ACT.4


 ぴちゃん。ぴちゃん。水が規則的に、明らかに何かで定められたテンポを刻んでいる。どこからか雨漏りしているのか、排水管にヒビでも入っているのか、それともわざと適量を流しているのか。クレは真っ暗な二畳半程の空間で、そんなことを考えながら正座していた。

 真っ直ぐ前を睨んでも、分厚い鉄扉が開かれる気配は無い。しかし彼女は、体勢を崩さず、じっと扉を睨み続けた。


 常人がそこに押し込められたら、まずは臭いで根を上げるだろう。そこには血、汗、尿、その他体液が混ざり合った、饐えた臭いが充満していた。

 慣れていない人間はまず吐く。そしてそれらは独房の使用後、申し訳程度に清掃され、残った吐瀉物が自らを嘔吐させた臭いの一部となり、後の訪問者を襲う。まさに負の連鎖となるのだ。


 しかしクレは、誰に見られる事なく、そこに凛と佇んでいた。真っ暗な部屋の中で、微動だにせず、ほとんど見えていない筈の扉を見つめ続ける。

 ここに隔離されたことは結果として良かったかもしれない、彼女はそう考えていた。クレ自身、全く気が付かなかった訳ではない。ここ最近の自分はおかしかった。明らかに落ち着かない様子で、隙のある発言を繰り返し、エドのいい玩具となっていた、という自覚はあるのだ。

 恐怖心からか、ふとした瞬間に、余計な言葉が口をついて出てしまう。弱みを見せるくらいなら一人で居た方がいい。クレはそう思い直し、独房入りを前向きに受け入れたのである。


「……にしても、こっちは初めてだな」


 一般の囚人の懲罰に使用される独房は三部屋あった。それぞれイ、ロ、ハという名前が付いており、優先的に”イ”が使用される決まりになっている。

 乱闘騒ぎ等で複数人の独房入りが同時に決まることもあったが、彼女はそういった騒ぎに関わったことが無かったので、本日めでたく”ロ”デビューを飾る運びとなった。

 もちろん、それは管理者側の都合であり、囚人達には公表されていなかった。彼女には、使用される独房に優先順位がある事など、知る由も無かったのである。

 自分の声が響いている間だけは、耳障りな水音をシャットアウトできる。独り言の後に、それに気付いたクレは小さく笑った。


「あれっ? お隣さん、誰かいるのー?」

「はぁ!? 話しかけてくんじゃねーよ!」


 クレは素っ頓狂な声をあげ、大袈裟に反応してしまったことを後悔した。隣の部屋から声がするとは、予想だにしていなかったのである。ここに入所してもう一年以上経つというのに、今の声が誰のものだったのか、皆目見当がつかない。

 よく分からない人間にヘタレのビビりだと思われたかもしれない、ということだ。その疑惑は顔から火が出る程、クレにとっては恥ずかしいものであった。


「いやー、寝てたから来たの気付かなかったよー」

「ははっ、間抜けだな。で、てめぇ誰だよ」


 お互いの声が反響して話しにくい環境であったが、それでも”イ”の部屋の女と、クレは構わず言葉を交わした。感じた気まずさは、いつの間にか消し飛んでいた。

 それは女の声色の妙かもしれない。飄々としており、それでいて軽卒そうではなく、気安いのに馴れ馴れしくなかった。


「私は名前が無いらしいんだよ」

「何言ってんだよ」

「皆に決めてもらえって言われたの」

「……は?」


 この時、クレは胸の奥からせり上がってくるものを感じた。しかし、なんとかそれを押し留め、”イ”の女が何を言わんとしているのか、探ることにした。


「待て。お前……まさか、新入りか?」

「あー。そうそう」


 クレも馬鹿ではない。新入りがなぜこんなところに閉じ込められているのか、理由を推察する事くらい出来る。しかし彼女の本能がそれを拒絶していた。

 立ち入りたくない、しかし知っておかねば後々命取りになるかもしれない。彼女の心はその二択で揺れていたが、”イ”の女は全く気にしない様子で言った。


「逮捕されたのは私の不注意だよ。ホント。私がここにいる間は準備期間なんだってさ」

「はっ……? 逮捕っつか、取っ捕まったんだろ?」

「? どっちも同じじゃない? 何が違うの?」

「だから、脱獄犯だろっつってんだよ!」

「えー? 違うよ。君は脱獄犯なの?」


 独房の臭いには耐性があった筈のクレだが、この言葉を聞いて、遂にドアに胃液をぶち撒けそうになった。

 言葉を発するよりも先に立ち上がり、イの部屋とは反対側の、ハ側の壁に添うように置かれているカビ臭い簡易ベッドの上に移動する。そしてそこに背をつけ、声の主を威嚇するようにイ側の壁を睨んだ。


「えぇ……急に何? どうしたの? 大丈夫……?」

「はぁ……お前、嘘だろ……?」

「嘘なんてついてないって。むしろ嘘であって欲しいよ。私の為にここが色んな準備をしてくれるのは嬉しいけどさ、狭くて臭くて嫌んなっちゃうよ」

「何やったら、そんな……」


 一つ。入所と同時に独房入りなんて有り得ない。そしてもう一つ。脱獄に関わった前科が無いのにここに収容された者は、いまだかつて一人も居ない。

 そう、壁を隔ててクレの隣でヘラヘラと笑っているのは、ファントムでも前代未聞の囚人。【777】番であった。


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「あー。じゃあ君は私のことを、君の組織が送りこんだ殺し屋だと思って、それで吐きそうになったってこと?」

「……バカだと思うだろ」

「うん! すっごく!」

「死ねやコラ!」


 777番は喉を鳴らしてくつくつと笑っている。クレと777番はすぐに打ち解けた。彼女をラッキーと名付けたクレは、昔からの旧友であったかのようにそう呼びつけ、777番もすぐに応えた。


「にしても面白いねー。クレは556だからクレなんだ」

「お前、556って知ってんのか」

「むしろ556知らないで生きるって可能なの?」

「そんな有名なのか?」

「えぇー? じゃあピカール知らない?」

「あ、聞いたことある」

「それと同じくらい有名だよ」

「マジかよ」


 556とは日本で一番と言っても過言ではないほど有名な潤滑剤である。就活では引っ張りだこの【潤滑剤】が暴力沙汰で独房に放り込まれるのか。口には出さないが、皮肉が効いた状況に、ラッキーは声を上げずに笑っていた。


「なぁ、マジであんたは強盗団とは無関係なんだな?」

「うん。っていうかさ、ヘマをした下っぱのためにわざわざこんなところまで強盗団が追っ手を寄越すと思う? なんか現実的じゃないんだけど」

「いや、いい。お前の言ってることが正しい。オレはビビり過ぎてるんだ」


 そう言うクレの声は震えていた。ラッキーは出来る限り優しく、「なんか怖いことあった?」と問いかけた。


「……うるせぇ!」

「えぇ〜……いきなり怒鳴られるとか怖ぁ……」


 ラッキーはクレを、手負いの野生動物と重ねていた。どうしたものかと考えあぐねていると、隣の部屋から物音が響く。クレがラッキーの独房側の壁に移動していたのだ。

 先程よりも幾分か声が近くに聞こえたラッキーは、自身もすぐにクレと同じようにした。つまり、彼女達は壁を隔てて、できるだけ近付くような格好になったのである。

 そして、クレは少し声をひそめて、控えめな音量でラッキーに言った。


「お前、人を殺したのか」

「答えたくないと言ったら?」

「……答えろよ」

「んー、気が向いたらね」


 地下の独房が並ぶ廊下に、舌打ちの音が響く。しかしクレは少し安心していた。彼女が強盗団の一味では無いというのは本当のようである。

 もちろん、ラッキーが脅威であることは変わりない。逮捕からこの監獄、しかも独房に直行なんて誰も聞いたことがない、あまりにイレギュラー過ぎるのだ。

 それ程の対処をされる重罪人など、そう多くは無いだろう。クレはシリアルキラーか、国家反逆罪の重要人物だと踏んでいた。どちらでもラッキーがここの職員に言われたをするに足る、厄介な囚人だろう。シリアルキラーであれば死刑になりそうなものだが、今のクレにそこまでの思考能力は無かった。


「私がとやかく言うつもりはないけどさ」

「んだよ」

「あまり強がらない方がいい。雑魚っぽいよ」

「は? どこぞの教師みたいなこと言うんだな」

「よっぽど強盗団の追手が怖いんだね。虚勢を張ってないと自我が保てない」

「知った風な口利くんじゃねぇよ!」


 二人の言い争いはここで強制的に遮断された。独房の扉がある通路に足音が響いたのである。ロックが外れる音が二人の耳に届き、どちらからともなく会話はお開きとなった。

 クレが独房に入れられてから、まだ数時間しか経っていない。看守がこの場にやってくる理由として一番可能性が高いのは、三つの独房が使用中になることである。


「よぉ、クレ。寂しいだろ? 来てやったぜ」

「はぁ?」

「クレちゃんのお友達?」

「っきゃぁ!?」


 軽口を叩く、少し高い声。そこへやってきたのはエドであった。そして予期せぬ先客に驚き、同一人物とは思えないような、極めて女性らしい声を上げる。クレは腹を抱えて笑った。


「静かにしとけ!」


 看守はそう怒鳴って乱暴にエドを”ハ”に放り込むと、すぐに出て行ってしまった。看守も人間だ、これほどの悪臭が立ち込める所に、意味なく居たくはないだろう。

 しかしクレの笑い声はしばらく独房の廊下に響き渡った。口惜しそうに、エドは小さく「ちくしょう」と漏らしたのであった。


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