猫がいる!

 背中に嫌な汗が流れた。今までの汗とは全く性質の違う、冷たさからくる汗だった。分かりやすく言うなら、背筋が凍った。


 まさかとは思うが、ホームレスでも住み着いているのか?確かにこんな立派な家が使われていないと知れば、忍び込んでみたくもなるが・・・。周りに何もないわけだし、誰かにバレる心配もない。ある意味理想的といえばそうなんだろう。しかし人の家に忍び込むようなやつがスミからスミまで掃除をするか?いや、何を考えているんだ僕は。混乱しているのか、かなりどうでもいいことを考察している気がする。


 何にせよ、誰にせよ。肉親の家を我が物顔で踏み歩く人を許せはしない。とっとと出て行ってもらおう。


 ・・・怖い人だったらどうしよう。


 ・・・・・。


 だから何を考えているんだ僕は。警察呼べばいいじゃないか。しかし来て早々、何故こんな面倒事を抱えなければならないのか。


 気付けば、足音が気のせいではないくらいまでに近付いていた。僕はその足音に合わせるように、忍び足で障子の前まで歩く、近付いてきた何者かが障子に重なると、その姿が陰になって見えた。足を止め、こちらを向いている。どうやらこの部屋に入ろうとしているようだ。僕がいることを分かった上で入ろうとしているのか、それとも全く気付いていないのかは分からないが、不届き者を懲らしめてやろうという思いで、僕は勢いよく障子を開けた。


「きゃあ!」


「・・・・・!?」


 が、しかし。叫び声が聞こえてくるとは思っていたが、それは予想に反した可愛らしい叫び声だった。当然、そんな可愛い叫び声で男の子というわけもなく(偏見だろうか)、僕の目の前には女の子が立っていた。


 立っていた、というと少し語弊がある。その女の子は僕が障子を開けると驚いて仰け反ってしまったようで、廊下に尻もちをついた。その女の子を見下ろすような形になって初めて、その女の子の容姿を目に入れることができた。


 僕の目の前にいたのは。


 ・・・・・。


 普通ではない女の子だった。


「いたたたた・・・はっ!」


 尻もちをついた低いところから、彼女は僕を見上げる。


「優人様・・・?優人様でございますね!」


「は・・・・・え?」


 僕は彼女の言葉に、この状況に、反応できなかった。何故かと言えばそれは、理由が多すぎた。僕はまず、何に驚けばいいのだろう。彼女がここにいることにか?それとも彼女の容姿にか?或いは彼女の言葉にか?


 何故。


 何故この子は、僕の名前を知っているのだろう。それを真っ先に聞きたい気がしたが、それ以外にも聞きたいことが多すぎてそのことになかなか順番が回ってこない。順番が回ってこないというか、順番が分からなくて僕は言葉を失っていた。まさに「何から聞いたらいいんだろう」状態だった。さらには疑問符しか浮かんでこないせいで、脳内のキャパシティが限界に近い。順応性が高いと自負している僕でも、この状況にはただただ面食らうばかりだった。


 彼女は立ち上がると、僕の前で見事に姿勢を正してみせた。それはもう見蕩れてしまうほどの、美しい姿勢だった。姿勢に見惚れるなど、僕の人生において初めての経験だったし、そんな表現を使ったのも初めてだ。


「お見苦しいところをお見せしました。優人様、またお会いできて嬉しいです。こうして再び優人様とお会いできる日を、ずっと待ち望んでおりました。そして、旦那様として優人様をお迎えすることができたことを、本当に嬉しく思います」


「・・・・・」


「よろしくお願いいたします、旦那様」


「・・・・・」


 ・・・。


 ・・・・・。


 ・・・・・・・・。


 頭の中を整理したいというのに、さらに疑問が増えてしまった。まるで以前に僕を会ったことがあるとでも言いたげな物言いだ。深々と頭を下げる彼女の姿に、僕は微塵も覚えがないというのに。


「・・・えっ、と、君は、誰?」


 彼女が頭を下げているうちに一呼吸を入れることができたのか、僕は持ち前の冷静さを取り戻す。果たして、それは初対面でなければこの上なく失礼な質問であるが、そこまで気を使う余裕は今の僕にはない。


「申し遅れました。わたくし沙夜さよと申します」


 聞きたいのは名前ではない。しかし、何を聞きたいのかと問われれば非常に困る。


 沙夜。


 聞き覚えのない名前だった。多分。


「貴方のお祖父様である桐敷宗栄様、並びに、お祖母様である多恵子様に愛していただいた、猫でございます」


「・・・・・・・」


 ・・・・・・・・・・・・。


 猫?


「・・・・・猫」


「はい、猫でございます。覚えておられませんか?」


「いや、ちょっと待って」


 ・・・覚えては、いる。確かに祖父母は猫を飼っていた。子供の頃にこの家に来た時、確かに猫がいた。そうだ、名前はサヨだった。聞き覚えがないとは言ったが、どうやら覚えがあったようだ。しかし、人の名前として聞き覚えがなかったということに間違いはないので、僕は何も間違っていないと思う。


「覚えてる。確かに祖父母の飼っていた猫と遊んだ記憶は、ある」


「本当ですか!あれから何年も経つというのに、覚えていて下さって嬉しいです。そうです。あの時優人様に遊んでいただいた猫が、私でございます」


「いや、ちょっと待って。猫と遊んだのは間違いないけど、だからってその猫が君というのは、ちょっと・・・」


「あの時の猫が私です」とは言われても、それはあまりに話が突飛しすぎている。


「信じられないというか、一体何のことやらというか」


「信じていただけませんか?私の、この姿を見ても」


「・・・・・」


 確かに。


 確かに彼女の容姿は、その、何というか。


 猫の、それではあるが・・・。


 ・・・・・・・。


 黒くて長い髪をした彼女の頭からは、耳が生えていた。まさしくどこかで見たことがあるような、コスプレチックな猫耳だった。そして当然(?)、お尻の辺りからは尻尾が生えていた。尻尾は見えないので分からないが、少なくとも耳は「生えている」と表現するのが相応しいと言えるほどにリアリティのあるものだった。アーカイブではないと、まず言い切れる。しかし言い切れるからと言って、信じきれるかと言えば、それはまた別の話である。どちらかと言えば自分の目の方を疑いたいところだ。


「それは、本物?」


「はい、正真正銘、猫の耳でございます。もし見ても信じていただけないのであれば、触ってみて下さいませ」


 そう言って彼女は頭を差し出す。人間の髪質とはまた違った、細やかな毛並みが彼女の耳を覆っていた。若干の恐怖も感じたが、それ以上に好奇心が勝ったようで、その毛並みに手を伸ばしてみる。


「ん・・・ふぁ」


 もにもに、と耳を摘んでは揉んでみる。気持ちがいいのか、その度に彼女はどこか妖艶な息を漏らす。なんだか非常にいけないことをしている気分だ。はて、猫にとって耳は性感帯だったろうか。というかそもそも僕は何をやって、何を考えているのだろう。尻尾にも触ってみたいと思う僕は、微妙に変態的で、実に人間的な感じがする。


「ど、どうでしたか?本物だと信じていただけましたか?もしお望みであれば尻尾の方も・・・」


 非常にお望みです。


「・・・いや、大丈夫」


 後は僕がこの事実を受け入れられるかどうかである。これ以上は必要ないだろう。

 いちいちこんなことを確認する必要はないかもしれないが、普通の人は頭に耳は生えてこない。尻尾もついていない。既にその時点で彼女の存在は異質である。それに加えて僕の名前、そして祖父母の名前も知っている。どころか、祖父母の飼っていた猫の名前まで知っている(というか名乗っている)。その事実を、僕はどう受け止めるだろう。


「もう少し、話を聞かせてもらってもいいかな?」


「はい、何なりと」


「・・・障子を挟んで立ち話もなんだし、部屋で話そう、か」

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