馬は忘れない、上書きされる


 馬は嫌なことを忘れない。

 物事は上書きされる。


 もう安全だ、忘れただろう……と思っても、ふとしたきっかけで、上絵の具が禿げ、下の絵の具が出てくるように、過去の記憶が戻ってくる。

 だから……過去に苦い経験をした馬には気をつけろ。



 と、教えてくれたのは、ナチュラルホースマンシップの人だかったかな?




 トラウマを抱えた馬を矯正できる力なんて、私にはない。

 そもそも、今ででも安全な馬ばかり選んで触れ合ってきたし、クラブも危険な馬は渡さない。

 危なすぎる馬は、触ることも、見たこともない。


 あーこは、今でも大人しい馬だし、それほど危険な馬でもない。

 だが……。

 2年前のあーこを忘れないと、今のあーこは危険すぎる。

 面影はあるものの、時々、やらかす危険な行為に、驚かされてばかりだ。

 9年のあーこの半生に2年の月日はかなりのウエイト。

 そこで学んでしまったことは、忘れないのだ。



 2年前、こんな今があるのなら、そのまま、あーこを持てば良かった。

 だが、今があるからあーこを持ったわけで、あーこが幸せなレッスン馬のままであったら、こうはならなかった。


 運命ってそんなものだよな……。





 私があーこを持つこととなると、クラブ中の人々は驚いた。

 すでに、シェルという私のような未熟な乗り手にブルーリボンすらプレゼントしてくれる馬を持っているのだから、もう1頭とは。しかも、私の場合、馬房掃除も2倍になる。

 シェル以上のいい馬を持つならまだしも……。


「え! どうしてあんな馬を……と、失礼……」


 2年前を知らない人は、驚きを隠せない。


「いくら2年前に携わったからといって、そこまで責任を持つ必要はないと思う」


 2年前を知っている人は、私があーこを見捨てたからと、後ろめたい思いを抱いていると思っている。

 出されそうになって、情に流されたのだ、と思っている人もいる。


 今まで数多くの馬を見送ってきた私だ。

 かわいそうだ……という情だけで馬を引き取ってしまうようなことはしない。


 あーこは素直で賢いいい馬だ、といくら言っても、納得されない。

 競技で上を目指せないかも知れないが、とても素質あるいい馬なのだ、と言っても、はぁ? 愛で盲目になっているな、こいつ……としか思われない。


 おかしいなぁ……と思ったら、おかしいのは私の方だった。

 私のあーこ像は2年前のまま、でも、あーこは変わっていたのである。




 とにかく。

 人を見れば威嚇する。馬を見れば威嚇する。

 ギリギリ歯ぎしりして、耳がなくなる。


 もともと、ツンデレなところがあった。

 まずは威嚇してみる、って馬で、養老牧場時代も、きっと他の馬とは相入れず、苦労したことだろう。

 が、孤独が好きな馬ではない。


 2年前、たまたまその養老牧場にいたというポニーがクラブに連れてこられた時、あーこはずっと嘶きっぱなしで、そのポニーもずっと答えていた。

 聞くと、同じ放牧場にずっと一緒に放されていたポニーだという。

 このクラブでも、あーこは他の馬と放牧生活を送っていたことがあったが、その時は他の馬をいじめまくって、乾草を独り占めしていた。

 かわいそうに思って、他の馬に乾草を運ぶと、よってきて追い払う。

 ものすごく独占欲が強いというか……順位欲が強いというか……。


 自分のテリトリーに馬でも人でも入れたがらないようだ。


 レッスン馬時代の馬房は狭く、通路も狭かった。

 常に自分のテリトリーを侵されているような状況で、イライラしていたのだろう。

 広い馬房に移したら、とりあえず大人しくなり、スタッフを驚かせた。


「噛み付かれて大変だったんですよ」


 え? 威嚇はあるけれど、本当に噛むことはしないだろう?


 ところが、スタッフだけではなく、他の会員さんも、あーこに噛まれた、という人がたくさんいた。

 私は、それも知らなかったのだ。

 あーこのレッスン馬としての評価は、地に落ちていて。


「え! シェルのようないい馬を持っているのに、なんで馬?」


 と言われて当然だったのだ。




 あーこは私を覚えていた。

 私との約束事も覚えていて、呼べばくるし、フリーで運動させてもよく言うことを聞いた。

 一見、体調さえ戻れば、2年前と同じようにできるのではないか? と思えた。


 それが、大間違いと知るには、時間がかからなかった。


 引き馬で散歩していたら、いきなり、引き倒された。

 近くの馬場で馬が走っていて、気にしているかな? とは思ったのだが、まさか、いきなり、くるっと回転して、パカーン! と尻っ跳ねして逃げて行くとは。

 私の体は一瞬宙に浮いて、地面に叩きつけられ、足をくじいた。


 まさか? である。


 というのも、ここまで長く乗馬をやっているけれど、引き馬でこういう倒され方をしたことがなかったのだ。

 危険を察知して、手を離し、放馬させたことはある。

 だが、まさか、落馬に匹敵するような、ダメージを与えられるとは……。


 あーこは放馬し、どこかへ行ってまった。


 体が痛いけれど、すぐに追いかけて捕まえなければ、クラブの人に迷惑をかけてしまう。引き手を踏んでしまえば、驚いて倒れてしまうかも知れない。


 こういうように馬が狂奔して放馬した場合、やることはだいたい決まっている。

 怖くてパニックを起こしているのだから、他の仲間のいるところに走って逃げるか、自分が安心できる馬房に走って逃げるか……だ。

 よっぽどバカがつかない限り、見ず知らずの場所に狂って走ってはいかないものだ。(まぁ、時々はある)


 人に迷惑をかけないうちに捕まえないと……と立ち上がると。


 なんと、20mも離れていない場所に、ポツンと立って、私を不安そうに見つめていた。


 そこは、よく行く丸馬場の横だった。自分が安心できる場所で、私が迎えにくるのを待っていた。

 捕まえる時に驚いて逃げる馬もいるが、あーこは私が引き手を掴んでくれるのを待っていたのだ。



 2年前、作り上げた関係は、それほど壊れていない、と感じた。

 と、同時に、これは困ったぞ、とも思った。


 人間も、パニックを起こしたら、愛する人を押し倒しても逃げる人がいる。



 あーこは、この2年で、些細なことで、そんなパニックを起こしてしまう馬になってしまったのだ。

 愛情云々、信頼云々……の問題ではない。

 嫌なことや恐怖を覚えてしまった。

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