ACT.19

 目を覚ました女が真っ先に感じたのは、眩しさだった。覚醒していない体に鞭打ち、周囲を見渡そうと試みるも、視線の先には記憶とかけ離れた光景が広がるばかりだ。

 この空間が所内の居住区よりも眩しいというのは間違いない。周囲は白いカーテンに覆われており、逃げるように視線を向けた天井までもが真っ白である。さらに、蛍光灯は女のほぼ真上に据え付けられていた。

 女は正方形の大きなタイルを繋げた天井を眺め続ける。眼球を動かすことすら億劫で、ただただ呆然と、視線の先にたまたま存在していたそれを見つめていたのだ。天井であろうと、壁であろうと、どうだって良かった。頓着する余裕は、今の彼女には無い。

 十分ほど惚け続けて、女は漸く気付いた。恐らく、数日まともに食事をしていない、と。しかし、空腹は感じなかった。そして、思い出したくない重大な出来事があったような気がしたものの、それ以上は何も考えられなかった。

 とにかく、女は天井の眩しさに違和感を覚え、ベッドに横たわったまま天井と細長い蛍光灯を見つめ続けたのである。他にしたことと言えば、時折目を閉じて瞼の裏に焼き付いた光の残像を追った程度だ。


「目、覚めた?」


 いつの間にか、誰かが歩み寄っていた。多少の驚きはあったが、やはり女の意識は靄がかかったように、何かに阻害されていた。

 女の顔を覗き込むようにして視界に割り入ったのは、ナース服のうら若い女性だ。

 その傍らには白衣を纏った女性が立っており、女の様子を見守るように、つぶさに挙動を観察している。

 彼女達が看護士と女医であることは、一見して分かるだろう。女も流石に理解が及んだようで、何か言いたげに唇を震わせた。


「ぁ……」


 発声しようとして初めて、喉や声帯が仕事の仕方を忘れているように、首周りが凝り固まっている事に気付く。女は自身の体に違和感を覚えつつも、ただそれを受け入れた。

 まともに声を発せない様子を見かねた職員達は、とりあえずは目を覚ました事を喜ぼうと、女に多くを求めなかった。


「返事はいいわ。見たら分かるし」


 起きているし、聞いている。意思表示の為、刑務官の顔を見つめた女の頭は、漸くゆっくりと回り始めた。


「556番。落ち着いたら、あなたにいくつか聞かなければいけないことがあるの。いい?」


 顎を動かし僅かに頷くと、556番と呼ばれた女、クレはまた天井へと視線を戻した。”聞かなければいけないこと”が何か、大体の見当はついている様子で、淡々と呼吸だけを丁寧に繰り返す。

 声が思うように出ないのは、ずっと出していなかったから。ではなく、前回目が覚めた時に叫んだから。

 気だるげに首と視線しか動かさなかったのは、眠たくて体が動かなかったから。ではなく、拘束具で体を固定されていたから。

 次々と沸き上がる数時間前の記憶、それらがさらに以前の記憶を引き込み、彼女は顔を歪めた。向き合いたくない何かが横たわっている、その事実は脳裏に過るだけで、クレに頭痛を齎す程のものであった。


「そうだ……オレ……エドに……」


 体中が弱っているのか、吐く気力すら起こらなかった。内臓が胃液を押し上げる事に疲れてしまったという様子で、クレは吐くことすら出来ず、ただ刑務官の尋問の時間を待った。

 その間、クレは何度か短い眠りに就いた。しかし彼女の記憶は酷く曖昧で、さらに断片的であり、時間の感覚は皆無であった。永遠にも感じる長い時間を過ごし、やっと声をかけられたのは、担当の女医が他棟の往診から戻ってからだった。



「……えと」


 ベッドの背を起こされ、クレが半ば強制的に視線の移動を余儀なくされた先には、三人の刑務官が居た。先程話しかけてきた看護服を着た女と、白衣を羽織った女。そして筋肉隆々の腕を組み、困ったように頭を掻く男、セノである。

 話の内容はクレの予測していた通りのものだった。


「体内から薬物の反応があった」


 セノはそう切り出したが、クレは虚ろな目でそれを聞き流す。


「本来であれば独房に入れる等の処置を取るが、今回はクレの様子からも、他者に摂取させられた可能性が非常に高い。犯人は誰だ。何故このようなことに巻き込まれた。正直に告白してくれるなら、数少ない保護房への移動も検討している」


 保護房、各棟に設置された隔離区画である。諍いは完全に遮断された、一般区画とは比べ物にならない過ごしやすい場所。囚人達はそのように認識していた。そこに入るには、必ずと言っていい程、特別な事情が必要になる。受刑者自ら懇願して入れるような区画ではないのだ。

 しかしクレは声を発せないフリをしてやり過ごした。エドがやったと告げることは簡単だが、彼女はその選択肢をあえて選ばなかったのだ。

 刑務所では最も嫌われるとされている行為がある。それはここ、ファントムでも変わらない。古い言い方をすればチンコロ。所謂、密告である。

 ジャンキー達であろうと、麻薬反対の派閥であろうと、それをするものは等しく嫌われ、仲間外れにされる。

 ただ、それは告げ口したことが発覚し、自分がB-4に戻った場合のみだ。保護房に移ることが出来たら、会う事のない人間の評価なんてどうだっていい。しかし、ファントムにいる間中、保護房に居れるという保証も無い。

 彼女はそう考え、今日のところは保留としたのである。


 決断は早い方がいい。クレもそれは理解していた。しかし、彼女はどうしても、いま多くのことを考えたくなかった。

 そうしてクレが過呼吸を起こしかけたのをきっかけに、本日の尋問は終了となった。セノは早急に部屋から出され、女医と看護士の二人だけが、面会謝絶の為に設けられた白いカーテンの内側に残る。クレが眠りに就いたのを確認すると、女医は彼女の手を握ったまま囁いた。


「この子、男の人苦手なの?」

「さぁ……?」

「……尋問の係、代役立ててもらえない?」

「556番は404番の友人らしいので……直接尋問することで、多少融通を利かせてあげたいのかもしれませんね」

「……ったく、そんなの私達に言ってくれりゃいいのに」


 信頼されていないのかと少しばかり嘆く気持ちはあったものの、女医はため息をついてクレの手を握り続けた。聡明な女医には分かっていたのだ。

 セノは彼女達を信頼していないのではなく、医療関係者である彼女達に、必要以上の面倒は持ち込まないようにしている、ということを。


 首からぶら下げていた眼鏡を掛け、看護師から受け取った資料に目を通す。右から左へ、飛んでまた右から左へ。

 眼球が忙しなく動き、クレの健康状態を最短時間で把握していく。最後まで目を通すと、女医はため息を吐いた。

 クレの呼吸に耳を澄ませ、安定していることを確認して漸く手を離す。


 女はワイシャツのポケットの膨らみを叩いて確認すると、奥の喫煙スペースへ向かった。看護師もすぐに後を付いていく。




「精神状態、安定してないの?」

「見ての通りです。元々不安定ですし、あの子」

「……やっぱり、どっちかB棟から移す?」

「メンツが変わると不安定になる囚人も少なくないんですよ。ご存知だと思いますが」

「……まぁね。ただ、今のあの子の隣にB-4の面子を据えるってのはどうだろうね……私の勘だけど」

「まずは様子見をしましょう。ベッドを空けるにしても、D棟からは一週間は欲しいと言われましたよ」

「あぁそう」

「一週間も待っていれば、503番の方は全快するでしょうし。いずれにしても、とりあえずはここで我慢してもらうのが一番じゃないでしょうか」

「まぁ、そだね。あんな綺麗な子達を野郎共の棟に放り込む訳にもいかないし」


 彼女達は駆け込んでくる囚人達を患者として、分け隔てなく接していた。どんな人間でも患者は患者と考えているのだ。

 医療従事する刑務官というのは、一般的にあまり人気が無い。さらに絶海の孤島であるこんな勤務地を選ぶ辺り、二人共変わり者である事は間違いなかった。

 しかし、救命に掛ける熱意は本物である。特に女医は、給料が目当てでは無い、ここでは珍しいタイプの職員であった。淡々とした語り口、涼しげな目元、患者への公平な振る舞い。他の職員や囚人からの信頼は厚い。

 余談だが、看護師は煙草を咥えたまま、遠くを見つめる女に慕情を抱いている。


「556番と503番はお互いにいい影響を与えそうなら、多少のことは大目に見てあげてね」

「多少とは?」

「消灯後のお喋りとか」

「なるほど、夜の係にも伝えておきますね」


 よろしく、そう言って彼女は煙草をもみ消し、持っていた資料を看護師に渡すと、喫煙スペースを後にした。人手不足の弊害というべきか、彼女はこれからA棟に向かわなければならないのである。

 その凛々しい後ろ姿を見つめながら、看護師はため息を吐いた。



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