About lovely rabbits
nns
ACT.1
水滴が落ちる。規則正しい間隔で落下するそれは、さながら天然のメトロノームだ。微かながらも妙に印象深い水音は、間違いなくその空間の主役を務めていた。
手を広げれば、向かい合った壁に触れられる程度の、洞穴のように狭く薄暗い個室。鼻を突く悪臭と、歪に反響する物音。ゴミのような布切れに、ハエが集る食器。そのどれもがこの場所の異常さを物語っていた。
ここを天国か地獄か、どちらかで例える必要があるなら、多くの人間は地獄と呼ぶだろう。しかし、【ナナヒャクナナジュウナナバン】と呼ばれた女は、その中で静かにほくそ笑んでいた。
***
ここはとある刑務所である。六つの棟から構成されており、それぞれ性別等によって適切な棟へと振り分けられている。
その中でも、とある女子棟に職員達は手を焼いていた。女性用の棟が二つしかない為、犯罪の重さや再犯性の有無等、振り分ける際に考慮すべき点を、悉く無視するしかないのである。棟内のグループや刑務作業の担当は申し訳程度に配慮されているが、殺人者と万引き常習者が隣り合って食事している風景は何とも異様であった。
そんな中、受刑者の年齢という要素は比較的重要視されていた。近年は老人の犯罪も少なくない。介護施設の様相を呈している刑務所も散見される程だ。
ここは性質上、他の施設より数は圧倒的に少ないが、それでも無視できないペースで、高齢女性達が罪を背負ってこの施設に送られてきた。
両棟それぞれに高齢者を振り分けるよりも、まとめた方が管理しやすいという理由から、偏った配置に落ち着いている。
B棟とD棟が女子棟であり、D棟には高齢の受刑者が集められていた。サポートをさせる狙いがあるのか、穏やかな性格で、元の罪が比較的軽微な若者がD棟に回されることも間々あった。
しかし、一部の者への配慮が、軋轢を生むのは世の常である。高齢者を集めたD棟は、職員の間でも「介護の仕事もあると割り切れば働きやすい」と専らの評判であったが、B棟の評価はというと最低だった。常に何かが窮乏しており、清掃の度に血を見ている、と。
評価と言ったが、これらは全て事実である。B棟では当然の事なので、あえて語られたりはしないが、怒号が飛び交わない日も無ければ、薬物中毒者が奇行を披露しない週も無い。
ここは特殊無番地刑務所。絶海の孤島、脱走犯専用の最終収容施設である。脱走に関わった人間以外訪れる事の出来ない幻のような場所。役人達はこの施設をファントム監獄と呼んだ。
これは女子B棟、とあるグループの取り留めもない物語である。
***
「なぁ」
「んだよ」
「面白い話しろよ」
「鏡でも見てろ」
「おもしれーな! ……オイ表出ろや」
褐色の肌、我の強そうな釣り眉に垂れ目。その目つきは彼女の口調も相まって、対面する相手を舐め腐っているような印象を与えた。首くらいまで伸ばされた金色の髪は緩くウェーブしており、気まぐれに風に揺られては毛先を遊ばせていた。口の悪さにさえ目を瞑れば、所謂”上玉”と称される容姿を持つ女である。
囚人番号【503】。通称エド。運動場の角、ちょうど日陰になる壁を背もたれに、腕を組んで深いため息を吐く。
面白い話をしろという無茶な要求をされた彼女は思った、せっかくおあつらえ向きの顔がそこにあると教えてやっているのに、何を怒っているのか分からない、と。
エドの隣には膝を曲げてしゃがみ、辛うじて陽の光を避けている女が居た。
囚人番号【556】、通称クレ。所謂”ヤンキー座り”をしていた彼女であったが、その姿が非常に板についている。
センターパートの真直ぐな長い髪は、日陰にいるというのに、陽に照らされたように赤かった。切れ長な目で、隣の金髪に突き刺すような鋭い視線を飛ばしている。
しかし当の本人は意に介さず、呆れた顔のまま、運動場を無邪気に走り回る囚人達をぼんやりと眺めていた。
両者とも、薄緑単色の冴えない囚人服に身を包まれていても尚、人の目を引く容姿を持ち合わせていた。もう少し女性らしくしていれば、引く手数多だろうに。彼女達を知る者は口々にそう言った。
「
「よし殺す」
そう言ってクレは立ち上がった。エドが小柄なこともあり、身長から発せられる威圧感は尋常ではない。170cmを超える長身は、それだけで見る者を圧倒する。
しかし、問題は”見る者”がほぼ皆無ということだ。それほど二人の言い争いは、ありふれたものとして扱われているのである。日常の一部として、完全に風景に溶け込んでいたのだ。
「もうやめてよ……ね?」
これまで、耳にタコができるほど似たようなやり取りを聞かされてきた、ある女性が二人の間に入った。
ありふれているとは言え、身近な人間からすると、迷惑極まりないイベントである事には変わりないのだ。女性の身長はかなりエド寄りではあるが、階段のように三つの頭が並ぶ。
彼女を表現する言葉を探すとしたら、お嬢様もしくは令嬢、箱入り娘。大切に育てられ、ふさわしい教育を受けたであろう気品を漂わせていた。
長い黒髪に、どこか甘ったるい印象を受ける丸い瞳。背丈だけを見ると平均的だが、華奢な体躯は、実際の身長よりも一回り小さい印象を与えた。同性ですら庇護欲をくすぐられるような容姿の女である。
洗練された品のある所作も、上流階級に属する人種以外の言葉で、彼女を形容し難い要因の一つであった。なぜ彼女がここにいるのかはさておき、とにかく棟一、この場に似つかわしくない女であることは間違いなかった。
「もう少し仲良くできないの? もうじき新入りさんがいらっしゃるのに」
「はっ、わぁーってるよ。だぁからクレが苛立ってんだろ?」
「てめーだろ」
「先に吹っ掛けたのはそっちだろーがよ。雑魚ほどよく吠えるわ」
「あぁ!?」
手の施しようが無い。そう悟った"お嬢様"は両手で顔を覆うのであった。そして騒ぎを耳にした女が、据え付けられたバスケットゴールの下から駆け付けた。
「サタン、大丈夫?」
「エラー……聞いて、二人がまた……」
「いや、言わなくても分かるよ」
サタンと呼ばれたのは品のいい女は、その呼び名に何の感慨も抱いていない様子であった。所内で彼女を実際の囚人番号である”【666】番”と呼ぶ者は、看守くらいだろう。
当然というべきか、大仰な名に、彼女は最初こそ拒絶反応を示した。しかし、不吉なイメージを持つその呼び名が、結果的に彼女を守った出来事があり、今ではすっかりその名を受け入れていた。
そして、エラーと呼ばれた、頬に真新しい傷を持つ女はエドとクレを一瞥する。その眼差しには、軽蔑の色がありありと浮かんでいた。元々仲のいい二人ではなかったが、最近の喧嘩の頻度は目に余るものがある、と考えていたのだ。
「あのさ。二人とも、喧嘩ばっかりで疲れないの?」
エラーは極めて中性的な容姿をしていた。辛うじて耳が隠れる長さの、ボブのような茶髪のショートカット。鋭いと言うよりは、冷たい目。話し方も相俟って、些か無愛想な印象を受ける。
しかし平時からこのような口調である事を裏付けるように、淡々と問うエラーの声に、エドは微塵も怯まず応答した。
「それあたしに言うか? 絡まれてんの分かんねーの? 事情知らねーなら黙っとけ?」
「あ? てめーが」
「似たようなやりとり、今しがた聞いたばかりだわ」
サタンは困ったような表情をして、そう二人の会話を切り捨てた。舌打ちの音が響き、火花を散らす二人は互いに視線を背ける。
エドが言った通り、新入りが来るという情報は少なからず、クレの精神状態を不安定にさせていた。もちろん本人は絶対にそれを認めようとはしない。
そうすれば打ち明ける必要の無い事まで、寝掘り葉掘り聞かれる事になってしまう。裏社会や日陰者の間では、見栄やメンツが非常に重要視されるのだ。ハッタリすらもテクニックの内の一つである。
つまり、自らの弱みと成り得る過去や考えを語りたがらないクレは、最低限この世界の生き方を心得ているということになる。
「はい、喧嘩は終わり。いーい?」
「っつかこいつが勝手にキレただけだし……」
「それはオレの台詞だっつの」
しかしそれでもエラーは腑に落ちなかった。彼女にクレを貶めるつもりは無い。何か言いたくない事情があるというのも理解できる。しかし、事ある毎に”面白い話をしろ”等と他人に催促するのは、あまりにも軽卒だと感じていたのだ。
エドはああ見えて、心の機微に聡いところがある。しかし優しさは持ち合わせていない。異変に気付いても、玩具にして踏み躙る以外選択肢が無いことは、誰の目にも明らかなのだ。
だというのに、クレはここ最近、定期的に”面白い話”を催促してしまう。エラーもサタンも勘付いていたのだ。クレは”つい”そう言ってしまうことを。
気を紛らわせるように、何かから逃げるように、咄嗟にそんな発言をしてしまう、と。
「エラー。いるか」
背の高いフェンス越しに、彼女に話しかけたのは、看守のセノだ。二メートル近い長身で体つきも異様にがっしりとした大男である。
彼は女性囚人B棟を総合的に管理する看守棟長である。この施設の決定事項は、ファントムの最高責任者から、各棟長へと下ろされ、そこからさらに一般看守や警備へと指示が出される。
言わば非常に大切なパイプ役であり、中間管理職なのだ。そして指示や決定が通達されるのは、必ずしも職員だけとは限らない。場合によっては職員よりも早く、情報の共有、時には相談すら受ける立場の人間がいる。
それは各棟で最も発言力のある囚人、つまり”ボス”だ。棟内の秩序の為、嫌々囚人と組んでいる棟長も多いが、B棟のトップであるセノは、現在のボスと良好な関係を築いている。
それは両者がそのように努めているから、とも言えるが、元々生まれ持った相性の賜物と表現するのが、最もしっくりくるであろう。B棟の職員、囚人それぞれのトップは四年間変わっていない。
「セノ。どうしたの?」
「ちょっと話しておきたいことがある。来い」
「はいはい」
フェンスの一部、扉になっている部分にカードキーを当て、彼は運動場へ入っていく。キーが必要な事から、当然ながら職員専用の入口だ。エラーの前まで辿り着くと、彼女を先に歩かせ、同じようにして運動場を後にした。
「なんかヤバそうだな」
「それな」
「今回ばかりは二人に同意するわ」
突然の出来事に、三人は彼らの後ろ姿を見送ることしか出来なかった。そして、姿が見えなくなってから、ようやっと声を発したのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます