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 行くあてなど決まっていないのに、収まらない怒りがより子の歩調を早めた。どこか目的地へ向かうためではなく、藤堂から少しでも遠くに離れたい一心である。それに、近所の人に見つかって声をかけられるようなことも絶対に避けたい事態だった。


 こんなことになるならば愛想よくなんてしなければよかったと、より子は今更ながら後悔する。藤堂は岡山の人口の少ない田舎から上京してきた。その為か、やたら都会に似合わない近所付き合いを大切にする。仕事をしていた頃は出張で買ってきたお土産を配り歩いていたくらいだ。


 マンション向かいのたばこ屋、髪の毛が紫色で一見老舗スナックのママのような峰さんというおばちゃんは、藤堂のファンだとニコニコしながらより子に語ったことがあった。


「たまに雑談するとね、話が面白くていつも笑わせてもらえるから、元気になるんだよ」


 峰さんは随分昔に夫に先立たれたらしく、ひとりで店を切り盛りしている。子供がいるのかどうかは不明だ。より子も藤堂もたばこは吸わないので、ついぞ峰さんから直接何かを購入した覚えはなく、時々申し訳程度に設置されてある自動販売機で缶ジュースを買うくらいだった。それでも峰さんは二人で出かけるより子たちを見かけると、いつも嬉しそうに店の小窓から手を振ってくれた。


 藤堂が彼氏であったときは、自分の彼氏を褒められて悪い気はしないものだ。なるべく良い彼女にうつるよう世間体を気にするのも、女の本能だろう。だが彼氏でなくなった今この瞬間は、ひとつひとつの過去の行動に虫唾が走る。峰さんに藤堂がどんなクズ野郎か、その正体をバラしといてあげればよかったと思わなくもない。

 

 だが、そんなことよりも今はただ、誰にも会わずに自分の姿をこの界隈から消すことが優先されるべきことだった。より子は傘を深く傾け、視線を常に下へ向けながら地面を踏みつけるようにして歩いた。


 途中、視界には間違いなく入っていたはずなのに、うっかり水たまりに勢い良く足を踏み入れて、デニムの裾に濁った滴が飛んだ。より子はなぜか、しばらくそのまま水溜りから出られずにいた。じんわりと足元が不快に湿っていくのをただ茫然と感じ取る。頭の中では深い沼に落ち窪んでいく自分が連想された。沼を埋め尽くすのは猛毒のヘドロで、浸かったところから順番に身体が溶けていく。そうしてこのまま、自分の存在がこの世から消えてなくなればいい。

 

 いやダメだ。より子は我に返って水溜まりから身体を右方向へ脱した。途端にけたたましくチリンチリンとベルの音が鳴り、より子の脇を大げさにカーブしながら自転車が通り抜けていった。紺色のポンチョを上から被っていたので男か女かも分からないが、より子はその自転車に乗る者の背中を睨みつけた。


 怒りは油断をすると悲しみに形を変えてしまう。収まるまでは持続していなければ、自分を責める材料になってしまうのだ。間違っているのは誰なんだと、より子は自分に問うた。今の自転車も本来歩道は歩行者優先、少し横に寄れたくらいでベルを鳴らされる筋合いはない。もとい、自分がこんなところにいるのは誰のせいだ。藤堂だ。


 十中八九、どんな女も愛想を尽かすであろう、別れるだけの当然の理由があってより子はあの家を出てきた。その事実に落ち込むというのは、まるで未練たらしい失恋でもしたようで納得がいかない。落ち込むのは藤堂の方で、無職のままこれから家賃や食費をどうしようかと、慌てふためく姿が容易に想像できる。捨てた男なんだから、それを愉快に思えるくらいでなければ今ここにいる意味がない。


 顔を上げると少し先に地下鉄の入口があった。垂れこめた雨雲は世界を灰色に染め、等間隔にならぶ木々の生い茂る葉の色さえ奪っていた。地下へつづく階段と案内板を照らす、羽虫のついた蛍光灯の明かりだけが、より子の行く先を暗示しているようだった。


 このまま雨に打たれ続けるのも忍びない。雨宿りでもして気持ちを落ち着けようと、より子はすっかり濡れてしまったキャリーバッグの取手を引き上げた。


 階段を降りる途中、藤堂との記憶は嫌味なほど鮮明に甦った。ひどい目にあった数々の記憶だけでなく、その中には歓び、笑ったものも含まれていた。それらは混ざり合うこともなく、互いを相殺できずに、それぞれが水と油のように主張を繰り返した。


 重いキャリーバックを抱えるためだと自分に言い聞かせて、より子は歯を食いしばるのであった。

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嘘をつくために生まれてきました 稲美 圭 @tabokichi

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