ACT.29

 ラッキー、エド、クレの三人は昼食を摂るため、食堂に居た。彼女達はブザーと共に刑務作業を切り上げ、食堂に向かったのだ。

 ラッキーを除いた二人は、この面子に当然ながら気乗りしなかった。しかし、二日前、あの夜に全てを終わらせたということになっているのだ。いつまでもその事を気にかけていると思われるのは、互いの、特にエドのプライドが許さなかった。


 二人はラッキーを間に挟もうと画策するが、そこは彼女が一枚上手であった。先に端の席を陣取り、座って座ってと声を掛けたのである。

 そして空いていた席に、冒頭の順で三人並んで座ることになった。二人は空腹を満たすことにのみ集中し、一切会話をしようとしない。ラッキーは横を見る。間に座ったのが座高の低いエドだったおかげで、両者の顔がよく見えた。


「あのさぁ」


 ラッキーが二人に話しかけても、返答は無い。いや、返答どころか、リアクションそのものが無い。エドもクレも、まるで遠くで聞こえる他人同士の会話を聞き流すように、ラッキーの呼びかけを無視した。

 しかしここで怖じ気づく彼女ではない。すぐさま趣向を変えて楽しむ事とする。つまり、どこまで自分を無視し続けることができるか、試してやろうと思いついたのだ。


「二人とも、何かあったの?」

「体はもう大丈夫?」

「なんで無視するの?」


 順調に無視を続けた二人であったが、ある問いかけをされて反応を示してしまうことになる。


「クレちゃんってエドちゃんにいくら払ったの?」


 二人が顔を上げ、ラッキーを見た。エドはぎらりと睨みつけるように。クレは驚き、若干怯えながら。

 そんな二人の様子を「チョロくて可愛いー」などと考えながら、ラッキーは眺める。


「てめぇ、何言ってんだ?」

「あっ、ごめん。二人がそういう関係って内緒だった?」


 ラッキーは心底驚いたように、少し声を抑える。クレはひたすら固まっていた。エドはわざとらしい仕草に更に苛立ったが、そんなことよりも別の部分に激しい憤りを感じていた。

 誰にも言わない。その約束で彼女はラッキーに体を許したのである。これはどう考えてもルール違反だ。今すぐにでも胸ぐらを掴んで凄みたかったが、そんなやり取りがあったことをクレに知られるのは悪手となる気がした。


 ラッキーの動向については何も知らなかったと、クレと同じような顔をしてやり過ごした方が後々動きやすいかもしれない。いや、もしかすると、ラッキーはクレにも同じように声を掛けていて、既に手を出しているのでは。

 エドの頭の中で、そんな考えがぐるぐると巡る。約束を破られたことよりも、クレに触れたかもしれないという憶測に腹を立てている自分に気付き、彼女はぞっとした。そして、それを誤摩化すように口を開く。


「オイ。どういうつもりだ、てめぇ」

「もー、二人ともそういう仲なら言ってくれればいいのに。確かに私はクレちゃんのファンだったけど、応援するし、ね?」


 長テーブルを強く叩いた後、エドはその腕をラッキーに向けて振り抜いた。今回は音での威嚇があった為か、事前に顔を動かし、なんとか急所だけは避けられた。といっても、目や鼻への直撃を免れただけである。

 ラッキーの体が椅子から落ちる。初日にも二人にそれぞれ暴力を振るわれた事を、彼女は走馬灯のように思い出しながら尻餅をついた。頬骨がズキズキと痛み、頭がくらくらする。なんとか見上げると、そこには鬼の形相のエドが拳を鳴らしながら立っていた。

 平時であれば、クレがやり過ぎだと止めてもおかしくはない。しかし、今の彼女にそんな余裕はなかった。右手で口元を押さえ、震えながら、ただ呼吸をすることに集中していた。過呼吸の気があるのだろうか、ラッキーは冷静にクレを見つめて考える。


「くだらねぇ事聞いてんじゃねぇよ」

「下らない? 二人も倒れちゃって? 区内の雰囲気も最悪なのに? これを気にするのが下らない事だって言うの?」


 ラッキーは心底不思議そうにエドに問う。時間を掛けて問答をすれば、それだけ周囲に会話を聞かれることになる。今のエドには分かっていた、誰かにクレの過去を推察されるような事があってはならない、と。つまり、不用意に自分達の関係について、外で話す訳にはいかないのだ。

 言葉を飲み込んだエドは、黙ってラッキーを見下ろすことしか出来なかった。


「分かりやすいね。ま、いいや。じゃあさ、今晩私の部屋にきてよ」


 やれやれと言いながら立ち上がり、ラッキーは椅子を起こして座り直した。そこでやっと、エドも周囲の視線に気付く。そして不服そうに席に着くと、ちらりとクレを見やった。相変わらず怯えきった表情で、浅く呼吸をしている。テーブルのシミに視線を奪われたかのように一点を見つめる彼女は、隣でエドが心配そうに顔を曇らせていることに気付かなかった。


「また殴られてぇのかよ」

「ううん。でも、暇でしょ?」


 妙な言い回しにエドは目を見開いた。

 クレはかなり前から二人の会話を聞いていない。いや、それで良かったのかもしれない。彼女がしっかりと意味を理解していたら、取り返しのつかないところまで発作が進行していた可能性が高い。


「……んでだよ」

「気になる? じゃあ部屋に来てよ。世話役でしょ? もっと構ってよー」


 ラッキーの要求など、普段ならば確実にはね除けていたが、ここまで言われてしまえば赴くしかないだろう。クレにも同じようにちょっかいを出していたのか、エドはそれを確かめなければならないと考えていた。そして、彼女は肩を落として、ラッキーの部屋に行く約束をしたのだ。

 クレはその間、口を押さえ続けた。それをラッキーだけが見つめる。起こったばかりの”くそったれな出来事”を忘れるように、エドは二人に目もくれず、食事を再開した。


 薄情に思えるかもしれないが、こうする以外、エドには選択肢が無い。クレのトラウマをほじくり返して弄んだのは他でもない自分なのだ。そんな人間に心配や気遣いをされたところで、白々しいとしか感じないだろう。

 いや、それだけならいい。恐らくは余計に事態を悪化させ、クレは食べている最中のものをその場で戻すことになる。とにかく今は事を荒立てたくなかった。それにラッキーもいる。

 エドはそう考え、最良の選択をしたのである。最速で皿の上の物を胃につめこむと「んじゃな」と、トレーを抱えて、その場を離れた。どうやら、午後の作業はどこか適当なところでサボるつもりらしい。彼女は作業場とは逆の通路に足を向けた。


 その場に取り残されたラッキーは、クレが落ち着くまで、彼女の手を握り続けた。ひんやりと冷えきった肌が、震える体が、酷く痛々しく見える。


「その、ごめんね。ただ、どうしても気になって」

「…………ラッキー」

「何?」

「黙ってろ……今は何も考えたくねぇ……あと触んじゃねぇ……」


 暫く沈黙した後、ラッキーは手を握ったまま、うんとだけ返した。




 昼食が済んでも、クレはいまだに呆然としていた。苛立ったり、焦燥感に駆られたり、そんな段階は飛び越えてしまったのだ。

 ラッキーにエドとのことがバレている。ある種、一番知られたくない人間だった。彼女がどういう人間か、クレは未だに掴みかねていたのだ。そう思うのは当然である。極度のストレスに耳鳴りがする。平行感覚を失い、覚束ない足取りで所内の廊下を進む。


「クレさん、大丈夫ですか」

「……おう」

「昨日より具合悪そうじゃないですか」

「かもな」


 クレは後ろからかけられた声に、振り向くことなく反応する。耳鳴りがする中で、自分宛の声をキャッチしただけでも偉い。彼女は自嘲気味にそう自我自賛しつつ、ムサシの声に出来る限り耳を傾けた。

 元々身長差のある二人だが、ムサシがクレの顔を覗き込むように見つめているせいで、その差がより顕著になっていた。心配そうにしている女の顔を見て、”こいつ、近くで見ると結構キツい顔してんな”等と、朦朧とした意識の中で失礼なことを考えたクレであったが、本人もあまり人の事は言えない。むしろ、同じつり目でも、切れ長な目をしていない分、ムサシの方がいくらか取っ付きやすい顔をしていると言えるだろう。

 普段の言動を含めると、この小さな後輩は所内でも、最も話しかけやすい部類に入る。ヤクをやらない、喧嘩をしない、規則は守る、敬語を使える、娑婆ではどれも当然の事だが、ファントムでこの全ての条件を満たせる者は極めて少ない。おまけに可愛らしい顔と、小柄な体躯。サタンと並んで、何故こんなところに、と事ある度に囁かれている囚人である。


「寝不足ですか? ぼーっとしてますし。熱はあります?」

「大したことねーよ、寝りゃ直る」


 果たしてそうだろうか。断言したものの、実際に回復するかどうか、自信は無かった。時間を置くことによって、一時的に気が紛れはするだろう。しかし、彼女は間違っても寝不足ではないのだ。体は疲労しているが、大したことはない。彼女はつい最近、心地よい睡眠を取り戻したばかりなのである。問題はやはり精神面だ。


 心ここにあらずといった様子のクレを見かねたムサシは、目につくものから会話に繋げてみた。すれ違った刑務官の手袋が暖かそうで羨ましいとか、昨日の朝食は珍しく美味しかったとか。

 いじらしい後輩の配慮に気付きつつも、上手く笑ってやる事ができない。クレはそんな自分に苛立った。


「そうそう。そこ、結構前から水漏れしてるんですよ。知ってました?」

「……あぁ。パイプ自体腐れかかってんだろ。あの周辺だけ錆びたりカビたり、困ったもんだよな」

「そうなんですよ! あと臭いし! おかげさまで、廊下の掃除当番の日は憂鬱ですよ」


 ムサシの声が遠くに聞こえる。頭をゆらゆらと揺らしながら、なんとか正面からやってくる巨体を避けようとしたクレだったが、体が思うように動かない。


「ってぇな」

「……わり」

「ツラ貸せよ」

「謝ってるじゃないですか!」


 ムサシは存外負けん気の強い女であった。黒い噂をいくつも持つゴトー、大抵はその渦中におり片棒を担いでいるゴクイ二人を相手にしても、クレを庇ったのだ。見上げるように睨み付ける視線はどこまでも真っ直ぐで、ムサシという女の芯の強さを表している。


 いいから来いよ。ゴトーはそう言うとクレに並び、その肩を掴んだ。ゴクイも倣うようにムサシに近付く。そんな中、クレは回らない頭でなんとか思考を巡らせた。

 しかし、ゴトーという巨体の持ち主に肩を抱かれては、抵抗する術が無い。平時であれば抜け出せたかもしれないが、現在の彼女は絶不調なのだ。

 隣ではムサシが同じように、ゴクイに肩を抱かれていた。巻き込んでしまった。罪悪感に心がちりちりと焼かれる。四人が向かっているのはボイラー室。普段、職員ですら立ち寄らない場所である。

 ただでさえ、ラッキーのせいで心をすり減らしてるというのに。慕ってくれるムサシにまで迷惑をかけてしまった。クレの心は密かに極限状態を迎えていた。

 この二人をブチのめせば、少しは気が晴れるかもしれない。本人は真面目にそう考えていたが、今の彼女はどう足掻いても本来の力を発揮することなどできない。しかし、その正常な判断ができない程に、彼女は疲弊し、追いつめられていた。


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