ACT.20

 深夜、クレは再び目を覚ました。蛍光灯の刺すような光は鳴りを潜め、常夜灯が彼女の端正な顔を照らしている。

 生きてる。目覚めた瞬間、そう呟いた。つい口を突いて出た言葉であり、発した本人にすら、その理由は分からない。いや、厳密に言うと、彼女は自分の声が耳に届くまで、言葉を発したことに気付いてすらいなかった。

 死んだ方がマシだと断言できる程の地獄を体験し、その過去に今でも心を蝕まれ続ける彼女は、安心したように、そして残念そうにそう呟いたのである。


「……んじゃ死ねよ」


 そんな彼女に聞き慣れた声が届いた。脳が炭酸をぶち撒けたように、ぱちぱちとざわめき出す。クレはゆっくりと頭に染み込んできたその声に、吐き気を覚えた。


 ベッドの横に置いてあった洗面器を覗き込む。あと一歩遅れていたら、粗末な掛け布団が胃液に塗れていたところだ。両手の拘束が解かれていることも幸いした。

 音だけで何が起こったのかを察したエドは、不快そうな呻き声をあげて呆れていた。誰のせいでこうなってると思っているんだ。クレに余裕があったならそう言っていただろう。

 しかし、今の彼女はつい立てを挟んだ隣に、自分を辱めた相手が居るという事実を否定するだけで手一杯だった。ここにいる筈のない女、一番居て欲しくない女。当然ながら、エドはクレにそう認識されていたのだ。


「なぁ」


 その努力の甲斐あってか、エドの問いかけは完全に無視される。クレは洗面器を掴みながら、来るな、という言葉をぶつぶつと繰り返していた。

 流石のエドも弱ったという顔を見せ、自分とクレを隔てている簡易的なパーテーションの板を睨む。顔を見せた日には失神するかもしれない、そんなことを考えながら。言葉は通じないと諦め、エドは一方的に喋る事にした。


「お前。外にいる時に輪姦まわされたんだろ」

「あたしも、知り合いにそういうヤツがいた。だけどな、金がねぇから、体売って男にはした金を恵んでもらうことしかできなかったんだ」

「理不尽だよなぁ。そいつもヤる度にゲロゲロ吐いてた。お前覚えてるか? あたしの指、舐め回してたんだぜ」


 わざと傷を抉るような言葉を選んで、エドはつらつらと述べた。空調の音に、微かにノイズが混ざる。何かを引っ掻くようなそれを聞き、エドはすぐにクレが自傷行為に走ったと判断した。しかし、性悪女の口はその程度では止まらない。


「ああやって咥えろって仕込まれたのかよ、やらないと殴られたのか? それとも、口でイかせた方が後で楽だと思ったのか?」

「……やめろよ!」


 突然の大声に驚いたものの、無視を最も嫌うエドという女は、返ってきたものが怒号であっても愉快そうに口元を歪める。そして畳み掛けるようにクレに話しかけた。


「質問してんだからよー……答えろよ、クレ」

「……てめぇの質問に答える気はねぇ」


 クレは振り絞る様にそう言って、血の滲む手首を睨んでいた目を閉じた。下半身が拘束されている為、逃げる事も叶わない。視界の遮断は、彼女に許された唯一の逃避であった。


 ——大丈夫だ、喋れる。喋れる、喋れる。


 クレは心の中で、自分に目一杯暗示を掛けてから口を開いた。話す内容に頓着している余裕は無かった、というよりも、そもそも会話ができるような精神状態ではないのだ。エドという好敵手とも宿敵とも呼べる女への意地がクレを突き動かし、ギリギリのところで踏ん張らせた。

 しかし、肝心の話題はというと、情けないとしか言いようがないものである。何故ここにいるのか、それを問うのが恐らくは最も自然であった。医務室の中でも隔離された空間、ここに入るには相応の理由が要る。だというのに彼女が切り出したのは、ふと気付いた自身の体のことだった。


「……腹がいてぇ」


 クレは目を瞑ったまま、けだる気な声をあげた。エドは込み上げる笑いを押さえ切れず、上機嫌で言った。


「そりゃあたしが好き放題引っ掻き回したからな。腹じゃなくてが痛ぇんだろ」


 知ってるよ、クソ女。クレは少し声を荒げて、右隣のパーテーションを睨んで吐き捨てる。彼女はあえて、自身を辱めた存在に牙を向き続けた。ここで屈してしまえば、自分の中の大切な何かが折れてしまう気がしたのだ。

 しかし、そのなけなしの勇気は、エドの提案で脆くも崩れ去ることとなる。


「お詫びと言っちゃなんだが、てめぇの昔話をみんなにしてやろうか。それから、あたしにされた事も」

「……え」


 エドは週末の予定を立てるように、事もなげにそう言った。それは、クレがここで暮らす上で、強盗団の追手の次に恐れている事である。ここの住人の中でも、エドの客層は最悪だ。

 客と会うと言い残したエドが、体に痣を作って戻ってきたのは一度や二度ではない。追加料金を受け取ったから文句はない、というのがエドの主張だったが、クレに言わせればそんな取引があること自体が狂っていた。売る方も買う方も狂人だ、心の底からそう思っている。


「分かんねーのかよ、あたしが飽きるまであたしの玩具ヤッとけっつってんだよ」


 その意図をクレは即座に理解した。つまり、自分のトラウマを最大限つつき回そうとしているのである。

 元よりエドはそうするつもりだった。そこまで追い詰めてこそ、どこぞのボスのせいで価値が高騰しているヤクを、この女に使った意味があるとすら考えている。


 自身の予想外の心変わりに狼狽しているものの、計画を変更する事はプライドが許さない。むしろ、そうしてしまえば欲情してしまった事実に屈することになる。振り上げた拳を掲げたままの状態、エドはどっちつかずのこの状況を早くどうにかしたかった。

 そう、彼女はあの感覚をうっかりと結論付けたのである。同性に性的に惹かれる等、万に一つも有り得ないと思っていたエドは困惑したが、二度目は無い。予定を変更する程の重大な出来事ではないと、自分に言い聞かせることにした。


「それとも、お前デブ専なの? ゴトー達にマワされる方が好みだったり?」


 クレは奇声を発して暴れ回りたくなる衝動を、必死に堪えていた。エドの提案は彼女にとって、ここでの過ごし方ではなく、死に方の選択肢を与えられているようなものだ。どうにかしてとりあえず死ね、そう言われているに等しい。


「ふざっけんな……!」

「ふざけてねーよ。あいつら、そんなん聞いたら絶対ヤりにくんだろ」


 喧嘩を売られただけならば、クレは上等だと言わんばかりに立ち向かったであろう。しかし、自分が性的対象とみなされ、辱めようとしている人間が相手となれば話は別である。

 正気を保とうとすればするほど心に動揺が広がり、クレの精神を蝕んでいく。思い出さないようにしていた記憶が頭のどこかから溢れ、靄がかかったように霞んでいた数日前の映像が鮮明になっていく。

 口に指を入れられた。イヤなら噛んでみろと煽られた。体が思うように動かなくて、頭も回らなくて、そのくせ感覚だけが研ぎ澄まされるような、妙な心地のまま体をもてあそばれた。

 その光景はまるで他人事であった。記憶にある筈も無い、天井から見下ろすような視点で、陵辱の回想は進んでいく。縛られた腕が痛かったこと、思うように呼吸が出来ず、何度も意識を失いかけたこと。

 クレははたと気付いた。そして、すぐに感じた。苦し紛れと笑われたとしても、ここで言い返さなければ、死ぬまでエドに勝てない、と。


 クレはエドの条件を飲むしかない。エドを殺せば解決するが、憤る気持ちをその方向に昇華することは、今の彼女には限りなく不可能に近い。

 このままエドの玩具になることを肯定するくらいなら。半ばやけくそで、思い出したばかりの記憶の一端を、脳内で反芻しながら口を開く。


「……てめぇがレズだったとは思わなかったよ」

「あ? 誰がレズだよ、ふざけんな。そんなんじゃねーって、てめぇだって分かってんだろ? あたしは」

「じゃあ玩具にキスなんかすんなよ」

「……は?」


 被せるようにクレが告げると、エドはその内容を否定するように短く言葉を発した。しかし、明らかに動揺している。まさかここまで深く刺さると思っていなかったエドの反応に、クレですら静かに驚いていた。


「……お前、覚えてねーの?」

「やってねぇよ! てめぇテキトー抜かすんじゃねぇよ!」


 ぎゃんぎゃんと騒ぎ立てる声は、クレを更に冷静にさせた。

 この反応から察するに、つまりエドは無意識に自分の口を塞いだということになる。ただの嫌がらせ目的で、記憶が無くなるほど乱れるのだろうか。一般的な性体験が一つもない彼女には、それが普通の事なのか分からなかった。

 クレは一つの仮説に基づき、彼女の行動を検証していく。考え終えて、改めてエドに問いかけた。


「マジでレズじゃねーの?」

「うるせぇ」


 エドの声は唐突にか細くなる。思い当たる節があるのか、力なく憎まれ口を叩くと、ベッドから上半身を起こして、頭を掻き毟った。

 あーだの、くそっだのと呟きながら、拳を振り下ろしてベッドに叩き付ける。一頻り暴れると手を止め、パーテーションの向こうで体を起こしたまま固まっている長身の女に話しかけた。


「……嘘だよな?」

「窒息死するところだったぞ」


 クレが返事をしてしばらく、医務室の隔離された一角から、ベッドを殴る音が響き続けた。


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