ACT.8
エラーは独居房のベッドの上に居た。寝転がり、ただ黙って天井を見つめている。しかし彼女の機嫌は
エラーはボス業に少しばかり慣れてしまい、退屈し始めていたところだったのだ。また、クレが指摘したように得体の知れない爆弾を他に回して、何か問題が起こってしまうと些か対処しにくい。総合的に見ても、こうするのがベストだったと彼女は確信している。
「守りに入ったらお終いだ」。これは前ボスの言葉である。エラーがボスに任命されてから、この言葉を思い出さない日はなかった。特段、前任者を敬っていたつもりはない。ここで生きていく上で必要な覚悟であると、彼女自身が共感する言葉だった。
自分はまだこの言葉に従い、生きている。充足感に見舞われながら、彼女は幼少期を振り返るように当時のことを思い出した。
四年前、エラーは前任者から「もう疲れた」という理由で、ボスを受け継いだ。当時のB棟は荒れに荒れており、セノのような大男ですら、生傷が絶えない有様であった。副棟長に任命されたばかりの彼が舐められていた訳ではない。いや、要因の一つではあったのかもしれないが、職員を槍玉に挙げるとしたら、辞めていった前棟長のせいであると言うべきだろう。
当時のB棟はボスが長続きしない混沌とした棟として名を馳せていた。負傷者やオーバードーズした者で医務室は野外病院の如くごった返し、実につまらない理由で人が死んでいった。その噂は女子棟だけでは飽き足らず、男子棟まで轟いた。あまりの惨状に、移動を申し出る職員が後を絶たなかった為である。
エラーの前任者は、厳密には二人居た。そして彼女達は、日々悪化していくB棟の現状を憂いていた。両者はそんな日々にけりを付けようと抗争を繰り返し、さらに劣悪な環境を生み出し続けた。二人のボスは当時を、蟻地獄のようだったと振り返る。
前棟長は所内の麻薬取引で小銭を稼いでおり、治安は全棟の中でも最低であった。棟の管理者が麻薬売買に携わっているのだから、当然である。薬物に苦い思い出がある受刑者も多く、皆が皆、それらに手を染めなかったのは不幸中の幸いであった。
ある日、遂に耐えかねた囚人が棟長に抗議した。しかし、棟長の返答は清々しいほどに無情であった。
「お前らのような出来損ないが死のうが薬に溺れようが、それに巻き込まれようが、世間は気にも留めない。身内ですら。ならば、出来るだけここで、金を落としてから死ね」
彼はそう宣ったのである。それが口火となり、薬物反対の勢力と、現状維持を願うジャンキー達の抗争が始まった。抗議をしにいった女はというと、棟長に何も言い返せなかった。確かに自分達は人間の屑と呼ばれた犯罪者であり、更には過去に脱走を企てた、模範囚とはかけ離れた存在である。
皆気付いていたのだ。囚人の出所後を気にかける職員なんていない。自分達はあくまで脱走しないように監視され、管理されている。脱走されるくらいなら、獄死してもらった方が遥かにマシだと思われている。さらに、娑婆で暮らす人々も彼らと同様、ファントムの囚人の安否を気にかける者など皆無に等しい、と。
だからこそ反対勢力は立ち上がった。そんな事実を否定するように、自らの尊厳と生きる権利を勝ち取る為に。そしてその筆頭として仲間内から選ばれたのが、囚人番号【153】ナルシスという女性である。
彼女は正義感等という感情では一切動かない人物であった。ただ皆に期待を寄せられ、泣き縋られたのがきっかけとなった。反吐が出るほど荒んだ現状を変えるリーダーとなるのも面白いかもしれないと思い立ち、気まぐれに立ち上がったのである。
ジャンキー達も対抗するように、一人の女をトップに据える事に決めた。囚人番号【156】ハイド。彼女自身は薬物を体に入れた事はなかったが、金銭的なやり取りにより暫定的なボスになることを受け入れた。ジャンキーの中にも頭が回る者がおり、ヤク中の人間が務めるよりもその方がいいと判断したのだ。ハイドは傍観者の立場から、一気にボスに登りつめた稀有な存在であった。
囚人番号からも分かるように、ナルシスとハイドはほぼ同期である。どちらも容姿に優れた女性であった為、囚人達は面白がって彼女達を入所当初からライバルのように扱っていた。今でいう、クレとエドのような関係である。
奇しくも、その女二人がトップに据えられ、ボスの座を奪い合うことになったのである。
「さーて、これからどうするかな」
エラーは満足そうに微笑んでいた。彼女にしてはかなり珍しい表情だったが、生憎その表情を拝めたのは天井のみである。
彼女がボスになれたのは、本人に言わせれば、ただの偶然であった。
刑務作業中の不審な事故、小競り合い、互いに削り合って疲弊したところに、ついに両勢力のトップが話し合いの場を設けたのである。エラーはたまたまそれに立ち会った。入所直後の囚人の面倒を見る、世話係の計らいである。
本人は内心どうでもいいと思っていた。脱走も失敗に終わってしまい、長かった刑期は更に伸びた。このまま獄中死を迎えるならその過程など取るに足らないと、本気で考えていたのである。
トップの話し合いは両派閥から、極端に事を荒立てようとするものを除き、ほぼランダムで十名ずつ選抜された。ちなみにエラーは薬物推進派、ハイドの一味としてその場に加わった。これもまた、世話係がそちらの人間だった為である。
入所してまもなく、面倒事に引っ張り出される事を、エラーは心から辟易していた。
「君もそろそろ降伏したら? ハイドさん」
「私も正直どうでもいいんだけどね。でもお金受け取っちゃったし。お互い後に引けないでしょ」
「引かなきゃここは地獄さ」
「それは間違ってる。ここは既に地獄だよ。そんなに言うなら、ナルシスの方が引いたらいいじゃない」
「馬鹿なのか? ヤク中共の好きにさせていたら、ここはいつまでも経っても変わらない」
「あーもーどーすんのさ。私は降りないよ、そんな事したらここでの生活も危うくなるし」
ナルシスとハイドは取り留めもない会話を繰り広げていた。エラーはこの会話から、ハイドに降伏するきっかけさえ与えればいい、と気付く。
あとは簡単だった。座らされていたパイプ椅子から立ち上がり、それを畳んで持ち上げ、ハイドの脳天に叩きつける。
椅子と机の間に挟まれ、ハイドは頭頂部と額から血を流してうめき声をあげた。
「はっ……? ……おい、待つんだ!」
「黙ってて下さい」
そう言ってナルシスにも同様に、椅子をお見舞いする。今度は斜め下からの振り上げだった。どちらも腕っぷしには自信があったが、その攻撃はあまりにも唐突だった。両者共に、全くと言っていいほど反応できなかったのは無理もない。
立ち合いを命ぜられた者達もただ立ち尽くしていた。敵対勢力のトップであるナルシスを襲撃する事は理解出来たが、自身の派閥のトップであるハイドまで襲う理由が、全くと言っていいほど分からなかった為である。
ハイドは机に突っ伏したまま、ナルシスは椅子に座り天井を見上げたまま、動けずにいた。
「おま……何してんだ……」
「これでツートップが落ちました。二人はしばらく治療でここを離れるでしょう。その間に、もう少し上手くやれる人に挿げ替えては如何ですか?」
エラーは淡々と言った。そしてその指摘は的確だった。ナルシスは所内では、悪人と呼べるほど悪い人間ではなかったが、それ故に舐められがちであったし、ハイドは最低限の事をその場しのぎでこなす適当ぶりが目立つ。
二人を足して二で割ることができたなら、適性を持ったボスを作り上げられるかもしれないというのが、どちらもよく知った人物からの総評である。
「いっ……たぁ……」
「貴様……やってくれたな」
棟内のツートップはやっと口を利いたが、体勢は互いにそのままであった。手当てをしなければいけないと思った者も居たが、エラーが発するオーラがそれを許さなかった。その事にいち早く気付いたのは、先に殴られ、机から頭を上げられなくなったハイドである。
「アンタ、面白いわぁ……そんなに言うならアンタがやってみたら?」
「私個人は麻薬反対派ですよ。くだらないですし」
「……なら丁度いい、やってみるといいさ。なにかあったら、私達が黙ってないけどな」
ナルシスはそう言うと、短く笑った。互いにトップとして動く事に疲弊していた二人は暫定的に、ボスを破天荒な新入りに押し付けることにしたのである。
ボスの決定とあれば、他の囚人達は異を唱える事ができなかった。いや、その権利を与えられていたとしても、実行した者がいたかは分からない。皆、現状に嫌気が差していた。過去を振り返ってはっきりと言える事実はそれだけである。
荒事に特化した面子がその場にいなかった事も手伝い、彼女は入所二週間でB棟のボスとなった。
「別にいいですけど、薬物推進派の方々に一つ言っておく事があります」
「……なんだ?」
「当面は私の目の届く範囲での取引は止めてください。立場上、止めなきゃいけないので」
「陰でこそこそやる分にはオッケーって取れるけど?」
誰かがそう言うと、彼女は二人を殴り付けた椅子を乱雑に床を叩きつけた。大袈裟とも言える音が、その場に居合わせた者の耳を
「えぇ。やれるもんなら」
その後、ハイドから薬物の入手ルートを聞いたエラーは、抗争が続く現状を重く見た施設長が視察に現れた際に、前棟長の悪行を大々的に暴き、追い出す事に成功した。
そこで初めて、ボスが彼女に変わった事を一般の囚人も知る事となった。しばらくはハイドとナルシスがトップのままだという事にし、下っ端共を泳がせていたのである。
それから、エラーは暫定的なボスから、真のボスへと昇格を果たした。入所から凡そ一ヶ月のことである。
「入るよー」
ノックと同時にドアが開く。ドアを叩く意味を全く感じられないが、いつものことなので、エラーは入口に視線を向けるだけで、声の主を咎める事はしなかった。
「お久しぶりですね、ハイドさん」
「相変わらずクールだね」
「そうですかね」
「そうだ。君は変わらないな」
「ナルシスさんも居たんですか」
そこにはかつてのボス二人が立っていた。抗争が収束し、ボス業から開放された同期二人は、晴れて良き友人になれたのである。互いにその重みを知る、対等な間柄であった。
「私、今日は作業無いんで。ヤリ部屋に使おうとしても無駄ですよ」
「顔を見に来ただけなのに、酷い言われようだね」
「安心しろ、さっき済ませた」
「それは良かったです」
エラーはそう言うと笑った。ハイドとナルシスもつられて笑う。暫くの間、現ボスの部屋は笑い声で満たされたのであった。
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