ACT.31
ラッキーは廊下に立っていた。端正な顔立ちだけではなく、体格にすら恵まれた長身美人が遠くを見つめて立ち尽くす姿は、ここが刑務所でなければ男達が放って置かなかっただろう。
しかし、残念なことに、ラッキーが見つめていたのは、空でもなければ、待ち人がやってくるはずの方向でもない。とある通路、格子の手前。不自然に欠け、引き剥がされた形跡のある給水管である。ちなみに、真っ直ぐに歩いていけばボイラー室への扉があるが、件のゴトー達のような用事でもなければ、一般の囚人達が立ち寄ることはないだろう。
現在はテープで極めて原始的な応急処置を施されているが、発見当時はひどい有様だった。頭を掻いてエラーと話すセノの後ろ姿を眺めながら、ラッキーはその様子を拝めなかった事を残念に感じた程である。その一角は格子の向こう側まで水浸しだったらしい。しかし、今はそれらも乾き切り、施設の水道は何事も無かったかのように稼働している。
では何故、ラッキーがそのように、辛うじて役割を全うしている給水管を見つめているか。それは盗み聞きした会話に起因していた。
――エドの奴。ここの給水管を剥がしたのか
――腐ってたもんね。にしても、また派手にやってくれたもんだね。大丈夫なの?
――三日後に業者が来る。最短で手配してもらってこれだ。本土で暮らしてた頃が懐かしいよ
そして騒動から三日が経った。あの日、刑務作業から戻り、険しい顔をしたエラーに理由を聞き、つくづく面倒事に巻き込まれる性質であるクレに同情しつつも、ラッキーはエドが部屋を訪ねて来ないという事実にほんの少しがっかりした。
エドは未だに独房に居た。どのような暮らしぶりかは分からないが、長らく閉じ込められていたラッキーには分かる。あの空間で過ごす時間は、どの瞬間を切り取っても最低である、と。
「おっ、来た来た」
嬉しそうに声をあげる彼女の視線の先では、同行した看守がカードキーを当て、スライド式の格子を開けていた。重厚な音を立てて通れるだけのスペースを作ると、すぐに業者二名を中へ入れて、後に続く。
「道具はまだ開けないで下さい」
ここに来る前にも指摘したであろう事柄を再度念押ししている。ストーブの修理の時もそうだったと、少し前の出来事を思い出しながら、ラッキーは作業を観察していた。
看守は周囲に囚人がいないことを確認すると、今度はすぐに作業に取りかかるよう、指示を出す。娯楽の無いファントムで、ラッキーは修理や修繕作業を観察する事に、楽しみを見出していた。
手際よく作業は進んだが、結局は剥ぎ取られた管の周辺も交換されることとなる。サビがどうとか言っていたが、ここは雑音が多く、音が反響する。耳に自信のあるラッキーと言えど、正しく声を聞き取ることはできなかった。ただ、ついでに交換した方がいい何かがあったのだということは分かる。それで十分だった。
「おっ」
ラッキーは思わず声を上げる。作業員が看守に何かを伝えた後、格子が再び開かれたのだ。
追加の材料を取りに行くのだろう。二人の内、一人が格子を潜り、看守と残された作業員はその背中を見送る。
「おーい! 俺の上着もついでに持ってきてくれ! 助手席にある!」
五分後、戻ってきた作業員はいくつかのパイプを担ぎ、小さな道具箱と上着を手にしていた。
「なるほどねー」
ラッキーは楽しそうに呟く。
その後、作業が完了すると、彼女は目を細めた。真新しいパイプが古びた壁を真横に這う、アンバランスな光景を目に焼き付ける。
作業と看守が格子の外に消えたのを確認して、ラッキーはB-4区画へと戻って行った。その背中は、妙に楽しげであった。
***
ところかわって”イ”独房。
饐えた臭いがこびりついたベッドに身を投げ出し、エドは水滴の音に耳を傾けていた。独房にはラッキーと出会って以来、入っていない。もっとも、その時は”ハ”独房だったが。
どの独房も大して変わらない、それが前回”ハ”を初体験したエドの感想である。実際は、優先的に使用される、”イ”が最も悪臭を放っているわけだが。
今のエドに細かい事を気にしている余裕は無かった。やっぱ臭ぇ、と一言漏らすのみで、それからは特段気に掛けず過ごす。何日間も使用することが確定している密室に立ち籠める悪臭、平時であれば決して容易に割り切れるものではないだろう。だが、今の彼女にとっては、取るに足らない事でしかなかった。
エドは本来ムサシが受ける筈の罰を肩代わりしたのだ。それには相応というべきか、当然理由があった。しかし、律儀なあの女は、エドの事情など構わず礼を述べ、心から感謝するだろう。それらを面倒だと感じる程に、エドはムサシに無関心だった。
ここに来た理由。それは、クレと顔を合わせたくない、ただそれだけだった。関係を精算し、再び赤の他人よりも、少しだけ距離の近い他人になることを、悔いた自覚は無い。
にも関わらず、エラーとセノが突入した時、エドは咄嗟にこうなる未来を選んだ。こうすれば、しばらくはあの無駄に整った面を拝まなくて済む。土壇場で逃げ出すような選択をしたことを、恥じている余裕すらなかった。
クレがエラーに気付いた時の表情。駆け寄ったエラーに、縋るように抱きついたこと。あの一連の流れを、頭の中で何度も繰り返す。何故、その光景が頭から離れないのか、その理由を考えようとしないから、いつまでも抜け出せないでいる。
騒動から三日経ったというのに、この女だけはまだあの日に縛り付けられていた。
ちなみに、同じく独房入りとされたゴトーは隣には居ない。体調や精神状態に著しい異常が見られ、それほど深手ではないが怪我もしていた。全てを考慮した結果、医療行為を行える専用の独房に移されたのだ。今回のゴトーようなケースは稀で、ヤク中の囚人が収容されることがほとんどである。
「あー、クソッ」
やり場のない気持ちをあえて言葉にしてみても、虚しさが増すばかりであった。声にした直後に後悔したが、もう遅い。
自分はこのままどうなるのだろうか。自身の今後について、この期に及んで楽観視できるほど、彼女はお目出度くはないのだ。
今から数時間前、短い眠りに就く前のこと。セノから、ゴクイは一命を取り留めたと告げられたものの、彼女が暴力沙汰を起こしたという事実に変わりはない。厳密に言えば事実とは異なるが、囚人達が口裏を合わせたようにそう証言しているのだ。刑務官の立場からすると、事実として処理する他ないだろう。その結果、刑期が伸びても、なんら不思議ではない。
エドは半ば自暴自棄になっていた。クソみたいな人間が堕落していく様を、まるで他人事のように眺めている気分だ。人はいつか死ぬ。どれだけ稼ごうが、どれだけ愛されようが、死は平等に訪れる。だからといってこんな人生を歩む必要は無かったんじゃないか。エドはそう自嘲する。そして、抗う事に疲れたというように、囚人服の中に自らの手を滑り込ませ、自慰に耽った。
体を売っているくせに、いや、そのせいとも言うべきか、エドはほとんど自身を慰めた経験がなかった。中には行為が好きだから、という理由で風俗に落ちる者もいるようだが、彼女はそのクチではない。ただ生きる為に必要だったから、それ以外他者から何も必要とされていないと理解していたから、そうしたまでだ。
元々淡白な方だったと言えるだろう。自慰について、エドはそれを”ただ無駄に疲れるくだらねー行為。客が見てぇってんならヤらねーワケにいかねぇけど、そんだけ”と、ばっさりと切り捨てたこともある。
そんな彼女が、悪臭の中で自身の体に手を這わせ、息を荒くしている。実は独房に入ってから三日、彼女は既に何度もこの行為を繰り返している。看守はすぐに気付いたが、独房に収容された囚人にはよくある事なので、咎めたりはしなかった。
暇を潰したいのか、快楽を求めているのか、あるいはその両方か。しかし、彼女が本当に求めていたのは、そのどちらでもなかった。
勝手知ったる体を愛撫しながら、クレがエラーに向けた表情を思い浮かべる。下腹部の疼きを鎮めながら、エラーに回されたクレの腕に思いを馳せる。
声を殺して静かに果てると、エドはどこを見るでもなくふわふわと視線を漂わせた。じんじんと脈打つ自身のそこから手を離すと、体液をカビ臭いシーツで拭う。次に使用する人間のことなど一切考えない、その所作はどこまでもエドらしかった。終わった後、特段虚しいとも感じない。それなりに気持ち良かった、そう思うだけだ。
しかし、自慰を繰り返す度、自らのプライドを保ち続ける事に、どんどんと意味を感じなくなってきたのも事実。そして、遂に彼女は口を開く。
「くそ、ヤりてぇ」
観念したように、赤い髪を思い浮かべながら、誰にも届かない声で白状した。
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