ACT.2

 深緑のタイルの上には赤い絨毯が敷かれており、大きなガラス窓の向こう側には海が見える。手前が殺風景である事に目を瞑れば、何処かのリゾートホテルだと言われても信じてしまえるような趣きであった。そこは棟長室、セノの城である。


 統一感と重厚感のある木製の家具。サイドボードの上には、ヒュミドールと呼ばれる、葉巻を適切に保管する為のケースまで置かれていた。

 当然ながら、全てのグレードが囚人達の居住区画とは比べ物にならないほど贅沢である。しかし、彼らが破格の待遇を受けるのは必然とも言えた。島内の施設はこの刑務所のみで、物資は数日に一度の定期船頼み。それすら悪天候で不通になってしまう可能性がある。

 監獄島の職員なぞ、志願する者は今時ほとんど居ない。付加価値として、高待遇で迎えるしかないのが現状なのである。

 そしてここまでしても、状況は芳しくない。施設の特性上、表立って求人をかけることもできず、所内の人手不足は慢性的なものとなっていた。


 しかし、ある女にとって、そんな背景はどうだってよかった。彼女は久々に訪れるこの空間を満喫し、できるだけ長居する算段ばかりを立てている。女の名前はエラー、囚人番号【404】、B棟のボスだ。

 来客用の上質なソファに腰掛け、湯気が立ち上るカップから口を離すと、彼女はため息を吐いた。一人掛けソファの座り心地は申し分ない。感触を確かめながら深く座ると、程良い弾力が落ち着きのないエラーを優しく窘めた。


「呼び出されるとココアが飲めるからいいよね。椅子もふかふかだし」

「お前は本当にチョロいな。ところで、その頬の傷はどうした」


 ガラステーブルを挟んだ向かいにセノが腰を下ろすと、その体格にソファが短く悲鳴を上げる。

 セノが着目したのは、彼女の真新しい傷である。ナイフで裂かれたような一筋の赤い線が、彼女の頬を斜めに横断していた。


「あぁ、クレとゴトーが喧嘩しちゃって。止めに入ったら、ね」

「クレにも困ったもんだな……」

「新入りが来るって噂のせいで不安定になってるみたいだからね、まぁいつもの事なんだけど。で、本当なの?」

「そうだ。三日前には入所という段取りになっていた」


 セノは淡々とそう答えた。クレの杞憂に終わればいい、と考えていたエラーの淡い期待は潰えたのだ。ただの噂だ、そう一蹴されることを彼女は望んでいたのである。苦虫を噛み潰したような顔をして、遠い窓の外、さらに向こうの海を睨む。

 いや、こうなることは心の何処かで予測できていた。生傷が耐えない自分の傷をわざわざ指摘した時点で、彼にとって話しにくい話題が存在することは明白である。エラーはそう思い直し、落ち着いてセノの次の言葉を待った。


「その新入りのことだが……」


 今までの調子が嘘のように、セノは難しい顔をして言い淀む。エラーのボスとしての勘が、悪いニュースだと告げていた。

 しかも今回は特大級の何かがあるらしい。その予感は、彼女から勘が外れて欲しいと願う事すら忘れさせた。


 エラーは幾度となくその勘に助けられた。ドラッグ取引やリンチ等、秘密裏に発生する様々なイベントを未然に防いできたのだ。積極的に面倒を起こし、好き放題過ごしたボスもかつては存在したが、彼女は違う。

 数年のボス業で培われた嗅覚と判断力は、いつだって被害者を守る為に振るわれてきたのである。客観的に見て、彼女は”良いボス”であった。


「お前の勘の良さ、頭の回転の早さにはいつも驚かされる。でも、きっと今回は当たらない」

「……もしかして、新入りの、本人絡み?」

「あぁ」


 本人自体に問題があると言われて、エラーはあっさりと思考をストップさせかけた。答えは簡単である。考えるだけ無駄だからだ。

 彼女は痛い程に理解していたのだ。イレギュラーをもたらす人間というのは、とことん他者を引っ掻き回して翻弄する。そのどれもが予測不能な行動である、と。


 入って数分で殴り合いを始めた荒くれ者や、ドラマの観過ぎか、早々に「私がここを仕切るボスになる」と宣言して半殺しにされた阿呆は、なんとまだマシな部類で、昼食中に突然自慰を始めた狂人もいた。

 つまり、彼女達の行動を予測するだけ無駄なのだ。明らかなヤク中や精神疾患がある者は別の施設に収容されるにも関わらず、定期的にこのように異常者が送り込まれてくるのである。言ってしまえばファントムに収容される時点で、常人とは呼べないのかもしれない。しかしエラーは、自分と彼女達を別の生き物のように考えていた。

 セノにここまで深刻そうな顔をさせる、自分とは違う生き物が送られてくると、彼女は解釈したのだ。


「何者なの?」

「オレは話していないが、マエダが言うには、受け答えはすこぶるまともだそうだ」

「はぁ? じゃあなんで入所が遅れてるの?」

「遅れてないぞ」

「え」

「あいつは地下の独房にいる」


 エラーの表情が打って変わった。それも当然だ。長くこの施設にいる者であれば、入所と同時に独房にぶち込まれるということが、どれ程有り得ないかを知っている。

 一体どんな脱走を企てたのだ、それを尋ねようにも、彼女の喉はからからに乾いて、上手く発音出来なかった。話の流れから、エラーの質問を察したセノは、振り絞る様に声を出した。


「脱走はしてない。直行だ」


 エラーは苦い顔を浮かべて、セノの目を見つめている。彼の表情が移ったかのような面持ちである。いや、それよりも絶望的かもしれなかった。

 有り得ない。

 彼女は頭の中で、何度もこの言葉を吐き出すようにして呟いた。


 ここは脱走を企てた者、実行して捕まった者、時には援助した受刑者が収容される刑務所なのだ。

 それ故、セキュリティは国内のどの刑務所の追随も許さない。試験的に運用されているシステムもいくつかあり、ここはその業界の最先端、技術の粋を尽くした施設だ。

 塀の中でくたばるか、自ら背負った砂時計の砂が落ちきって外に出ていくか、選択肢は二つしか用意されていないのである。


 エラーは動揺する心を持て余しながらも、懸命に頭を働かせる。もしかすると、場所が割れている施設に収容すると、都合が悪いことがあるのかもしれない、独房に入れられている女を救いたがっている人物もしくは組織がいる、と当たりをつけた。

 ファントムの住所は当然ながら非公開である。短時間で考えたにしては、彼女の想定は理に適っていた。しかし全てはただの妄想である。詳細を知らなければ、これ以上の事は考えられない状況だ。

 出来るだけ多くの情報を聞き出したい、彼女は口を開きかけたが、それは低い声によって遮られてしまった。


「スマン、詳細を言う訳にはいかないんだ。ただ、エラーは棟の為に良く動いてくれる、オレとお前は持ちつ持たれつだ。だから、先に情報を流した」

「……そっか。とりあえず、ありがとう。独房からはいつ出すの?」

「あと一週間くらいだ。本来ならそこでずっと飼っておきたい代物だがな。どれだけ伸ばしてもそれくらいが限界だ。ったく、法律ってのは厄介だよな」


 セノは溜め息をついて頭を掻いた。平時であれば、困った時に出る彼のその癖を、「ハゲるよ?」などと囃し立てるエラーであったが、彼女はただ無言を貫いていた。

 軽口を叩ける程の余裕が、今の彼女には無いのだ。セノはすぐに察し、居たたまれなさそうな顔をした。

 オレだって嫌だよ。彼は心の中でそう呟いた。


 温くなったココアがテーブルの上に鎮座している。結局、エラーがそれを飲み干す事はなかった。

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