ACT.27

 月明かりがファントムという砦を照らしている、静かな夜だった。交代時の精悍な顔付きは何処へやら、看守は人目も憚らず、円月に向かって盛大な欠伸をして見せる。

 見事な満月だった。退屈を感じ始める時間帯ではあるものの、それだけであれば警備の気もここまでは緩むまい。こんなに明るい夜に誰が面倒なんか起こすかよ、口にする者はいないが、皆がそう思っていたのだ。


 現代社会に生きる一般人には、なかなかピンとこない話かもしれないが、消灯時間以降、使用できる照明器具が無い囚人にとって、月明かりは夜の過ごしやすさを決める大事な要素の一つである。

 B-4区画、参の部屋。夜な夜な情事に耽った二人の女も、存分にその恩恵にあずかっていた。


「お前さ」

「んだよ」


 悪さをしているのは、疲労か眠気か。二人は舌を動かすのも億劫という様子で、けだるげに意思を疎通させた。そこまで面倒ならばいっそ話さなければ良いものを、最初に話しかけた金髪の女には、どうしても伝えたいことが、確認をしておきたい事があったのだ。

 しかし、その言葉を投げかけられる赤髪の女には全く心当たりが無いようで、ウザったそうに眉を顰めている。


「今日、遂に吐かなかったな」

「……あ。そーいやそうだな」


 クレはエドの残念そうな声色が引っかかったようで、喧嘩腰とも言える態度で、彼女の後頭部に話しかける。ぼんやりとした光に照らされ、金髪がいつにも増して輝きを湛えているように見えた。クレはそこで漸く、本日が満月であることに気付く。



「お前、まさかそういうのが趣味なのか?」

「ふざっけんなよ。っつーか元々趣味でヤッてるわけじゃねーし」

「……そーいやそうだったな」


 エドは一貫して、この一連の行動を嫌がらせの為と言い張っている。ところどころで彼女の証言には矛盾が生じるが、深く追求しても面倒なことになるだけだと、長い付き合いでクレは理解していた。

 余計な指摘をし、逆上させて秘密を漏らされるくらいなら、とりあえずはこのまま黙って飼われていた方が良さそうだ、というのが彼女の判断である。


「つーかよ」

「うるせぇな、寝ろよ」

「いやオレも寝たいんだけどよ」

「あぁ?」

「てめぇ、なんでオレに腕枕させてんだよ」


 そう、クレにとって吐く吐かないはどうだってよかった。それよりもこの馬鹿げた体勢をどうにしかしたい。その一心で、彼女は襲いくる眠気を押しのけて抗議したのだ。

 しかし、エドは事も無げに開き直った。肩を竦めているようである。彼女の仕草一つ一つがクレの癇に障った。


「ここのクソみてぇな枕よりマシだからな」

「腕痺れてきたから退けろ。っつかそろそろ戻れよ」

「はぁ? 馬鹿かよ、さみぃんだよ。てめぇ寒くねぇのかよ」

「さみぃけど、点呼の時に部屋に居なかったらやべぇだろ……っつーか」


 今のクレに、邪魔な頭を押しのける程の余力はない。気色悪いと感じていた行為の所以が意外なところにあったと知り、ふと気付いたのである。


「お前が脱ぐ必要なくね?」

「それな」

「じゃあヤる度にいちいち脱ぐなよ、着とけよ」

「……次、あたしが脱ぎそうになったら言ってくれ」


 クレはため息をついた。今の発言で確信したのだ、エドが無意識の内に服を脱いでいることに。ただ自分を辱めるだけの行為によくもまぁそれほど夢中になれるものだ、と呆れたのである。


「はぁ……次って、いつになったらてめぇの気は済むんだよ」

「てめぇに関係ねえだろ」

「関係しかねぇよ、ヤられてんの誰だと思ってんだ」


 エドは舌打ちをすると、逃げるように体を起こした。

 好機とばかりに、クレは彼女に声をかける。


「ほら、行けよ」


 そうしてエドの小さな背中を押してから、クレは彼女に背を向け、布団に入り直した。


「てめぇは暖かそうでいいよな。くっそ、さびぃ」

「はっ。早く出てけよ」


 クレの視界の隅では、エドが寒さに震えながら服を身につけている。袖を通そうと腕を伸ばした直後、壁に手首をぶつけた彼女は「いてぇっ」と情けない声をあげた。余程寒かったのだろう、急いで着衣を済ませなければ、という焦りが見て取れる。

 しかし、クレは顔を動かさず、壁を見つめたままでいた。結局、最後の最後まで喧嘩腰のエドであったが、クレはそんな彼女に慣れていた。そして困っているのだ。


 遂に、嘔吐せずにエドとの行為を乗り切った。エドは面白くなさそうな表情を浮かべていたが、クレには近い内にこうなる事がなんとなしに予測できていた。

 それは、自分に触れるエドの手が、あまりに優し過ぎた為である。もちろん、普通の人間であれば、エドの触れ方には問題しか感じないだろう。しかし、これまで陵辱の限りを尽くされてきたクレにとって、物ではなく人として扱われるということ自体、未知の体験であった。行為の最中に憎まれ口を叩かれたとしても、会話が成立するだけで新鮮であった。

 数をこなす度、受けてきた陵辱との違いが浮き彫りになっていく。つまり、エドのを克服出来た所以は、自分の過去の経験を模しているわりには生温いと、気付けた事にあったのだ。

 行為に執着する理由。同性との性行為を極めてビジネスライクに考え、実践してきたはずの彼女が、記憶が飛ぶほど理性を失う理由。それらを結び付けると、嫌でもある可能性に辿り着いてしまう。

 いつまでも怖がっていろという方が無理な話だ、クレはそう思っていた。


 しかし、それを伝えたところでどうにもなるまい。下手に動いて、照れ隠しで面倒な行動を取られてはたまったものではないのだ。

 扉が開いて、静かに閉まる音を確認してから、クレは吐き出すように呟いた。


「めんどくせぇ女」


 まさか、自分が女を持て余す日が来るとは。クレは眉間に皺を寄せて難しい顔をしていた。しかしそれは仕方のない事だ。

 同性とこのような関わり方をするなど、誰が予想できようか。根っからの同性愛者ですら、一部の人間しか抱えない悩みだろう。


 エドが居なくなり、ベッドが広々と使えるようになった事を実感するように、彼女は背をシーツにつけ、久方ぶりに天井を見る。


「お前がオレを抱く意味はもうねぇ筈だろ」


 天井を見つめながら呟く。誰に言うでもなく、彼女は呟いたのである。計算外だったのは、まだ部屋にエドが居たことだ。


「あ?」

「おま、なんで」

「ブラ忘れたんだよ」

「バカだろ」


 しくじった、後悔をしながらクレは会話を続けた。聞かれてしまったものは取り消せない。エドを逆上させないよう話を続けるしかないと判断した彼女は、必死で言葉を探す。しかし、先に口を開いたのはエドの方であった。


「……あたしもそう思う」

「じゃあ」

「うるせぇ」


 エドはベッドの横に歩み寄り、クレを見下ろす。その顔は怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。

 うるさいと小さく怒鳴られたクレであったが、彼女は構わずエドに問うた。


「なぁ、レズってキモいよな?」

「あぁ、有り得ねぇ」

「じゃあやめようぜ、こんなこと。吐かなくなったオレに、まだ用があんのか?」

「…………だな。やめだ、やめ。てめぇにゴホーシするだけなんて馬鹿馬鹿しいし」


 上手くいった。クレは事態がいい方向に転がった事を喜んだ。もちろん、そんな素振りはおくびにも出さぬよう、慎重に振る舞いつつ、である。

 我ながら上手い言い方をした、彼女は内心で自我自賛しながらエドを真っ直ぐ見つめた。ちなみに、クレはエドほど同性愛者を嫌悪していない。というか、それらとは無縁な人生を送っていたので、無関心のまま生きてきたのだ。

 所内でその手の噂を耳にしても何も感じなかったし、エドの商売のことだって、体を売るという行為に嫌悪感を感じているだけである。


 しかし、エドが同性愛者を激しく見下しているということは理解していた。それを逆手に取って利用したのである。


「あばよ」


 今度こそ扉の外に消えていくエドの背中を見送ると、クレはゆっくりと大きく息を吐いた。やっと解放される、じわじわと実感がこみ上げる。そして彼女は久方ぶりに笑った。


 吐かなくなったといえど、クレは他人に触れられることを嫌っていた。一般的な感覚を持ち合わせている者であれば、それは当然である。

 元々、特別な感情を持って接せられる事にさえ、居心地の悪さを覚えるほど、この女は繊細だったのだ。


 今日こそはぐっすり眠れる。

 そう確信したクレは、満足げな表情で瞳を閉じた。



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