ACT.28
クレは朝から気分が優れなかった。最近は吐いてばかりだった上に、寝不足が続いていたせいで、断続的に短い夢を見ているような感覚がずっと抜けなかったのだ。昨晩は、久々にぐっすり眠れたというのに、手遅れだと言わんばかりに、頭がずきずきと痛んだ。
おそらくは緊張の糸が切れた反動だろう、と彼女は自己分析していた。大事な撮影を終えた翌日に体調を崩す等、昔からその気はあった。
額に手を当ててみたり、こめかみを押さえてみたりと、落ち着かない様子で掃除の当番をこなす。これが終われば、あとは夕食を済ませて自室に戻れる。自分にそう言い聞かせ、彼女は必死に手を動かした。
「クレさん、顔色悪くないですか?」
「あぁ、ムサシか。オレは平気だ」
同じ当番で居合わせたムサシは、心配そうにクレの顔を覗き込む。後輩に気遣われていることに気付くと、クレは慌てて気丈に振る舞った。
「そうです? この間、エラーさんも怖い顔して歩いてたし、何かあったのかと」
「エラーが?」
クレはこのところのエラーに関する記憶を辿ったが、何も思い出せなかった。そこでやっと思い至ったのだ。最近ほとんど会話をしていない、と。
エドとのことを詮索されたくない気持ちはあった。察しのいいエラーのことだ、あえて深入りして来なかったのであろう。クレは記憶から薄れるほどエラーを避けていたことを悔いた。
一件落着したことだし、体調が戻ったらどんな事があったか、ところどころぼかして打ち明けるのもいいかもしれない。クレはモップで床を磨きながら、他愛も無い計画を立てていた。
二人は調理室、コンロの前で清掃作業をしていた。奥の作業台では、何やら下衆な会話が聞こえてくる。顔を上げるまでもなかった。当番の面子にゴトーとゴクイが混ざっていることを思い出しながら、クレは心の中で悪態をつく。
奴らは気が向くと、平然と当番区域にやってくる。一昔前、ヤクの売人達は取引の時のみ顔を出していたが、それでは自分達が居る時に取引があると公言するようなものだ。ドラッグに厳しいエラーがボスになってからは、目くらましのため、取引のない時も参加するようになっていた。
関係のない囚人達がそのことに感謝しているかどうかは置いておいて、当番の出席率の上昇、それはエラーの功績の一つと言っていいかもしれない。
面倒を被ってでも自衛すべきだと判断した、二人は意外にも賢明であった。
「あいつ、いつになったら石けん受け取るんだよ」
「風呂場が嫌なのかと思って、部屋に誘っても駄目だったぜ」
あの二人がいつもエドを買っていることは、クレも知っている。至るところに食指を伸ばしているようなので、誰のことは分からないが、商売女の話には間違いないだろう。不快な会話が聞こえない位置まで移動しようと、バケツを持ち上げたところで、その手は止まった。
「病み上がりで本調子じゃねぇって理由らしい」
「だからヤリてぇんだっつの。無理矢理ヤるか?」
「馬鹿、機嫌損ねたらそれまでだろ」
病み上がり。この単語がクレを凍り付かせた。彼女が知る中で、最近そんな状態になったのは、自分とエドの二人だけである。消去法で、最近休業しているのはエド、ということになる。
エドが彼女達との接触を避けている要因が、もし自分だとしたら。嬉しいだろうか。いいや、そんなことはない。煩わしいだろうか、いいや、そうとも言い切れない。
クレは言い表すことのできない感情に見舞われ、息苦しさを感じた。ムサシに話しかけられるまで、硬直していることすら自覚していなかった程である。
「クレさん……?」
「あ、あぁ。どうした」
「エドさん、最近ウリ止めたんですか?」
「……知らねぇよ。オレとアイツは友達でも何でもねぇし。聞く気もねぇ」
そしてムサシはクレにこっそりと打ち明けた。エドが取引に応じなくなってから、身体を売る囚人達の間で、不穏なことが起こっていると。つまりエドは、そこでただ床をばしゃばしゃと濡らしているだけの二人のような、厄介な客の貴重な受け入れ先だったのだ。そんな掃き溜めが一つなくなってしまった。
そのお陰で面倒な客の一部が他の女に流れ、酷い時は引退に追い込まれる事態にまでなっているらしい。ムサシはたかだか性欲で人を壊すなんて有り得ないと、甚く憤慨していたが、クレは違った。むしろ性欲は、人をそんな風に突き動かす、数少ない要因だろう。そう考えていたのだ。
「おあずけ食らった変態共だろ。人一人殺してもおかしくねぇよ。引退した奴は気の毒だけど、生きてて良かった」
「そう思います? 死ねれば良かったのにって、目が覚めたあの人はそう言ったんですよ」
クレは思わず言葉を詰まらせた。ムサシと親しい者とは思わず、軽卒な事を言い方をしてしまった。気付いてすぐに謝ったが、ムサシはさらに倍の勢いで謝罪した。八つ当たりするような言い方をして申し訳なかったと、半泣きになりながら頭を下げたのだ。
それがクレを更に暗い気持ちにさせた。明らかに配慮に欠いていたのは自分の方なのに。ムサシの後頭部を見つめると、すぐに顔を上げさせた。
「いや、お前はマジで悪くねぇ、オレがバカだった」
「でも」
「いいから、もうこの話はやめようぜ」
何とも歯切れの悪い終わり方に歯がゆさを覚えたクレであったが、これ以上の会話を続けるほど、彼女の心は強くなかった。
何が起こったのか、聞けなかったのだ。聞けば、自分の過去と重なってしまう気がしたから。ムサシが話し出さなくて良かったと、胸を撫で下ろしていたのである。
所定の時間内に掃除を済ませることはできたが、ゴトーとゴクイが顔を出したのは、どう考えても逆効果だった。何もしないで立っていてくれた方がまだマシだったというべき働きぶりで、ここにサタンが居たならば、無能は何をやらせても無能だと、ある種の感心をしていただろう。
そして夕食時、クレは一度もエドと目を合わせなかった。傍目に見ても何か特別な事情があるのは明白で、それは決して他者が深入りしていい雰囲気のものではない。少なくとも、B-4の三人はそう思っていた。
しかし、周囲に気を遣わせていると、気にしている余裕は二人には無い。言われてみれば当然のように気が付くような事が、言われるまで分からないのだ。両者ともそれぞれの別の理由で追い込まれていたのである。
あの関係を解消してほっとしていたのは、エドも同じであった。これでもう、妙な衝動に振り回されなくて済む。クレのトラウマを弄り倒し終わった、エドはそう認識していた。一仕事終えたような達成感すら感じていたのだ。
そして、彼女にはもう一つ気がかりな事があった。それは医務室から戻ってきてから休業していた仕事についてだ。クレとの一件が終わるまで、と自身の中で区切りを付けていた筈が、いざ落ち着いてみると、全く再開する気になれなかったのである。
エドにはその理由が分からないでいた。どんな理由を考えても正解になる気がしなくて、手元にはただ、「今はウリをしたくない」という気持ちだけが残っている。
答えが見つかるまでは、のらりくらりとしつこい客達を煙に巻き続けるしかない。流れに任せて、再開すると後悔する気がした。
つまり、エドは逃げ回ってきた問題に、やっと目を向けるつもりになったのである。ここ最近の話ではない、彼女の人生の中で、まだ一度も迎えていないイベントを、観念して迎えようとしている、ということになる。
しかし今日はそれを始めるにはあまりにも億劫だった。クレとの事に区切りがついたばかりなのだ。一日くらい、安息日としてもいいだろう。加害者でしか無いくせに、エドは本気で自身をそう労っていた。
そしてこの日、クレはエラーと雑談せず、真直ぐに自室へと戻った。とにかく、誰に邪魔されることなく、できるだけ長い時間を睡眠に費やしたかったのだ。
入眠する前に、洗面台と称されたスペースの小さな鏡で自分と見つめ合い、クレは思わず笑ってしまった。目の下のクマ、痩けた頬、ハリのない肌。正面から自分を睨み付ける女のそれが、自分のものとは思えない程、酷い有様だった為だ。
――そういや鏡なんて見たの、いつ振りだろ
クレは感慨深そうに振り返り、ベッドに入ると、そのまま目を閉じた。
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