ACT.26
ラッキーは上機嫌でネジを回していた。隣には同じ作業に黙々と取り組むサタンの姿があった。
たまに微笑みかけては、そっぽを向かれる。作業の合間にそんな他愛のないやりとりを繰り返し、ラッキーは徐々にサタンの機嫌を損ねていった。
「ねねね、サタンちゃんって、私のこと嫌いでしょ」
「あら、自覚があったんですね」
「そりゃね。この間、エラーちゃんと目が合った時は微笑んだんだよ? なのに、私とは目が合った瞬間、仏頂面。さすがに気付くよねー」
「……エラーと目が合った時に微笑んだくだり、いりました?」
「比較対象として、ね?」
「比較するまでもないことでしょう」
「あー……わかった、サタンちゃんって、私のそういうところ嫌いなんでしょ」
納得したようにラッキーは笑ったが、サタンは静かに驚いていた。まさかこの短時間で、彼女がこれほど正確に自身が嫌われている理由を言い当てる事ができるとは思っていなかった為である。
「その、「よく分かったな」って表情、結構傷付くなー」
「だって理解できるとは思ってなかったんですもの」
「なんで?」
「やっぱり分かってなかったんですね」
「なんてね、知ってる知ってる。でも意外だよ、サタンちゃんって私と同類なんだと思ってた」
「口の利き方には気をつけた方がいいですよ」
人当たりが良いと評判の女が、珍しく人を睨みつけていた。彼女にとってラッキーとは、ある種特別な人間なのだ。温和な彼女が他人にこれほどの嫌悪感をぶつけることは非常に稀であり、比較的付き合いの長いエラーですら前例を挙げられないだろう。
二人の会話では明確にされていなかったが、つまりサタンは、感情が欠落したようなラッキーの振る舞いが、特に人を人と思っていないようなところが、どうしても気に食わないのだ。
地上の人間は自分一人だけで、その他の人は家畜か玩具。良くてペットだとでも思っているのだろう。普段の態度から、サタンはそう感じていた。
彼女も相当に狂っているが、本人は誰よりも愛情深い人間のつもりでいる。人を愛することも無く、それを指摘すると「そうする意味を教えて欲しい」と言い出しそうなラッキーの異常性を、彼女はどうしても受け入れられなかった。
兆候は最初からあった。ラッキーが彼女の性的指向を言い当てたように、彼女もまた、ラッキーの性質を肌で感じるように、本能的に読み取っていたのだ。
そうした結果、生理的に受け付けない、そう言い捨てる他ない程、底辺の更に下の感情を抱いたのである。しかしそうではなかった。同類と見なされた瞬間、彼女への嫌悪は更に増したのだから。
「あ、サタンちゃんって、自分は私とは違うつもりなんだ」
「知ったかぶりで決めつけですか。流石、気持ちの悪い人は格が違いますね」
「ちょっと言い過ぎじゃない?」
そう言って、ラッキーは短く笑った。この場で笑えてしまう事に、サタンはさらに嫌悪する。彼女の精神構造は常軌を逸している、改めてそう思わされたのだ。そんな様子のサタンにお構い無しでラッキーは続けた。
「知ったかなんかじゃないよ。生きてる人とセックスしたことある?」
「ありますけど、それが何か?」
答えてから、サタンは絶句した。なんだ今の質問は。問いかけの異様さに気付き、無意識の内に作業の手が止まる。
サタンの罪状について、何かを知っている囚人は一人も居ない。多分などという曖昧なものではなく、絶対に存在しないと断言できるだけの自信が本人にはあった。
「あっ。安心してね。私以外は知らないから」
「……あなた、一体」
「まぁまぁ。で、一つ提案なんだけど」
そこで区切ると、ラッキーはまた笑う。直前にされた質問が頭に残っているサタンは、鳥肌が立つのを感じながら、静かにラッキーを見つめた。
「ヤらせろなんて言わないから大丈夫。なんて言うの、仲良くしようよ」
「……同じことでは?」
「そんなに警戒しないでよ。まぁ、サタンちゃんがどうしてもって言うならそれでもいいけど?」
「ふざけないで」
怒気を孕んだ声に気圧され、ラッキーは少しの間黙った。サタンは持ちかけられた提案の意図が全く分からず、沈黙の許す限り、理由を考え続ける。それでも妥当なものはなかなか思いつかない。
「……ちゃんと理由を説明してくれたら、考えるだけ考えてあげてもいいですよ」
「ホント?」
ラッキーは嬉しそうに、彼女なりに言葉を選びながら説明を始めた。
「あるルートを使ってね、サタンちゃんのデータを入手したんだよ」
「……何故私の?」
「一人を狙った訳じゃないよ、みんながどんな人なのか知りたくて。でもここでそういうの聞くと怒られるんでしょ? だから自分で探ったんだよ。で、協力者がたまたまサタンちゃんのデータを見せてくれたの」
はた迷惑な人間がいたものである。恐らく、この口ぶりだと、看守の誰かを何らかの方法で買収したのだろう。サタンは頭に血が上るのを感じながら、自分自身を落ち着かせる。
気まぐれでここで越してきたような女に、突然寝首を掻かれたのだ。これほど敵意を感じさせないままやってのけたのは、ラッキーが元々”人”という生き物を軽視しているせいかもしれない。時代が時代なら、暗殺者なんか適任だっただろうと、怒りと呆れが綯い交ぜになった奇妙な気持ちのまま、サタンはため息を吐いた。
「それ見てね、仲良くなりたいって思ったんだよ」
「なんて書かれてたんですか?」
「自殺するように仕向けたとか、ターゲットはみんな女の子で、死んだあと犯されてたとか? それ見て、私と同じだーって思ったんだよね」
「……あなたも?」
「そ。ま、私は人を殺したいと思ったことも、死体を犯したいと思ったこともないけど」
「じゃあ全然違うじゃないですか」
「一緒だよ」
からからと笑ってラッキーは続けた。
「生きてる人間は愛せない」
動揺を誤摩化すように手元を見ていたサタンであったが、思わず顔を上げた。
なるほど、頭がおかしいお仲間、ということか。ラッキーの言葉の意味を理解すると、サタンは何かのパーツに再び視線を戻す。
「そちらだけが私のことを知っているのは不公平では?」
「じゃあサタンちゃんもリスクを犯して私のデータを手に入れておいでよ」
そう言われるのは予想していたと言わんばかりに、ラッキーは言い返す。そして、彼女の言葉には理がある。サタンは言い淀み、再び手を止めた。
「ズルくないでしょ?」
「だとしても、仲良くしたいと言い出したのはそちら。歩み寄る姿勢を見せるのは当然じゃなくて?」
彼女は言い包められなかった。むしろ初めから譲歩させる事が目的だったように、新たに条件を突き付ける。
その言葉を聞いたラッキーは、あっけらかんと「確かにねー」と呟く。かと思えば、次の瞬間には真面目な表情を作った。
「でも、私のそれについては、まだ触れない方がいい」
「そんなこと言って、本当は大したことないものだったりして」
「一応、前代未聞の囚人らしいけどね?」
ラッキーがそう言った瞬間、サタンは謂れの無い寒気に見舞われた気がした。背骨の上につぅと汗が伝うのを感じながら、小さく息を飲んだ。
もうすぐ冬がやってくるというのに、作業に集中している受刑者達の額には薄っすらと汗が浮かんでいた。監視の刑務官が居る為、暖房が他の部屋よりも少し効いているせいもあるが、それだけではこうはならない。皆、作業に集中しているのだ。
実を言うと、彼女達の作業には全く意味がない。通常の刑務作業には納品先や消費者が存在するが、それが無いのである。
クリーニングだけは唯一発注先があるが、それはここ、ファントムの別棟である。受刑者達に気付かれないようにするため、この施設は棟によって色だけではなく、囚人服のデザインまで変えてあるのだ。
ここの受刑者達に任せられる仕事など存在しない。殆どの刑務作業は彼らの時間を奪う為の、ただの適当な口実でしかないのである。
ある日は組み立て、ある日は分解を命じる。そうやって何種類も用意されている部品を使い回して作業させているだけ。額に汗を浮かべて作業する囚人達の大半は、その事実に気付いていた。しかし、他にやる事がないので、彼女達は意味がないと分かっている作業に打ち込むのである。
初めは珍しがって作業に取り組む。慣れてくると手を抜くようになる。更に慣れると、時間を持て余した彼女達は、例外はあれど、大概が再び真面目に取り組むようになるのだ。そして、サタンもそんな歪んだ勤勉さを持ち合わせた一人であった。
ラッキーはそんな彼女の横顔を拝みながら、自ら緊迫させた空気を弛緩させた。
「うそうそ。やっぱりサタンちゃんは賢いなぁ」
「え」
「大したことないよ。みんなが私のことをシリアルキラーだとかテロリストだとか言ってるけどさ」
直接ラッキーに尋ねた者はいないようだが、やはり噂されている内容について、どこか見聞きしたようである。そう察し、サタンは黙ってラッキーの言葉に耳を傾けた。
「もちろん、何も差し出さないとは言ってないよ? サタンちゃんは私がどうなったら嬉しい? 何かしてほしいことでもある?」
「……程よい距離感を保って貰えるのが一番ですけど」
「それだけは駄目だよ、私はもっとサタンちゃんとお近付きになりたいんだし。いい加減さ、私だけに敬語使うのもやめてよ、ね?」
「じゃあ聞くけど、死ねと言われれば死ぬの?」
却下される事を理解しつつも、サタンは大胆な質問をする。彼女が想像していた通り、「まさか」という言葉と共に、それは一蹴された。
それが果たされないのであれば、何を要求しても同じである。サタンはラッキーの発言がどこまで本気か、それを見極める事だけに特化した条件を提示する事にした のだ。これを出来ないと言って退けるのであれば、二度と相手にしない、目も合わせない。そう心に決めて、彼女は口を開く。
「じゃあ、爪でももらいましょうか。利き手の親指」
「そっ。わかった」
ラッキーは待ち合わせ場所を指定されたような、ごく軽い声色で返事をした。どうという事はない、取るに足らないと言った様子で、ドライバーの隣に鎖付きで据え付けられていたペンチを引っ掴み、親指の爪を挟む。
彼女の利き手は右手らしい。少々もどかしそうに、左手でペンチを操り、何度か挟み直す。この間、サタンが口を出す余地は無かった。一種の拷問と呼んでも差し支えないほどに痛みを伴うはずのそれは、淀みなく進行され、まるで何度か経験のある動作のように迷いが無かった。
サタンが目を見開き、息を飲む頃には、全てが終わっていた。爪と皮膚の接合部が限界を迎える嫌な音が、二人の耳の裏にこびり付く。ラッキーは体内で響くその音と感触に、鳥肌を立てた。
存外、痛みは無かった。爪と皮膚の間の組織が、両者を離さないように踏ん張った一瞬、そしてそれが剥がれ始めた一瞬、そこを通り過ぎると、痛みは全て熱に変わっていた。
痛いのだろうけど、ラッキーにはもう分からないのだ。割ったりする事なく、我ながら綺麗に剥げた。そんな感慨を抱きながら、ラッキーはサタンに剥ぎたてほやほやの、血液に塗れた爪を渡した。
「いったぁー……はい、どうぞ」
「ありがとう。ゴミ箱にしまっておいてくれる?」
「え!? それ捨てるってことじゃん!? 欲しいって言ったじゃん!?」
「……ただなんとなく仲良くしたいという理由で、何の迷いも無くここまでされると普通は引きます」
サタンは、ラッキーと剥がされた爪とを交互に見る。まるで汚物を見るような目付きである。せっかく要望に応えたというのに、このように引かれてしまっては本末転倒だ。ラッキーは酷く落ち込んで肩を落とした。
「えぇ……死ぬよりマシだと思って頑張ったのに……」
「やっぱり、他に何か理由があるんでしょう」
「……理由になってないって言われるよ」
いじけたような言い方が面白かったのか、サタンは小さく鼻で笑った。そして、それは私が決めます、とだけ宣言して再び作業を開始した。
ラッキーは自身の親指に視線を向ける。平時は空気に晒されない筈の部分が露出しており、触れなくても痛い。手を動かし、その風が当たるだけで激痛が伴う。皮膚は屋根を失った事にやっと気付いたらしく、ぷつりぷつりと赤い涙を流し始めていた。
そうして、一頻り彼女への忠誠の証を眺めたラッキーは、観念したように口を開く。親指から広がる熱が、ラッキーに焦燥感という名の火を着け、告白を後押ししているようだった。
「欲望に忠実な人が好きなんだよ。私もそうだし。口説いてる訳じゃないけど、タイプっていうの? そんな感じ」
「本当に口説いてないんですか? それ」
「自分と同じようなものを抱えて生きてる人間を探すより、抱かせてくれる女の子を探す方がよっぽど簡単だよ」
「確かに、それには同意します」
サタンは滅多にしない表情を浮かべていた。眉間に皺を寄せていたのである、それも無自覚に。それほどまでにラッキーの発言は意味不明、それでいて混じりけの無い真実であった。
今のラッキーの発言には、絶対に嘘は無い。理由が分からないが、サタンはそう感じた。
「サタンは私が人間らしい気持ちがないところ、気持ち悪いって思ってるでしょ」
「えぇ」
「そうじゃないんだよ。確かに、普通じゃないし、普通にはなれないと思うけど」
「でしょうね、異常者はみんなそうです。ただ私は、あなたと傷の舐め合いのような惨めな真似はしたくないだけ」
「なんでそんな卑屈になるの? 共感できる友達とただ仲良くする、それだけじゃん!」
ラッキーは今にも泣き出しそうな声で、小さく叫ぶ。誰でもいいから助けて欲しい、サタンにはそんな風に聞こえた。狼狽する彼女に、ラッキーは更に追い打ちをかける。
「じゃあ私がサタンちゃんを抱きたいって言ったら納得してくれるの?」
「そんな事は……いや、そうですね」
「そう……でも、せめて、”そうだね”って言って。敬語やめて」
「分かりました。善処します」
このクソアマ。ラッキーは笑顔でこの言葉を飲み込んだ。そしてすぐに落胆するのである。無条件でお近づきになりたいという主張が、警戒されるのは分かっていた。しかし、これほどまでに取りつく島もないとは、思ってもみなかったのだ。
「じゃあもうそれでいいから納得してくれないかな」
「もう遅いです。私は馴れ合う気は」
「あのさ」
ラッキーはうんざりしたように語気を強めて、言葉を切った。面食らったサタンはつられて黙ってしまう。
「サタンちゃんが私の言った事をどう解釈しようが勝手だけど、私の言った事を理解できないフリするのは止めてくれる?」
突き刺すような視線に、体の一部を抉られるような錯覚に陥る。サタンは跳ね上がった心臓を必死で宥めすかしながら笑った。
ラッキーには、このタイミングで笑われる理由が分からなかった。しかし、彼女は目の前で、確かに笑っている。
「ラッキーって怒るんだ」
「……当たり前じゃん」
「怒り方、知らないんだと思ってた」
「知ってるよ、ただ忘れてただけ」
ラッキーの返答に、サタンは吹き出す。そして、刑務作業終了のブザーが鳴り響いたのであった。
二人は工具を机の上に綺麗に並べる。あまり乱雑に置くと、見回りの担当刑務官に叱られて後が面倒なのである。
サタンは先に丸椅子から立ち上がった。そして、座ったままのラッキーを自分へと向かせ、右手で肩を押さえつける。これでは立ち上がれないと、困惑するラッキーの利き手を取り、まだ熱の引かない患部を無造作に触れた。押し潰すように強く握り、つい十分程前までは硬いもので覆われていたそこに、爪を立てたのだ。
「いっ!?」
そして絶叫せんとする女の顎を掴み、上を向かせると、サタンは軽く触れるだけのキスをした。ラッキーはただ惚けていた。何がどうなってそうなったのか。これほど考えていることが分からない人間は初めてだったのだ。
痛みに悲鳴を上げさせない為の手段だったのか、他の意味があったのか。聞くとまた嫌われそうだと思い、言葉を飲み込んで黙ってサタンの後ろ姿を見送った。
彼女は一度、振り返る。ラッキーと目が合うと、手に付いた血をぺろりと舐めて、口元だけで笑ってみせた。
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