心ここにあらず
乗り物に乗っているうちに僕は少しずつ正気を取り戻していき、大学に着く頃には我に返っていた。しかしだからと言って講義の内容が頭に入ってくるかといえば、それはまた別の話だ。教壇に立つ教授の姿を視界に入れながら、僕はぼんやりと今朝のことを思い出していた。教授が何か大事なことを言ったような気もするけれど、そんな部分に思考を割くほどの余裕は、僕にはなかった。しばらくの間休学していたのだから、本来ならば誰よりも真面目に講義を受けなければならないのだが、そのことすら頭の中にはない。遅れずに講義にやってきただけでも、褒め称えるべきだろう。いや、それならいっそのこと来ない方がよかったかもしれない。受ける気のない講義など、出たところで時間の無駄だ。
今朝の。
今朝のあれは、なんだったのだろうか。冷静になった今改めて整理してみるが、回答は何も見つからない。沙夜は本当にいたのか、いなかったのか。
もしいたのなら、彼女は今日、どこへ行った?
もしいなかったのなら、昨日の僕は、どこへ行った?
・・・・・。
駄目だ。
どう考えても、昨日と今日が繋がらない。彼女の存在を疑うと、自分まで存在しているのかどうか不安になってくる。不可思議とはここまで人をおかしくしてしまうものなのか。
何にせよ。
一番に疑うべきは、僕の正気だろう。もしこんな話を誰かにしたらどうなるか。間違いなく僕自身のそれを疑われる。ただでさえ僕は、長い間精神的に不安定な時期を過ごしていたんだ、折角大学に復帰できたのに、病院送りにでもされたら叶わない。全てを吹っ切るために、今の生活を選んだのだから。
「桐敷、ちょっと来い」
講義が終わった後、僕は教授に呼び出された。話を聞いていなかったことがバレただろうか。まあ怒られたとしても、悪いのは僕だから仕方ないが。
「はい、何でしょう?」
「大学来たってことは、もう平気なんだな?」
「・・・・・」
どうやら違ったようだ。
「ええまあ、なんとか」
「辛いなら無理して来る必要ないぞ?もっと休みとっていいからな?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「大丈夫って顔してないぞ」
「これはその、また別と言いますか。水瀬教授が心配している方のことなら、もう踏ん切りがつきましたので、本当に大丈夫です。今はちょっと、別の問題がありまして。そっちで悩んでるだけです」
「そうか・・・ならいいんだが。悩みがあるなら力になるぞ」
「・・・・・教授って、神様とか幽霊とかって信じる人でしたっけ」
「なんだ急に」
「僕の悩みに間接的に意味があると言いますか」
「一体何の悩み事だそれは。というかそれは俺が科学教授であることを分かった上で聞いてるんだよな?」
「やっぱり科学教授は非科学的なものは信じませんか」
「はっ、見たのか?何か、あり得ないものでも」
「ちょっと、可愛い女の子の幽霊を。もしかしたら神様かもしれませんが」
「・・・休んでいいんだぞ、マジで」
「やめて下さいよ、折角立ち直ったのに悲しいじゃないですか。ちょっとした冗談です」
「冗談って顔じゃないけどな。まあ悩みがあるならいつでも聞いてやるから、遠回しじゃなくもっと直接言ってこい」
「ありがとうございます。本当に行き詰ったら相談しに行きます」
「ん。じゃあ今日の講義のレポート、来週までにな。多分お前は長いこと休んでたから内容全く分からんかもしれんが・・・」
「大丈夫です。分からなかったら野郎どもに聞きますんで」
「おう、じゃあしっかりな」
そう言って教授は講義室を出た。水瀬教授は何かと僕を気にかけてくれている。それでいて踏み込んでほしくないところには踏み込んでこないので、非常に話しやすい教授だ。年上の人であんな軽口を叩いて話をできるのは、多分彼だけだろう。
「ユウ、教授と何話してたんだ?」
と、誰かに突然、後ろから首に手を回された。誰か、とは言うが、ふり返らずとも誰かはすぐに分かった。そもそも僕のことをユウと呼ぶ人は数えるほどしかいない。
野郎ども一号、伊藤真一である。
「・・・久しぶり」
「おう、ホントにな。何ヶ月ぶりだぁ?」
「春休みあわせて四ヶ月ぶりくらい?生きてるみたいでよかったな」
「なんだそりゃ。それはこっちの台詞だろ」
「いや、留年してるんじゃないかと思って」
「てめぇ」
ぐい、と首を絞められる。この感じ、懐かしい。
「他の連中は?」
「二講がないやつはみんなサボり。来てんのは俺くらいだわ。お前次取ってんの?」
「いや、面倒臭そうだから取らなかったわ。というかあいつらは大丈夫なのかよ。ホントに留年しそうだな」
「三年に上がれただけでも既に奇跡よ。お前朝飯食ってきた?」
「あー・・・いや、ちょっと色々あって食べ損ねたわ」
「俺も食ってねぇから学食行こうぜ。出所祝いってことで奢ってやろう」
「誰が出所だ」
「じゃあ進級祝い?」
「僕はお前らと違って進級できて当たり前ですから」
「うぜぇー」
なんやかんやの友人と、久々の会話を交わす。いつもの日常が戻ってきたようで、なんだか安心した。
抱えている不安を掻き消すように、会話に没頭しながら僕は、食堂までの歩みを進めた。
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