ACT.16
所内の冷暖房装置は充実していない。それらの多くは、快適な暮らしの為の道具なので、至極当然とも言える。ここファントムでは、各スタッフの居住区には手厚く、囚人の食堂や廊下等は職員が苦痛を感じないよう、必要最低限に空調が管理されている。
命の危険に関わらない程度の気温の変化は、懲罰の一つとして考えられているのである。その為、囚人が生活する空間であっても、基準はそこで働く刑務官達である。
絶海の孤島であり、周囲を冷たい海に囲まれたこの施設の冬は骨身に沁みるが、受刑者達への配慮はほとんど無いに等しかった。いや、もはや無いと言っても過言ではないだろう。
食堂や医務室、作業場など、刑務官に使用される場所はまだ恵まれていた。それでも特に冷える日は、着込んだ職員達ですら、耳当てやマフラーを着用する。業務に支障を来さない場合、手袋をして職務に当たる者もいる程だ。
しかし、囚人達それぞれの区画に、職員が赴くのは基本的に点呼のときのみである。当然ながら、受刑者の個室にエアコンのような上等な暖房器具はない。各談話室にはストーブが据え付けられているが、ある区画の物が昨年度に故障したきりであった。それ以降、B棟は全ての談話室のストーブが使えない状態にされていた。これはグループ単位とはいえ、唯一囚人の為に設置されていた、貴重な暖房器具が機能していない、ということを示している。
去年の暮れ、相次いでいくつかのストーブが故障し、囚人達はそれぞれ仲のいい区画の世話になっていた。しかし、自由に暖を取れない事に苛立った受刑者が逆恨みをし、それまで問題なく可動していた暖房器具を蹴り飛ばしたのが引き金となり、棟内を巻き込んだ抗争に発展したのである。まさか暖房器具の不調が抗争に発展するとは思っていなかったセノは呆れながら額を押さえた。エラーが受けたくもない心理カウンセリングから戻ってきた頃には、被害を受けていないそれは僅か五台だった。
残りの五台がどうなったかというと、セノの判断により、ただの箱と化した。下手に残しておいても、暖所の奪い合いでいざこざが発生することは火を見るより明らかであり、それならばいっそ取り上げた方がいい、というのが彼の意見だった。
壊れていない五台の内、一台はB-4のストーブだったが、彼女は自分の立場や今後発生するであろうトラブルを考慮し、仕方なく彼の意見に賛同した。
ちなみに、エドはこの決定に激しく反対したが、エラーはセノの決定であることをそれとなく主張し、怒りの矛先を彼に向けて急場を凌いだ。さすがに可哀想だと感じた彼女は、エドに正面から「いいから我慢しろ」とは言い難かったのである。
それ以来、ファントムは初めての冬を迎えようとしている。ここ最近の受刑者達は、その日の天気や気温に一喜一憂していた。
去年の暮れの時点で、修理の予算は来年度下りるという噂がたっていたものの、未だ壁に沿って設置されているベンチと化した彼らが、本来の役割を果たす兆しはなかった。
しばらく比較的過ごしやすい気温で推移していたが、今日は朝から底冷えしている。誰もが口々にそう話したが、数日碌に寝ていないエドにとっては、どうでも良い事であった。
彼女自身が重大な問題をいくつも抱えていたのだから。空腹、栄養不足、睡眠不足、神経衰弱、これらのせいか、彼女の皮膚はいつの間にか寒暑すら感じなくなっていた。
眠たい。妙に眩しい。頭痛がする。熱い気もするし、寒い気もする。目眩と吐き気もする。どちらの方角が天井なのか、そんな当たり前のことがやっと分かる程に、B-4区画、弐番の尻軽女は衰弱していたのである。
格子付きのはめ殺し窓が、ぼんやりとした淡い色の空を切り取る午前三時半。ベッドの上に投げ出された足は随分と冷たくなっていた。
どれほど前だろうか。少し動かそうとして、凍り付いたように固まっていることに気付いた。下手に力を加えると、そのまま膝からぼきりと折れそうな気がして、彼女は無雑作に掛け布団の上に乗せた足を動かすことを諦めたのだ。
左足のすぐ横に、エラーと言い争った際に落としたボディソープが転がっている。しかし、当人はそんなものを構う様子は見せず、ただ眉間に皺を寄せて目を瞑っていた。
寝ても覚めても、自分が犯した女の声がリフレインして、まるで鼓膜にこびりついたように離れない。視界についても同様で、目を閉じると女の泣き顔と、すらりとした肢体が、唾液で塗れた自身の指が、瞼の裏で繰り返し映し出された。目を開けている方が楽だと思っても、気付くと記憶の中で行為を反芻してしまう。
「んだよ……なんなんだよ……」
もうこりごりだ、勘弁してくれ。呪いのようなそれを脳裏で再生しながら、エドは何度も吐いた。作業場、自室、商売に応じた囚人の部屋ですらも。もしここに懺悔室があったら、きっと彼女は泣きついていただろう。
「死んじまえよ……クソ……」
彼女をここまで疲弊させているのは、罪悪感などといった陳腐な感情ではない。行為については寧ろ、遂にやってやった、とすら思っている。クレが自傷して医務室に運ばれた時、彼女は心の中で「ざまぁみろ」と吐き捨てた。
この点において彼女は、エラーに咎められようが、サタンに軽蔑されようが、改めるつもりはない。やられたらやり返す、そそんなコミュニケーションしか取ってこなかった間柄だ。今更反省する気なぞ起きないのだ。
エスカレートした先の結末なんて、少し考えたら分かるだろ。それがエドの言い分であった。
ラッキーから聞いた話をヒントに、一番嫌がりそうなことを実行した。数日前のあの出来事は、彼女にとってただそれだけだった。いや、そのつもりであった。
苛ついたり、息ができないほど苦しくなったり。あれから心が忙しなく挙動し、その癖とある一点しか見つめていない事が、エドを酷く情けない気持ちにさせる。
自己嫌悪に陥る過程にある「過去の言動を思い出す」という作業は、それを何倍にも加速させ、もう戻ってこれないのではないかという程、深く彼女を突き落とした。
端的に言うと、エドは一瞬でも同性に惹かれたことを不覚に思っているのである。しかもその相手がクレであることが、悔しくて堪らないのだ。
商売の最中に、クレとのそれを思い出して本気で感じてしまう、自分ですら知らなかった自分が、恐ろしくて仕方ないのだ。
目の前に彼女が現れて、抱いてくれと懇願してきたら、どうなってしまうのだろうか。自身の勝手な妄想に心をかき乱される。
レズとかマジでねーわ。流石のエドも入所後、ここまで直接的な発言をしたことはなかったが、内心ではそう思っていた。自分と同じものが付いてるだけの生き物に夢中になる人間の気持ちが知れなかったのだ。
そんな考えを持ちながら、あくまで嫌がらせの為に手を出した女に欲情するなんて、常軌を逸しているとしか言いようがない。
そこでエドは気付いた、自身が男性との交際経験もほとんど無いことに。当然、彼女の中に異性と同性の線引きはしっかりとされていた。無自覚だっただけで元々同性愛者だったということは、彼女に限っては有り得ない。
ただ気付いてしまったのだ。これほど誰かが頭から離れなかったことは、いまだかつて無かった、と。
エドは身体的にクレに惹かれていることを認識している。だからこそ許せないのである。全ての理を超越して自分を誑かすあの女が。そしていかな理由があろうと同性に惹かれている、自分すらも同様に。
どうにもならなくなって、叫ぶ代わりに吐いてみた。すると、その行為は存外、彼女の心を楽にした。吐いている間は何も考えずに済む。自分が抱いた許せない感情が体の中から出ていくような気がする。たったそれだけの理由で、彼女は体への負担も顧みず、嘔吐を繰り返したのだ。
初めは良かった、吐こうと思えばそれなりのものが胃から逆流してきた。しかし、繰り返すにつれ、出るものは無くなる。胃に何も入っていない状態での嘔吐は、エドが想像していた以上にキツかった。それでも彼女は懲りずに、時間を見つけてはトイレを覗き込んだ。臓腑が逆流に備えて強張り、体力を奪っていく。
そんなことを数日間繰り返し、エドの体は本人が思っている以上に疲弊していた。それはいつ終わるとも分からない、地獄のような瞬間の繰り返しである。無闇に叩き起こしてしまった自分の本性にきちんと向き合わなければ、彼女はこのまま衰弱していく一方である。何かしらの病に罹るのも時間の問題だろう。
しかし本人はそれすら厭わないという様子で、ただ無気力に、徐々に明るくなる天井を眺めていた。
そしてそれからほんの数時間。朝の点呼が始まる。エドがあれから眠りに就けたのかどうかは、本人にすら分からない。夢を見たような気もするし、瞼の裏で取り留めもない出来事を切り取ってイメージしているだけにも感じた。
しかし、彼女は自身の囚人番号を呼ばれるのを、起立して待機していた。今日こそは起き上がれないかもしれない、何度もそう思ったが、結局彼女は無愛想な表情を浮かべて扉の前に立ったのだ。
「503番」
「……うぃす」
朝のノルマはなんとかこなした。しかし、このとき彼女は全く気付いていなかった。おぼつかない足取りを、同じ区画の面子が心配そうに見つめていた事を。
彼女達の悪い予感を的中させるように、エドは扉に凭れ、そのまま背をつけたまま、ずるずると座り込んでしまった。
「ちょっ、エド!?」
「大丈夫!?」
「……あーもー、マジで意味わかんねぇ」
刑務官がエラー達に近づかないよう指示を出し、エドはすぐに医務室に運ばれていった。ラッキーはその様子を、”伍”と書かれた扉の前から、静かに眺めていた。
うーん、私にもさっぱり分かんないや。そんな事を考えながら、担架の取っ手を握る刑務官の背中を見送る。今日辺り、隙を見てエドに何があったのか問い正そうと思っていたラッキーは、真相を知る手がかりを失った事に、酷くがっかりしていた。
「何がどうなってるの?」
「さぁ……エド、どうしちゃったんだろう……」
「立て続けに二人も。次は誰だろうね」
「ラッキー、それ洒落になってない」
あっけらかんと笑うラッキーに、エラーはぴしゃりと言い放つ。誰が倒れるのか、そんなデスゲーム紛いの状況に陥るのは御免だと言わんばかりに、エラーは舌打ちをした。
ラッキーは、二人ともドラッグで潰れたのだと考えていた。でなければ、この状況に説明がつかないとすら思っていたのだ。
しかし、現実はもっと単純で愚かしいものであった。その事に三人が気付かされるのは、もう少し先になる。
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