気のせいなんてもう言えない
本当は、具体的な用事はなかった。ただ、早く家に帰って沙夜がいることを確かめたい。言うなればそれが用事だった。もし昨日、沙夜がいなくなるなんてことがなければ、多分僕は明石の家に行っていただろう。友達とみんなで、好きなゲームをして騒いでいただろう。だけど今は早く、沙夜に会いたかった。
放課後。バスが出るまで少し時間があったので、僕は三講目の講義中に終わらせた水瀬教授のレポートを提出しに、教授の研究室まで来ていた。講義中に別の講義のレポートをやるということが真面目なのか不真面目なのかは兎も角、こういうものは早く終わらせるに限る。
昨日初めて受けた講義のレポートなので書きにくいったらなかったが、何とか一時間半以内で終わらせることができた。昨日書けなかったのは内容が理解できなかったからではなく、沙夜のことが気がかりだったからなので、まあ一時間半もあれば当然できる。沙夜のことが気がかりなのは今日も同じではあるのだが、いると分かれば頭を抱えて悩むほどではなかった。
部屋の扉をノックすると中から「どうぞ」という声が聞こえてきた。その声を受けて僕は扉を開ける。
「失礼します」
「おう、桐敷か。どうした?」
「お忙しいところすみません、レポートの提出に来ました」
「ん?」
そう言って僕は印刷したレポートを取り出し、教授に手渡そうとする。しかし、教授はそれを受け取ろうとしなかった。
「教授?」
「・・・レポートっていつのだ?」
「昨日の講義のですよ」
「・・・・・」
そこでようやく教授はレポートを受け取った。訝しげな顔をしながらそのレポートに目を通す。
「それじゃ失礼しまー・・・」
「お前、これ昨日提出しただろ」
「え?」
昨日提出した?
「いえ、提出した覚えはありませんけど」
「お前なぁ・・・・・」
教授は呆れたようにそう言いながら机の上を探る。ほどなくしてホッチキスで止められた数枚の紙が出てきた。
「ん」
それを受け取る。するとその表紙には「六月二十四日 脳科学Ⅰ 第九回レポート 桐敷 優人」と書かれていた。
「・・・・・え?」
パラ、と紙を捲って中身を見てみる。するとそのレポートの内容は、ついさっき僕が書いていたレポートの内容と全く同じだった。
「・・・・・」
「自分がレポート提出したかどうかくらい覚えとけ。たかが昨日のことだろ」
「・・・・・すみま、せん」
「まあ丁度よかったわ。もう採点終わってるから持ってっていいぞ。昨日初めて出席したにしてはいい内容だった。むしろお前があの連中に教えてやった方がいいんじゃないのか?あいつらレポートかなり適当だからな」
「はい、そう、ですね」
「どうかしたか?」
「いえ、なんでも、ありません」
「ホントか?随分歯切れが悪いな。何かあったんじゃないのか?何もなかったら昨日提出したレポートのこと忘れるとかありえんぞ」
「・・・・・教授は、パラレルワールドって信じますか」
「何だ急に」
「ちょっと、気になって」
「・・・いきなり量子力学の解釈問題を出されてもな。どうした、別世界でも見てきたのか?」
・・・・・。
「ある意味、そうなのかもしれません」
「・・・よく分からんが、そんな難しいことをあまり深く考えるな。気が滅入るぞ。昨日は随分元気そうだったじゃないか。たった一夜で何があった」
「昨日、元気そうだった?」
「ああ、まだ色々と抱え込んで悩んでるのかと思ったが元気そうだったじゃないか。悩み事の一つもなさそうなくらいに」
「・・・・・・・・・・・」
・・・・・・・・。
「そう、でしたかね。すみません、そろそろバスが来る時間ですので、失礼します」
「おう、気ぃ付けて帰れよ」
「はい、ありがとうございます」
バタン、と。僕は部屋の扉を閉めた。手には、全く同じ内容のレポートが、二つ。
「・・・・・」
僕、昨日レポート提出したか?いや、そんなわけない。だって昨日は、書けなかったんだから。たとえ書けていたとしても、ここに提出しに来た覚えもない。じゃあどうして、一体誰が。
・・・そんなの。
僕しかいない。
僕と同じ内容のレポートが書けるのは、僕しかいない。人の文章を真似て書くことはできても、寸分違わないものなど、書けるはずがない。誰にも、僕以外には。
それに水瀬教授の、あの言葉・・・。
「元気そうだったじゃないか」
「悩み事の一つもなさそうなくらいに」
・・・・・。
体中に感じる恐怖を、振り払うように。
僕は、駆けるように家路に着いた。
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