ACT.17
エラーは血で塗れた拳を、横たわる女の服で乱雑に拭いていた。飲み終わった空き缶をゴミ箱に捨てるように何の感慨も抱かない様子で、退屈そうに自らの手を拭っていた。
「てめ……汚すんじゃ、ねぇよ……」
「元々お前の血だろ」
そう言って立ち上がると、床にうつ伏せになっていた女の体を脚で転がす。ゴトーと比べると少し見劣りのする肉付きのいい体が反転し、天を仰いだ。
半開きになった口から伝う血が女、ゴクイの顔面をさらに汚したが、エラーは既に彼女に背を向けて歩き始めていた。
原型を留めないほど誰かの顔面を殴りつけるのも、ボスとしての役割を果たす為なので、然程面倒とは思っていない。いや、面倒だが必要な事だと理解しているので、億劫ではない、と言うべきか。
しかし、エドがしでかした事を想像するのは、そんな彼女ですら気が重かった。エドの客を辿り、なんとかゴクイを突き止めたエラーは、何か変わったことが無いかと問いつめた。しらばっくれたものの、妙に落ち着かない様子で辺りを見渡すゴクイを見て、エラーは確信した。どこかにドラッグを隠していると。
エラーがドラッグの反対派のボスであることを知らない者は、この棟にはいない。後ろ暗いことがある者は大体似たような反応を示すが、ゴクイはエドの名前を出した時も、同様の反応を示した。
これを怪しまないエラーではなかった。正直に話せば、現在持っている分のドラッグについては不問とする。そう言い放ち、詰問した。
それを聞いたゴクイは、簡単に口を割った。ゴトーから仕入れた事。エドに追加料金の担保として一時的に渡した事。あとから、やはりそのまま代金として受け取っておくと言われた事。
全てを話し、その場を立ち去ろうとしたのである。その結果が、あの床とのキスだ。
「いま持ってる分は不問とするけど、エドに渡した分については別」
詭弁のような理由をつけて、エラーはゴクイに鉄槌を下す。それからはあっという間だった。サタンを同行させてなくて良かった。拳を振り下ろす最中、エラーは頭の片隅で、少しだけそんなことを考えた。
ゴクイの住まう区画を出る頃になっても、エラーの嫌な予感は止まらなかった。なんでこうなるかな。彼女は誰に問うでもなく、心の中でそう吐き捨てる。
エドが自滅したのだとしても、実際はどうだってよかった。二人の間に友情などというものは存在しない。同じ区画のよしみで、なし崩し的につるんでいるだけの間柄だ。
エラーはエドを、ドラッグだけはやらない女だと認識していた。ジャンキーが多いファントムでは、ドラッグをやらないだけでプラスに評価されるのである。
エドは彼女にとって、クレやサタンのように、少々の情を持てる相手には成り得ない。それは間違いないが、問題点はそこではない。
エドの扱いについては、ゴトー達に比べて少々甘いところはあるかもしれないが、ただそれだけであり、これはエドをクレかサタン、ゴトーをエドに入れ替えても成り立つ。つまり、エドとクレの様子がおかしければ、優先的にクレを案ずるのは、エラーにとってごく自然なことだった。
そしてそれ以上に、エラーが重視している事がある。それは、ボスとして振る舞うことである。
自分はボスで、皆をまとめなければいけない。ボスは舐められる事を嫌い、気分を害された場合は制裁を加えなければいけない。
エラーはただこのイメージに従い、行動しているだけだった。彼女は先代から明け渡された座を、自らの精神をコントロールするための手段として利用しているのである。本当はエドどころか、自分以外はどうだっていい。誰が
これが、クレやサタンという比較的仲のいい面子ですら知らされておらず、気取られることもない事実である。
他人に対して心底無関心な彼女だが、その性格が現在の棟と上手く噛み合い、安定した環境を築くに至っていた。
”四六時中考えていなければいけない何か”が手の内にある、これが彼女にとって重要なことなのである。ボス業は彼女の求めていたもの、そのものであった。
クレが強盗団の追っ手を恐れて、落ち着かなかったのと似たような理屈かもしれない。ただ黙っていると、”考えたくない事”を考えてしまうので、”面白い話”を求めるのと同じように、気を紛らわす事が出来る何かを欲しているのだ。
廊下を曲がり、エラーは医務室の看板を目指す。辿り着くと、カーテンで隔離された一角を見つけた。ほんの一瞬、クレの顔が脳裏に過ったが、それを振りきるように看護服を着た職員に話しかける。
「エドいます?」
「503番ね。彼女ならそこ」
指されたのは、なんとクレと同じ、面会謝絶の一角であった。予想外の場所に収容されていたエドについて、エラーはさらに質問する。
「……ドラッグは?」
「陰性だったわよ。寝不足と軽い栄養失調、あとは精神的に酷く衰弱しているみたい。今はそっとしておいてあげて」
エドが面白半分でクレにドラッグを打ち、自分もその毒に溺れた。エラーは今回の騒動をそう見ていた。
ドラッグの陽性反応が出た者は、隔離と監視の意味で、比較的上等な独房に移される事が多い。エドとラッキーが入れられた地下独房とは違い、妙な臭いもしなければ、水漏れもしていない部屋だ。
エラーは刑務官の案内により、そこに向かうことになると思っていたので、医務室内の、外界から遮断されたベッドでエドが寝ているという事が信じられなかった。彼女から薬物反応はなかったというのも不可解である。エドの再検査を要請しようとしたエラーであったが、職員の意外な一言によって、それは遮られた。
「反応があったのは556番だけね。何か知ってるの?」
「……は?」
エラーは顔をあげ、思わず声を漏らす。
想定していた事態がより悪い方向へ。ではなく、元々全く違う何かが起こっていた。彼女がそう思い知った瞬間であった。
「エラー、ちょっといい?」
医務室を覗くように顔を出して、エラーに手招きしたのはサタンだった。申し訳なさそうに、眉をハの字にしてエラーを見つめている。彼女の表情は、これから語られる事が決してポジティブな話題ではないことを表していた。
これ以上なんだっていうの、声には出さないようにして、エラーは頭の中でぼやく。不可解な検査結果、それも二人分。さらに何が起きたというのだ。エラーは刑務官に会釈をして、すぐに部屋を出た。
「……どうしたの?」
「エドの部屋で見つけたの。明らかに様子がおかしかったし、看守に先に見つかったらまずいものがあるかも、と思って」
そう言ってサタンがこっそりと見せたのは、使用した形跡のある注射器であった。それを見たエラーは確信した。やはりクレの薬物反応はエドのせいであると。
「エド、クスリだけはやらなかったのにね……」
「……あいつはやってないよ」
「え、でも」
「エドから薬物反応は出てない。出たのはクレ」
「クレ!?」
大声を上げてしまった恥ずかしさからか、サタンはすぐに顔を伏せる。彼女が自ら進んで、薬物に手を出したなんて信じられない。そんな思いを胸に、サタンは説明を求めるようにエラーを見た。
「エドがクレに打ったんだ。多分ね。理由は分からないけど」
「じゃあエドはどうして……」
「さぁ。看護師が言うには、寝不足と軽い栄養失調、それと精神的なものだってさ」
「精神的な……? 陰性だったのは、何かの間違いじゃない?」
「さぁ……」
もし、二人が「クレは身体検査を泣くほど嫌がっていた」という、事実を知っていたなら。エドの性格をよく知る二人であれば、何が起こったのか、推測できたかもしれない。
犯行直前にクレとエドが言い争いをしたというのも、見逃せないピースの一つだ。普段から両者の喧嘩を見ている二人ならば、あれがいつものじゃれ合いでない事は明白だった。しかし、深く知らない人間が見れば、取るに足らないいつもの喧嘩でしかない。目撃者が居たとしても、わざわざエラーに「クレがエドの逆鱗に触れた」と伝える者は皆無であった。
エラーの中では考える事を放棄したい気持ちと、早急にどうにかしなければいけないという気持ちがせめぎ合っている。
二人が確実に戻ってくるのであれば、事情を聞いた後に制裁を加えれば良いだろう。しかし、医務室に行ったきり戻らない人間も一定数いる。それが、どうしても気がかりであった。
クレはエラーにとって、数少ない友人の一人であった。何故ここにいるのかは告げられていないが、ここに脛に傷を持たない者など居ない。互いの過去を無視して、もしくはそんなものはないと振る舞いながら、二人は上手く付き合ってきた。
精神に異常があると見なされれば、このまま島外の医療機関に移される可能性も十分考えられる。彼女にとってそれが最良の選択ならば口出しはしないが、これまで上手くここでやっていたのだ。
内心は分からないが、少なくとも表面上はそう見えた。今回の騒動がきっかけで、クレがファントムを去ることに、エラーは漠然とした抵抗を覚えた。
「打つ手なし、か」
「焦っても仕方ないし、対策はまたあとで考える、ということで。ね?」
サタンはそう言って、出来る限り優しく微笑んだ。人心掌握に長けた彼女の微笑みは完璧である。どうにかエラーの気休めとして機能したそれは、B棟の廊下にしばらく咲き続けた。
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