昨日が消える

 ものの十数分で、沙夜は朝食を作ってくれた。「こんなに早く起きるとは思わなかった」と言われたのを思い出して時計を見てみたらまだ六時前で、休日にしてはかなり早起きしてしまった。昨日起きたのが七時すぎであることを考えると、確かに早すぎたかもしれない。


 食卓について「いただきます」と言って手を合わせる。テーブルの上には先ほど沙夜がいっていた野菜サラダも並んでいた。それを取り分けて、口に運ぶ。


「んー美味しい!沙夜が食卓に並べたいって拘っただけはあるね。流石沙夜」


「お褒めの言葉は嬉しいですが、お野菜が美味しいのは私ではなく、丹精込めて育てた綾瀬さんのおかげですよ」


「そうかもしれないけど、ほら、盛り付けとかさ。より美味しく見せる手間をかけたのは沙夜だからさ。美味しいよ、沙夜」


「ありがとうございます、旦那様」


 沙夜と、他愛のない会話を繰り返す。この時間が本当に、待ち遠しかった。待ち遠しくて待ち遠しくて、たまらなかった。こうして会話をしているだけで、昨日感じた心の痛みが、和らいでいくようだった。


「沙夜」


「はい、どうなさいましたか、旦那様」


 僕は昨日あったことを沙夜に話そうとする。ずっと吐露したかった内心のそれを、言葉にしようとする。


「実は・・・話したいことがあって」


「・・・はい、なんでございましょう」


「・・・・・・・」


 だけど。


 言葉に詰まる。


 話して、話したところで、僕は沙夜に、何と言ってほしいのだろう?


 それはもう、慰めてほしいという思いでしかない。自責の念で押し潰されそうになっている僕に、僕は、あなたは悪くないと言ってほしいという、我侭でしかない。

 つまり。


 自分のことしか、考えていない。


 自分の保身のことしか、考えていない。


 悪いのは、僕なんだ。


 助けることのできた命を助けなかったのだから、悪いのは僕なんだ。


 だというのに、それが僕のせいではないと言い訳したいがために、沙夜にこんな話をしようとする。


 自分勝手に、しようとする。


 それは、許されるべきではないと。


 僕は、思った。


 思ってしまった。


 自責の念で押し潰されてしまいそうなら。


 そのまま、押し潰されるべきだと。


 だから。


 こんな暗い話をして、沙夜を。


 彼女を、悲しませたくはない。


 彼女の笑顔が見れるなら。


 それで十分、救われるはずだろう?


 わざわざ彼女を悲しませるような話を。


 僕は、したくない。


「・・・・・ごめん!やっぱり何でもないや」


「そう、なのですか?」


「うん、長々と溜めたわりにごめんね!気にしないで」


「そう、ですか。ふふ、変な旦那様です」


「酷いなぁ。まあその通りか、あはは」


 それでいい。


 話さなくていい。これは、僕の心にとどめておくべきものだ。


 沙夜との会話は。


 楽しい方が、いい。


「そういやさ、僕の友達に明石っていうやつがいるんだけど、そいつがさ、この間大学に来るとか言っといて来なかったんだよ。その理由がさ・・・」


 誤魔化すように、僕は別の話をする。面白い話をするというのは非常に苦手ではあったが、それでも沙夜は僕の話に笑ってくれた。でも、その笑顔にはどこか、力がないように感じられた。


 しばらく話をして、楽しい朝食の時間も終わりを迎えようとしていた。


「今日は朝食を食べたら何をしようか。沙夜は何かしたいことはある?」


「あ・・・・・え、と、それは・・・・・」


 昨日、沙夜と一緒に出かけることができなかった僕としては、今日こそ沙夜と一緒に村を見て回りたかった。でも、これまでの経験を考えると、沙夜には昨日僕と散歩した記憶があるのかもしれない。それなら無理に同じことをしなくても、沙夜のしたいことがあればそれをしようと思った。


 だけど。


 沙夜は、僕がそう問いかけた途端、暗い表情をした。今までは僕の気のせいだと感じていた彼女の元気のなさを、その表情から気のせいではなかったと理解した。


「・・・・・」


「沙夜?」


「・・・・・・・」


 僕の問いに、沙夜は黙ってしまう。黙って、少し目を伏せて悲しそうな顔をしている。何か、変なことを言ってしまっただろうか。


 もしかして昨日、今日何をするかを約束していたのだろうか。それなら僕のその問いは、昨日の約束をすっかり忘れている酷い男として、沙夜の目に映っているかもしれない。失言だったかと、慌てて訂正する。


「あ、いや、ほら・・・案の一つというか。昨日言ったこと以外にも・・・みたいな感じで」


 言ったか言っていないかも分からないので、論点からかなり外れたの発言になった。外れ過ぎて言葉の意味が自分でもよく分からない。


「・・・旦那様、実はお話があるのです」


 が、しかし。沙夜は僕の言葉を無視して話を始めた。というよりも、言おうか言わないかをずっと悩んでいて僕の言葉が耳に届いていなかったようだった。そしてどうやら意を決したようで、さっき僕が昨日の話をしようとした時のように改まって、話し始めた。


「こんなこと、お食事中に申し上げてもよいものかと考えていたのですが・・・やはりお早めにお話しておこうと思いまして・・・」


「・・・まあ、もうほとんど食べ終わったし、気にする必要はないよ。どうしたの?」


 残り数口のご飯と焼き魚を口に運びながら、僕は話を聞く。


「実は・・・・・先ほど綾瀬さんとお会いしたときにお聞きしたのですが・・・」


「うん」


「昨日、斉藤さんのお宅のお子さんが、亡くなられたそうなのです」


「・・・・・・・・・・・・・・・」


 ぴたり、と。


 箸を持つ手が止まった。


 同時に、思考が止まった。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・。


 え?


 誰が?


 何だって?


 亡くなった?


 昨日?


 ・・・。


 ・・・・・・。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・。


 誰が?


「なん、で」


「・・・・・お話によると、昨日の大雨のせいで、川で溺れてしまったそうなのです」


「・・・・・・・・・は」


 何、言ってるんだ?


 それは、違うだろ。


 それは、ありえないだろ?


 え?


 だって。


 だって、その子は。


 僕が・・・・・。


 ・・・・・・・・・。


 は、はは。そうか。


 違う子か。


 僕が助けた子とは、違う子か。


 僕の知らないところで、川で溺れてしまった子がいたのか。


 そういうことか。


 そういうことなら、ありえても。


 ・・・・・・・。


 おかしく、ない?


「今日の夜に、お通夜が執り行われるそうです。ですので、今日はその・・・このようなことがあったわけですので、何かをするというのは・・・・・」


「・・・・・・・・・・なま、え」


「え?」


「その・・・・・亡くなった子の・・・・・・・名前は?」


「ええと、確か・・・」


 違う。


 違うはずだ。


 だって。


 だって。


 そうじゃなきゃ、僕が。


 僕が昨日したことは。


 昨日、僕が。


 僕の。


 僕の、昨日は―――――。


「かずき君、だったと思います」

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