ACT.30
ボイラー室に着くと、四人はその熱気に息を詰まらせた。囚人が出入りすることのできる空間の中で、最も暖かい場所かもしれないと、ムサシは内心で皮肉った。しかし、熱源は洩れたガスによるもので、この部屋は湿度が異様に高い。身体への影響を考えれば、長居は無用の場所である。
扉が閉まると同時に、肩を抱かれていた二人は突き飛ばされた。ムサシはかろうじてバランスを保ったが、クレは反応しきれずに倒れ込んでしまう。ため息をつきながら起き上がろうとする先輩に、ムサシは優しく手を差し伸べた。
二人の様子を無視するように、背後からは「行けよ」と声が響き、奥にある比較的ひらけた空間まで歩かされる。物音はよく反響するが、この部屋の入口はかなり奥まったところにあり、たまたま通り掛かるような通路に面していない。当然、二人は助かる為の算段をつけていたが、誰かが異変に気付いて駆け付ける可能性に懸けるのは、あまりに無謀であった。
「そんなに俺らが気に食わねぇかよ」
「なんの話だよ。ぶつかったのはわざとじゃねぇって」
「陰口叩いてたろ」
クレは思い当たる節がないか考えるが、思考が上手くまとまらず、訝しむような顔のまま、何も言えずにいた。反応したのはムサシである。おそらくは当番の時、クレにした話を指しているのだろうと思い至った彼女は、声を低くして反論した。
「陰口って……あれは事実ですよね?」
小柄なムサシは高校生のような見た目ではあるが、既に成人している。そもそも未成年をファントムに入所させることは禁じられているのだ。ここに送られて一年近く経つ彼女は、もうすぐ二十一歳の誕生日を迎える。
所内のしきたりやルール違反者への罰則についても熟知していた。つまり、体調不良で前後不覚となっているクレよりも、事態を冷静に捉えていたのだ。ゴトー達が浮かべる下卑た笑みの意味も、より正確に理解している。
包み隠さず言うならば、ゴトー達は自分達を犯そうとしている。エドで処理できないフラストレーションが溜まりに溜まっており、新しいはけ口にされそうになっている、それがムサシの見立てである。そして、それは悲しい程に的を射ていた。
「どうだろうな。試してみようぜ」
ゴトーはムサシを羽交い締めにし、体の自由を奪った。背後から突然押さえ込まれた彼女は、手足をばたつかせて抵抗を試みるが、ゴクイの笑いを誘うのみである。暴行を働く側から見れば、ようやく準備が整った状態である。
クレはゴトー達の残虐性をよく理解している。ここで下手に動けばムサシがどうなるか。まず、あの細い腕は確実に折られることになるだろう。迂闊に身動きを取る事は出来なかった。
「私のことはいいんですって!」
抵抗が失敗に終われば、ムサシはより惨い犯され方をする。彼女を気遣ってクレが動けないのは当然であった。しかし、動けない原因はそれだけではない。いや、もう一つの要因が大半を占めていると言っても過言ではないだろう。
過去がフラッシュバックするのだ。特に、どこか強張った顔で笑いながら、無遠慮に触れるその様が、クレを辱めた連中のそれと被って仕方がなかった。エドとの一件で、少しはトラウマを克服できたのではないかと感じていたが、完全に気のせいであったことを思い知らされる。
しかし、ムサシは事情を知らない。彼女から見れば、クレは誰彼構わず食ってかかる勇ましい先輩なのだ。
「上玉二人とヤレるなんて、今日はツイてんな」
「お前らにどうにかされるくらいなら!」
人質になるくらいなら。ムサシはむき出しになっていた太いパイプへ、勢い良く頭を下ろした。金属が何か固い物にぶつかった音が響く、おそらくは骨。
その音は、自らの過去に心を蝕まれていたクレの意識を、現実へと一気に引っ張りあげた。
「何やってんだお前!?」
「クレさんが戦わないなら自傷しますよ! いいんですか!?」
「ム、サシ……」
「こいつ……頭おかしいだろ」
彼女の額からは血が溢れていた。その思い切りの良さは、ゴクイに正気を疑わせる程のものである。自分が傷付くことを恐れてクレが動けないのならば、抵抗した方がマシだと思わせるような怪我をすればいい。ムサシの考え方は乱暴だが、理に適っていた。
しかし、クレは立ち上がろうとしなかった。否、できなかったのだ。そこに存在しているだけでやっとだ、とでも言うように、頭を抱えて震える。
ムサシはクレの様子にショックを受けつつも、再度太いパイプに頭を打ち付けた。押さえていたゴトーの腕に、だらりと全身の力が抜ける感触が伝わる。
「バカかよ……意識飛ばしやがった……」
ムサシはゴトーの手が緩んだ瞬間、手を振り解いて顔面に拳を振る舞った。元々大人しい囚人だと思われていた彼女の奇襲は、見事に成功する。クレが使い物にならないと判断すると、ムサシは自力でこの局面を脱する方向に、考えを切り替えたのだ。
「んがっ!?」
間抜けな声が響く。不意打ちは決まったものの、二度目は無いと分かっていた。ムサシはクレに背を向けて走り出すと、一目散に扉まで駆けた。
音のわりに、脳へのダメージは無かったらしく、存外しっかりとした足取りで走り抜ける。ドアノブを掴む手の感触も問題無い、彼女は一つ一つの動作で体の調子を確かめながら、部屋を出ることに成功した。
「おい! あいつ!」
「ちっ! ……追うか?」
「てめぇがやれ」
「ざけんなよ、もういいだろ」
ゴトー達は、クレがムサシに見捨てられたと見て、無理に二兎を追う必要はないと判断した。妙にしおらしい様子のクレを目の当たりにし、この好機を逃すまいという心理が働いただけかもしれないが。
先程の要領でゴトーがクレを羽交い締めにすると、ゴクイが脚の間に割って入る。何回も、いや、何十回も経験してきたその体勢に、彼女の気力はもう限界だった。
「ギャハハ! こいつ吐きやがったぜ!」
「よっぽど無理矢理ヤられんのが嫌なんだろうな」
「早く脱がせよ!」
「てめぇがちゃんと押さえてねーからだろ!」
言い合いを繰り広げながらも、二人はクレの素肌を確実に外気へと晒していく。前開きの囚人服のボタンは外れ、インナーは乱暴にたくし上げられる。チャックを下ろす手間も惜しかったのか、ズボンは強引に下げられてしまっている。
「前々から気になってたんだよ、コイツ」
「気になってねーヤツなんていねーだろ」
ゴトーは不躾にクレの頭に鼻を近づけ、髪の匂いを嗅ぎながら笑った。その様子が再び過去の体験と重なる。
モデル時代、髪には自信と拘りを持っていたクレであったが、それは暴行の度に欲望の標的とされてきた。自身の髪を初めて疎ましく思ったのも、こんなシチュエーションだったと思い出す。
その時、ボイラー室の鉄扉が派手な音を立てて開いた。パイプやダクトで入口は見えずとも、ゴトー達は音で何者かの突入を察知し、一拍置いて声の主が一人ではない事に気付く。
「こっちですって!」
「あぁ!? どっちだって!? クソチビ!」
「身長は同じくらいじゃないですか!」
会話の内容と声から、三人が”ムサシがエドを連れてきた”と理解するとほぼ同時に、配管の隙間からムサシ達が姿を現した。
「てめぇらあああ!」
エドはクレの姿を確認すると、弾かれたように走り出した。勢いのままクレに覆い被さっていたゴクイの頭部を蹴り飛ばし、そのままゴクイと共に、地面へと倒れ込む。
ゴトーはクレから手を離すと立ち上がり、エドを抑え込もうとするが、彼女に触れる前に膝をつくこととなる。
背後には鉄パイプを中段に構え、ゴトーを睨み付けるムサシの姿があった。丸腰では抵抗するのがやっとの彼女であったが、長物を持たせれば所内で彼女の右に出る者はいない。剣道の段位を有する受刑者は他にもいるが、ムサシほど勤勉にその道を歩んできた者は存在しないのだ。ゴトーへの視線は固定したまま、小さな侍は口に入った血を床に吐き捨てる。
続けて、頭を押さえて呻きながら振り返るゴクイの顔面を、斜めから斬り上げるようにパイプを振るう。血飛沫が派手に飛んで周囲を汚したが、ムサシは顔色一つ変えずに言った。
「ササイさん。ご存知ですか?」
「あぁ……? なんでそんな」
そこまで聞くとムサシはパイプを持ち直し、振り上げた。上段の構えで静止し、振り下ろすだけで脳天をかち割れる事を誇示すると、もう一度問う。
「質問に答えて下さい」
ムサシが何に苛立っているのかは、エドにも分からない。しかし、今の彼女にはそんな事はどうでも良かった。未だに胃液を吐き出そうと蹲っていたクレに寄り添い、吐瀉物が掛かるのも構わず彼女の肩を抱き続けることで精一杯だったのだ。
「……お、覚えてるぜ!」
「へぇ」
「お、おい! てめぇが聞いたんだろーが! 覚えてるってんだ! あー、あれだろ、髪の長い、な?」
助かりたい一心で、ペラペラと話す二人の話は、聞くにおぞましい、ただの傷害事件の概要であった。
ムサシの知人であるササイは体を売っていた。しかし、あくまでそれは知人の内輪でのことで、感覚的にはセックスフレンドに近いようなものだったらしい。それを聞きつけたゴトー達が興味を示し、ヤクを摂取させ、暴行を働いたという。
怒りに震えながら、ムサシは一言、ビン、とだけ呟く。ゴクイ達は思わず聞き直したが、次の瞬間、二人の頭はゴルフボールのように容赦無く弾かれた。
これには喧嘩慣れしているエドとクレも驚いた。下手を打てば死ぬ。むしろ、死んだって構わないという気概すら感じさせる、強烈な打撃である。その姿は少しだけ、エラーを彷彿とさせた。
「お、おい……ムサシ……」
エドはその光景に圧倒され、クレを介抱しつつ沈黙を貫いていた。ムサシに声をかけたのはクレである。彼女には分かっていた、ムサシが簡単に人を傷付けるような女ではないと。
「すみません、クレさん。私のこと、殴ってくれますか」
「は、は……?」
「このままじゃ、コイツらを殺しそうです」
「……ったく、ゲロってるヤツに無茶言うなよ」
その願いを引き受けたのは、クレではなくエドであった。抱いていた肩をそっと床に置くと、助走を付けて、凶器を構えた女を後ろから蹴り飛ばす。バランスを崩したムサシはダクトに頬を強打し、パイプが床に落ちて甲高い音が響く。そして、暴力による強制ストップを要求した本人に「ここまでやります?」と言わしめたのである。
ダクトに凭れたまま、ムサシは再びゴトー達に問い掛けた。
「ササイさんに、ビン。入れたでしょう」
ゴクイとゴトーに、既に戦意はない。それは偏に、ムサシの眼光から放たれる凄まじい殺気によるものであった。多少の負傷をものともせず、必要であれば再び鉄パイプで殴りかかる。予知夢のように巡るそのヴィジョンは、下衆二人から抵抗する気力を根こそぎ奪った。
「そのあと、腹を蹴ったでしょう」
彼女の声は怒りに震えている。いや、声だけではなく、体も震えていた。悪行を聞かされたクレとエドは、二人に軽蔑の眼差しを送った。クレに暴行を働いたエドであるが、性欲から無関係の人間を巻き込んだそれと、自分のものは違うという、彼女なりの線引きがあるようだ。
「お前ら、それマジかよ」
「元はといえばてめぇが休業するからだろーが!」
「はぁ!? あたしのせいって言いてぇのかよ!」
「そうだろうが! てめぇは黙って股開いときゃいいんだよ!」
「んだとてめぇ!」
両者が激しく言い争う中、エドに抱きかかえられていたクレが久方ぶりに声を発する。その囁きにも似た話し声は、どんな怒声よりもその場を凍り付かせた。
「なぁ、ムサシ。知ってるか。エラーがボスになる前のこと。ハイドさんに聞いた。当時のここは荒れ放題で、オーバードーズや抗争で何人も死んだらしい」
「……はい?」
「だけど、基本的にはお咎め無しだ。なんでか分かるか? 職員達にとって最も避けるべき最悪の事態は、囚人の脱獄。受刑者共の生き死になんざ、大したことじゃねぇんだ。分かるだろ、本来ならササイさんが暴行された時点できちんと捜査が行われるべきだった」
ゴトーとゴクイ、二人の顔が青ざめていく。しかし、クレは話すのを止めない。
「こいつらが死んだところで、オレらがズラかれば、同じように大した捜査もされず、真相は闇の中だろうよ」
「クレさん……?」
「殺したいなら、殺していいんじゃねぇか」
過去のB棟の噂は耳にしないでもなかったが、ムサシがこれほど具体的な話を聞くのは初めてであった。そして、当時のボスであり、生き証人である女が言ったことであれば、間違いはないのだろう。
ムサシとササイは決して恋愛関係などではない。しかし、四十路手前のササイは、ムサシのことを娘同然に可愛がっていた。そして、彼女もまたササイを慕っていた。
ムサシの頭の中に、彼女の笑顔が過ぎる。鉄パイプを拾うと、強く握り直す。元々復讐に向かおうとしていた彼女を止めたのは、瀕死のササイだ。
どうせこの歳、刑期もまだ長い。子を成す事など、元より望めない自分のそこが使い物にならなくなったところで、誰も困らない。そう言ってムサシを引き止めたのである。
自分よりも、未来ある若者であるムサシの身を案ずる、ササイらしい言葉であった。しかし、現実はどうだ。こちらから仕掛けずとも、欲に塗れた下衆共は暴行を働こうと、強引に自分達をこんなカビ臭い密室に閉じ込めたのだ。
ムサシはここに至るまでの経緯を振り返ると、箍が外れたように、明確な殺意を持って、凶器を持つ両手を振り上げた。
――復讐など無意味? 抜かせ、腑抜けが。
過去の自分をそう嘲ると、彼女は全力でそれを振り下ろす。人体を打ち付けたとは思えない様な甲高い音が響き、ムサシの手には音とは不釣り合いな重たい感触が走った。そして巨体が一つ転がる。
「ゴクイ!? お、おい! やめろ!」
強かに打ち付けられたにも関らず、うめき声一つ上げないゴクイを見て、ゴトーはすぐそこに死が迫っていると確信した。鉛のような血液がゴトーの手を濡らしたが、構っている余裕など無い。
「くたばれ、下衆野郎」
「何してるの!?」
「遅ぇよバーカ!」
扉を開け、その場に突入したのは、エラーとセノであった。放心するクレと、次の鉄槌に備え、構えたままのゴトーとムサシ。そんな中、エドだけが悪態をつきながらも、ムサシを突き飛ばし、鉄パイプを奪った。
ダクトが入り組み、やはり入口からは室内の全容を把握できない。セノは、部屋の奥まで駆けつけると、怒鳴るように声を上げた。
「これはどういうことだ!」
「見て分かんねぇのかよ、こいつらがあたしらをレイプしようとしたから殴った」
「……そうなの?」
少し遅れて到着したエラーは説明を求めるようにゴトーを睨み付ける。彼女は首肯するしかなかった。ここでエドやムサシの意に反することをすれば、自分もゴクイと同じように死ぬ、圧倒的な恐怖が選択肢を奪ったのである。
「俺だ。大至急、応援を向かわせてくれ。場所はボイラー室。医師を一人、看守を三人」
セノの通信が終わる前に、エラーはクレに駆け寄る。傍らにしゃがむと、クレは抱き着いて静かに泣いた。あやす様にエラーは優しく背に腕を回す。エドは複雑な表情でそれを見つめていた。
エラーは華奢な肩を抱きながら俯く。慌てた様子のエドと、額から血を流すムサシ。「ボイラー室にセノを連れて来い」とだけエドに言われ、ただ事ではないと思い、その言葉の通りにした。しかし、一緒に向かっていれば、また違う結末が待っていたのではないか。そう思わざるを得なかった。
「エド、ゴトー。お前らは、分かるな」
「ゲンコーハンの時だけ調子よく独房かよ。良かったな、ここにあたしらが居て」
「何を……」
「てめぇらがササイのババアの時にまともに捜査してりゃこうならなかったって言ってんだよ!」
「その事件と、関わりがあるのか」
静かに聞き返されると、エドはつい口走ってしまったと、苦虫を噛み潰したような顔をした。
エラーはその様子を見逃さなかった。彼女には分かっていたのだ、エドは嘘をついている、と。彼女は正当防衛であると主張したが、元々彼女はムサシに呼ばれて助けに入った立場である。暴行の標的ではなかったはずだ。
そして何より、あの獲物である。ムサシが剣道を嗜んでいることは、かつてササイから聞いていた。剣道有段者がムサシを名乗ることになるとは、偶然とは恐ろしいものだ、と笑っていたのだ。
極めつけに、エドの失言。ササイの件が今回の事件に絡んでいるのは明白である。つまり、エラーはエドの一言で、彼女がムサシを庇って独房に入ろうとしていると確信したのだ。
「クレ、立てる?」
「……おう」
「ムサシも、大丈夫?」
「……はい」
まもなく到着した応援により、エドは独房に、ゴトーは別室へと移された。ゴクイは担架で運ばれ、ムサシは医師の手を借りず、自力で医務室へと向かう。残されたセノとエラーは、クレが落ち着くまで静かに寄り添った。
「医務室、行こ?」
捲れたままのクレのシャツをそっと直しながら、エラーは語りかけた。しかし、彼女は首を縦には振らない。その場を離れるわけにもいかないセノは、目のやり場に困って、意味もなく排気口を見つめている。
「大丈夫だった? なんて、聞いても仕方ないか」
「大丈夫だよ」
「でも、吐いた跡あるよ」
「あんな連中にヤられるなんて、吐くしかねぇだろ」
例え二人が相手だとしても、普段のクレであれば互角に渡り合えたはずだ。ゴトーはともかくとして、ゴクイは浅知恵が働くだけの雑魚である。何らかの理由がないと、ここまで無抵抗にクレが組み敷かれるとは考えにくかった。
そこでエラーは思い出す。過去にエドが仕入れたヤクの出処が、ゴクイであったことを。セノの前でそれを問いただしていいものか逡巡したが、エラーはクレに問いかけた。
「もしかして、ヤクでも盛られた?」
「それはない。大丈夫だって」
まさか、ラッキーにエドとの関係を知られたショックで前後不覚になっていたとは、口が裂けても言えなかった。結局、クレはその後も、大丈夫という主張を続け、一旦部屋へと帰される事となった。
クレの肩を抱いた感触が、しばらくエラーの手に残り続けていた。
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