懐かしい場所
その後十分ほど歩くと、斉藤さんが言っていた通り民家が少しずつ減っていき、やがて完全に建物がなくなった。そこまできてようやく幼い頃の記憶が戻ってきた。
「あー、こんな感じだったっけなぁ」
建物よりも、この緑の風景の方が頭に残っていたようだった。両親とこの辺を歩いた記憶が戻ってくる。
「・・・・・」
一瞬感傷的な気持ちになったが、うだるような暑さの前では本当に一瞬だった。こんな時ばかりは、その暑さに感謝さえ覚える。余計なことを考えずに済む。
やがて、遠くの方に建物が見えた。それが祖父母の家であることはすぐに分かった。
「やっと着いたか。思ったり遠いかもな」
これからはここから大学に通うため、毎日のようにこの距離を往復しなければならない。荷物は今日よりも軽いとはいえ、先が思いやられる。自転車はあまり好きではないのだが、今後は必要かもしれない。
建物の前に立つと、大きめの門が僕を出迎えてくれた。この一つからでも、想像する全体像の大きさはとてつもないものだろう。最も僕は昔来たことがあるので、その想像がただの想像ではないことを分かっている。
・・・一人で暮らすには、なんとも贅沢な広さだ。
今更ながら思ってみる。交通の便は悪いし、お店も近場にはあまりないかもしれない。どころか、ご近所さんの一人もいないような場所に立っている。それでも、こんな家で暮らせるのであれば、大した問題ではないと、僕はそう思った。多分、純和風という日本の住まいに憧れでも持っているのだろう。実際に住んでみなければ分からないところは、もちろんあるだろうが。
門を開けると、少し先に玄関があった。既に洋風の造りのものは一切なく、昔ながらの日本を思わせるその風景に、どことなく感動を覚える。果たして僕が日本の何を知っているのかと問われれば、多分何も知らないが。
両親から貰った鍵を使って玄関の戸を開ける。カラカラ、と控えめな音を鳴らす戸の向こうには確かに、記憶に残る祖父母の家があった。
「じいちゃん、ばあちゃん、久しぶり」
気が付くとそう呟いていた。しかしそれを言うのはお墓の前だし、もっと言えば少し前にお墓参りをしたので別に久しぶりでもない。久しぶりなのは祖父母ではなく、この家だ。
玄関を上がって適当な部屋に入る。その部屋に荷物を降ろし、ようやく一息つく。
「あぁ、疲れた」
肩を揉みながら間抜けな声を上げる。僕は汗かきな方ではないのだが、この時ばかりはその言い分に信憑性がない。額から、首から、腕から。流れ落ちる水滴が、ぽたりぽたりと畳を濡らした。ただそれだけで、清掃の行き届いた家を汚してしまっているような罪悪感を覚えた。それは実際、間違いではなかった。
改めて部屋を見渡す。中央に四角い机が置いてあり、箪笥などの家具もそのままになっている。流石に中には何も入っていないとは思うが、家具の並びを見るだけで生活感を感じることができた。人がいなくなってしまっても生活の痕跡は残っているものだと、少し感心した。
この部屋が何に使われていた部屋なのかは流石に覚えていない。じいちゃんの部屋だったか、ばあちゃんの部屋だったか。それとも特に使われていない部屋だったのか。いや、使われていない部屋だったら生活感を感じるのも変な話か。
・・・・・。
・・・・・・・・・・・・?
ふと、疑問に思った。普通生活感を感じるのは、清掃の行き届いた部屋ではないはずだ。むしろ少し汚れていてくれた方が生活感を感じることができる。それなのに僕はその「清掃の行き届いた」ところに生活感を感じていた。
・・・ほんの一瞬、目の前の机に違和感を感じた。その違和感の正体が何であるか、すぐには分からなかったが、間違いなく何かがおかしいという核心を持って、僕は机に手を伸ばした。
スーッ、と人差し指を机の上に滑らせた。そして、その指の腹を見る。全く汚れていなかった。
「・・・・・」
この場合の汚れというのは、ホコリのことである。それが机の上を滑らせた人差し指に、全くついていなかった。
僕は立ち上がって箪笥の前に立った。そして今と同じように、箪笥の上に指を滑らせた。しかし、その指の腹にもやはり、ホコリはついていなかった。手のひら全体でやってみても、それは変わらなかった。
瞬間、違和感の正体が明白になった。部屋が綺麗なこと自体は、何もおかしなことではない。家主の亡くなった家を、親戚などが綺麗にするのは別段不思議なことではないはずだ。
だが「部屋が綺麗」と「清掃が行き届いている」とでは、決定的な相違があった。
じいちゃんとばあちゃんが亡くなったのは一年以上前だ。それからこの家には誰も入っていないはず。つまり、整理整頓がされていたとしても、家具の上にホコリひとつ溜まっていないなんてこと、あり得ない。
・・・・・・。
シッ、と。
床に圧力のかかる音が聞こえた気がした。気のせいとしか思えないほどの音だったが、それを気のせいと思わなかったのは、多分確信を持っていたからだろう。
・・・誰か、いる。
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