の頭に不健康という言葉をちらつかせる程になっていた。
最低限の食事はしているものの、以前の量を受け付けない。エドとのことで消耗しきったところに、追い打ちをかけるように今回の事件が起こったのだ。まさに駄目押しの一手だった。
「あのさ、クレ」
「……なんだよ」
「たまには他の人と過ごしたら? サタンも心配してたよ」
「エラーがいい」
そう、クレはエラーの部屋にいた。何をしに来たと聞いても、ただ一緒に居たいと言われるのみで、エラーは心底参っていたのだ。
B棟はゴトー達が起こした事件の話題で持ち切りだ。クレから逃れる為に外に出るという選択肢もあったが、そうすると恐らく彼女はエラーを探して、所内をふらふらと彷徨うだろう。この状態のクレを、好奇の目に晒させるべきではない。何より二次被害が起こると面倒である。つまり、エラーはクレのせいで、おちおちと部屋を出ることもままならない状態であった。
これは今日に限っての話ではなく、あの事件から毎日である。刑務作業がある日ですら、夜の自由時間、消灯ギリギリまで、クレはエラーの部屋に居座った。
ラッキーの前では、サタンと関係を持っているよう振る舞っていた手前、そういった意味でも疑わしい動きをしたくなかった。なりふり構わぬクレの行動に、エラーは完全に振り回されていたのだ。
奇人はおそらく、ここ数日のことを面白おかしく解釈しているだろう。どんな感情を抱かれようと、エラーは気にしないつもりであったが、嘘が発覚することだけは避けたかった。
――エラーがいい
この四日間、何度も聞いてきた筈の言葉である。返答に困ったエラーは、”そう”とだけ返してベッドに寝転がった。
ここ数日のクレの縋るような視線は、封印しようと努めてきた心を、這うように撫で回し続けた。エラーはクレの知らないところで、黒い感情と必死に戦っていたのだ。
二人は元々仲が良かったが、それはお互いに越えてはいけない一線を守った上で成り立っていた関係である。昔の事には口出しをせず、ドラッグもやらず。それなりの常識を持ち合わせた二人は上手くやれていた。
しかし、今のクレはこの有様だ。弱々しい横顔を惜しげなくエラーに晒し、何かを思い出しては突然泣き出す。狂犬などと揶揄されていた事が嘘のようだ。そこに存在するのは、ただ面倒なだけの女だった。
彼女の変化に、エラーも少なからず動揺はした。余程の事が無ければ、身勝手に部屋を訪ねる者など無視して、ボス業に専念している。クレには伝えていないが、エラーにはいくつか対応しなければならない事があった。
ササイの件、ゴトーとゴクイの処遇について、それからムサシの様子も気になる。ムサシとはあれから、刑務作業で二言三言交わした程度で、まだゆっくりと話せていない。しかし、それら全てを捨て置かせる魔力がクレにはあった。
やっと見つけた言葉を発して、エラーはどうにか現状を変えようとした。体を起こすと、クレの目を真っ直ぐに見て切り出す。
「でも、ずっとこのままってワケにもいかないでしょ」
「それは……」
「そろそろ聞かせて」
エラーにはどうしても引っ掛かっていることがあった。クレの様子がおかしいのは数日前からではなく、自傷行為で医務室に運ばれてからである。そして検査で薬物を摂取したことも認められた。そうなった原因について、もしやと頭を過りはしたものの、確証がない上に、あまりに非現実的だと自ら否定した、ある可能性。エラーはそれをはっきりと確かめようとしたのだ。
これまでエラーは、自分の想像通りならば、クレの心はもっと壊れていたはずだと考えていた。医務室から戻り、エドと最低限の会話をしている姿を見ると、その線はなさそうだと思わざるを得なかった。
しかし現在は、クレを見くびっていたと認識を改めている。彼女はずっと狂いそうになりながら、己が己であるために気丈に振る舞い続けてきた。四日前から起こった異変で、エラーはやっとそれに気付かされたのだ。
「エドと、何があったの?」
「何も」
今のクレは全てが面倒だった。側に居たがるところも、自分の都合ばかりを押し付けてくるところも、指摘された事実を頑なに否定するところも。
苛立ちで少し頭痛がしたが、彼女にものっぴきならない事情があるのだと、エラーは自らに言い聞かせ、とっとと王手をかけることにした。
「エドの部屋で注射器を見つけた」
クレは頭の中で二度、エラーの言葉を繰り返す。そして、言葉の意味を受け入れると、ゆっくりとエラーを見た。
「これ以上、私に催促させるの?」
苛立ちを隠そうともしない声色が響く。消耗しているのはクレだけではないのだ。
エラーもまた、自分と同じくらいにすり減っている。そう気付いたクレは、言い逃れすることをやめた。
「……ごめん」
言いたくない、彼女は強く思った。しかし、意地を張り続けるよりも、今はただ、誰かに同情してほしかった。一人で苦しみを抱え続けることに、クレは耐えられなくなったのだ。エラーの側に座り直すと、全てを打ち明けるため、口を開いた。
「あのな」
途切れ途切れの言葉、断片的な情報。それでもエラーはクレの身に何が起こっていたのかを理解した。左手はクレの好きにさせている。話している途中、強く握られる事もあった。涙を拭う手伝いもさせられた。
手を離せばいいのに。いや、一瞬でも離れると、きっと駄目なんだろう。エラーはそう思い、ただ黙って耳を傾け続けた。
不安な気持ちを誤摩化す為か、ふにふにとマッサージするように弄ばれる自身の手を、エラーはただ見つめる。相づちくらいしか声を発することのなかった彼女だが、実は静かに驚いていた。
なんと、クレはエドとの関係について、責任の半分が自分にあると考えていたのだ。
「いくらイラついてたからって……オレ、あいつに言い過ぎた」
「でも、普通は薬物盛ってまでレイプしないよ。悪いのはアイツ」
「……そう、だな」
エラーの左手はクレと恋人繋ぎをしている。少し大きくて華奢な手を強めに握り返すと、エラーは心の中で「勘弁してくれ」と吐き捨てる。
クレは様々なものに裏切られ、傷付けられてきた。そして、一人で踏ん張る事を諦め、背負ってきた荷を一人の信頼出来る人間に預けることにした。それが自分である、とエラーは認識している。
何の為に、今までボスとして感情を殺して動いてきた。もう振り回されない、その為だろう。エラーは弱ったクレを前に葛藤する。
自分勝手で強情なクレに苛ついていた。そして、同時に
その藁をもすがるような気持ちを、裏切りたくて堪らない。エラーは間抜けな美人の首筋に噛み付きたくなる衝動を必死に抑えていた。
「クレ……」
そんなことをしてしまえば、今まで積み上げてきたものが全て無駄になる。今まで積み上げてきたものというのは、間違ってもボスとしての実績などではない。一人で生きていくと決めてから、その誓いの元に暮らしてきた日々である。
つまり、エラーは葛藤していると言っても、全て自分の都合や欲求の間で揺れ動いているに過ぎないのだ。クレの身を慮ってなど、これっぽっちもなかった。
「ごめん」
そう言って強引に手を振り解くと、エラーはクレの肩を掴んで押し倒した。
ここで彼女に手を出したら一生後悔する。だけど、こんなシチュエーションで手を出さなかったら、それはそれで一生後悔する。そう気付いてしまった瞬間、エラーはクレの敵となった。
そうだよ、何を迷っている。何度も暴行された子が、自分だけに心を許してくれるなんて奇跡、この先一回でも訪れるか。そんな純粋で尊い気持ちを踏み躙る機会、きっともう来ない。来るわけない。これが彼女という歪んだ人間が導き出した答えである。
既にエラーに迷いは無かった。クレが呆気にとられている間に、馴れた手付きで腰の上に座る。すっかり冷たくなっていた方の手で、鎖骨を押さえて体重をかけた。左手の甲に残った、クレの涙を舐めながら、彼女を見下ろす。
ただそれだけで、達してしまいそうだとエラーは思った。口の中で広がった彼女の体液の味は、蜃気楼のようだった。
「冗談はよせよ」
「ううん、本気」
「だってお前」
「だから私帰ってって言ったよね。何度も。何度も」
覆い被さったエラーは、よく浮き出た鎖骨に左手を添える。するすると細い指が這い上がり、首筋を撫で、そしてゆっくりとその身を埋めるように圧迫した。
徐に動きを止めた指に、まさか首を締められるとは考えていなかったらしい。クレは反応が遅れ、それが命取りとなった。
「クレには分からないだろうね。私がどんな思いでここでボスやってたか」
「くっ……は、なせ……!」
エラーの問いかけを、クレはあえて無視した。
毎日、自室に戻るように言われていた。側に置いてくれる優しさに甘えて、エラーに寄りかかり続けたのだ。その自覚はあった。だけど、それくらい許されてもいいだろうと思っていた。
「だからって、こん、な……」
クレはエラーの行動の意味を計りかねていた。表情と行動から、怒っているのだろうと推察するが、それがそもそも間違っているのだ。何が逆鱗に触れてしまったのか考えようとしているクレが、エラーにとってこの上なく滑稽だった。
首を絞めては、落ちる寸前で力を緩める。呼吸を完全に整える間もなく、また細い首を締める。気道や喉ではなく、頸動脈を押さえるイメージで。指先で脈動を感じながら。
朦朧としていく意識の中で、クレはやっと何故こうなったのか考える事を止めた。左腕はエラーに押さえられており、どうにか動かせるのは右手のみだ。しかし、利き手が生きているのは不幸中の幸いだった。
殴ることができれば良かったのかもしれないが、クレは首に伸びた手を止めることを優先させた。頭に血や酸素が回っていないせいか、視野はかなり狭まっている。視界の隅には黒いもやがかかっており、それが滲むように端から広がっていく。消えていく景色に焦燥するが、楽しそうに歪むエラーの口元しか見えなくなるまでに、そう時間は掛からなかった。
「おま……どう、いう……」
「もういいじゃん。考えたって無駄だよ」
首に巻き付いていた手が離れ、すぐに顎を覆うように掴む。呼吸もままならない状況で口と鼻を塞がれ、クレの内臓がびくついた。耳の奥で、顎関節がぎりぎりと悲鳴を上げている。不快な音が体の中で響き、口を開けることも、閉じることもできない。顎を握る手に爪を立ててみても、その腕はびくともせず、結局されるがままになってしまう。
クレはいつの間にか、目を閉じていた。何かを見る事すら億劫に感じる程に、消耗してしまっていたのかもしれない。部屋には二人の息遣いのみが響いた。
いよいよ過呼吸の予兆を感じたクレは、改めて抵抗しようと右手に意識を集中させた。しかし、耳を這う妙な感触に、体が先に反応してしまう。
「んん……!」
判断力が鈍っている中で受けたその刺激は、まるで電流が体を駆け抜けるようであった。痛いのか、苦しいのか、くすぐったいのか、分からない。あえて言うならば全て。クレは、自身のキャパシティを超える責めに、翻弄されるばかりだった。
「気持ちいい?」
「は、はぁ……?」
反論しようとしても、顔を覆うエラーの掌がそれを阻止する。そして、先程と同様に、発作が起こる一歩手前で、その手を緩められる。長めの空白、そこでクレは確信した。これは怒りからくる暴行ではない、と。エラーが異常なほど手慣れていることにようやく気付いたのだ。
「男達のはけ口にされて、エドには玩具にされて、辛かったね」
「お前、も……やつら、と……いっ……しょ、だろ……」
「そうかな。少なくとも、私はクレをイかせるつもりでいるけど」
冗談のつもりではないという事は、すぐに分かった。しかし、クレにはこの行為が性欲を解消するものとは到底思えない。いたぶられる痛みや不快感こそあったものの、自分の体に群がる連中とは本質的に違うと感じていたのだ。
過去に受けた暴行と重ならない。そのおかげとも言うべきか、エラーに組み敷かれてから、クレはまだ一度も吐いていなかった。
エラーの舌が耳朶の輪郭をなぞり、ぞくりと身体を震わせていると、次の瞬間には噛みつかれている。首を締められているのか、口を塞がれているのか。クレには、とにかく苦しいということしか分からなかった。
左側の声に反応したつもりが、右側から話しかけられている。エラーの手がこめかみを掴むように視界を遮ったかと思うと、同時に口も塞がれる。手が自由になって動かそうとして初めて、自分の口を塞いでいるのは、エラーの口だと知る。
クレは身も心も弄ばれていた。過去を連想する余裕なんて有りはしない。あるのは、痛みと快楽の間で板挟みになる己だけだった。
前開きの作業着のボタンは外れ、捲れたインナーからは素肌が露出している。いつボタンを外されたのか、考えるだけ無駄だと切り捨てると、クレは自身の服の端を掴み、露になった肌を隠そうとした。
「エラー……や、めて」
「私みたいな異常者に、そういう言い方はしない方がいい」
エラーは涼しい顔をして、クレの体を起こした。願いを聞き入れてもらえたのかという愚かとも言える期待が、彼女から一瞬の脱出のチャンスを奪う。
手付きが優しかったのは、立ち上がるところまで。ベッドから腰を上げようとした痩身は、その膝が伸び切る前に壁へと叩き付けられた。背面から転ぶように打ちつけ、呼吸が止まる。
クレが自身の身に何が起こったのか理解するよりも、エラーが彼女の足の間に割って入る方が早かった。
「そそるだけだよ」
いくら壁が厚いと言っても、今のは隣の部屋に振動が伝わったはず。クレがそう思うのと、エラーが口を開いたのはほぼ同時だった。
「隣、いま居ないから。分かってるよね?」
叩きつけられた壁の向こうの部屋の主、それはクレ自身であった。平時であれば、クレがそれを失念するなど有り得ないだろう。意識が混濁とした状況で、物音を立てれば誰かが気付いてくれるかもしれない、という発想に至れるだけ優秀だった、とも言える。
エラーが一瞬でも抑え込む手を離して体勢を変えたということは、裏を返せばもう抵抗できないと判断したという事である。その予想を上回り、生還する希望を捨てていなかったクレは、間違いなく生物として優秀だったのだ。
しかし、それも即座に無に帰されてしまう。否、考え足らずの期待である事を突きつけられてしまったのだ。
優しく嬲られ、心も体も死と隣合わせの低空飛行で生かされている。ぼんやりとした意識の中で、クレはいよいよ抗うことを放棄し始めた。このまま、訳が分からないまま、ただ時間が過ぎゆくのを待つのも良いかもしれない。放っておいても齎される、様々な感覚にすら置き去りにされそうになっているのだ。そこに更に自らの思考を介入させられる程、彼女は器用ではなかった。
身を委ね、沈みかけたはずの意識が、強引に引き戻される。エラーが鎖骨に歯を立てたのだ。
「いっ……!」
大きく声をあげようとしたものの、それを発するよりも早く首が絞まり、クレは何度目とも分からぬ、無重力のような浮遊感を味わう。苦しいだけとは少し違う、妙な感覚が一瞬だけクレを襲った。
エラーは目を細める。
壁に背を付けていたクレの身体は、ささやかな抵抗によりずり落ち、今では後頭部と肩のみを付ける格好となっている。正面から覆い被さり、正常位のような体位でエラーは首締めを楽しんだ。
汗ばむ首、頸動脈に触れたまま、満足げに女を見下ろす。そして、行き場を無くし、立てられていたクレの膝に手をつき、首を甘噛みする。何度もされたように強く噛み付かれるとばかり思っていたクレは、ぴくりと反応して痛みに備えた。
しかし、エラーはあくまで優しく、彼女の首に舌を這わせた。これは報いなのだろう、クレは強くそう感じた。しかし、この四日間のことを考えると、そうされても当然だと思える。思えてしまったのだ。
考えることが億劫になり、クレは遂にエラーの首に手を回して、彼女を受け入れた。
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