ダメだ、あの馬


「ダメだ、あの馬。もう出されるわ」


 その言葉に耳を疑った。

 あーことの日々から2年が過ぎていた、秋のある日。




 あーこは人気のレッスン馬だった。

 少なくても、1年半前までは、とても人気があった。


 大ファンという人もいた。

 ツンデレだけれど、放牧して、呼べばやってくるあーこは、胸キュンにしたことだろう。

 人参をいっぱいあーこにあげて、その人は言った。


「こいつも私のこと、大好きだと思うわ。もう自馬みたいなものだと思う、だわよね?」


 ファンでいてくれるのは嬉しいが、この一言は気が重くなった。


 私は、クラブのスタッフではなく、クラブの自馬会員だ。

 1年間365日、常に、シェルのオーナーだ。

 辛いことも、嬉しいことも、すべて乗り越えて、一緒にいる。

 切りとった時間だけ、お気に入りの馬に自馬気分を味わっている人を、快くは思えない。


 それは、妄想だ。

 馬を持つのは、全然違うスポーツをするのと同じくらい、違うのだ。


 そして……。


 長い間、色々見てきて、本当に自馬としてくれたならいいけれど、妄想自馬化された馬の末路は悲惨なことが多い。

 クラブの馬は「みんなの馬だよね」というファンが多いほうが、幸せになれる。「私の馬だよね」というファンが多いと、不幸になる。

 みんなの馬は広い視野に立って可愛がられるけれど、妄想自馬は自分勝手な狭い視野が寄り集まっている。

 その馬に携わった他の存在を無視するから、時にハードワークになる。



 あーこは怪我をした。フレグモーネにもなった。

 その度、私は約束を果たし、ケアを手伝ったりもした。

 汚し屋のあーこの馬房掃除も、時々した。


 でも、あーこはクラブの馬だから、その扱いや使い方に口出しすることはなかった。

 たとえありがたい行為でも、シェルに勝手に手を出されるのは嫌なように、自分の馬じゃない馬に、口出し・手出しはするべきではない、と思っている。

 その馬に責任を持てるのは、唯一、オーナーだけだ。

 責任のない立場で、責任が生じるようなことを、してはいけない。



 だからこそ、馬は人なり、だと思う。

 出会った人によって、運命が変わるのだ。




 あーこの悪い噂は、1年半ほど前から、徐々に聞こえてきた。


 まずは、人を時々落とす。

 次に、人を乗せたまま、時々、寝転がる、というのだ。

 今では、ローレルではなくゴローレルと呼ばれているらしい。


 確かに寝るのが好きな馬だったが、人を乗せて寝るというのは……???



 前を通れば威嚇しまくり、耳を伏せ、歯ぎしりをして、怒り狂う。

 だから、皆、恐れているという。


 そして、なんとなく使われる回数も、以前より減ってきたような?




 そんな時、決定的なことが起きた。


 遠くから泊まりがけで馬に乗りにきた人達がいた。

 問題はその人数だった。

 約10名。しかも、1日2、3鞍乗りたいという。

 他のところでは断られたり、一人10分駈歩なしで……などと言われたらしい。


 当たり前だと思う。


 乗れる馬は決まった頭数しかいない。

 クラブ会員さんで回っている程度の頭数。

 そこに10名、しかも、3鞍……ということは1日30鞍分、馬を用意しなければならない。しかも、3日間連続で。

 遠くからわざわざ来てくれたのだから、で、クラブは受け入れた。


 が……。


 人間に寛容ということは、馬には過酷ということだ。



 あーこはびっちり使われて、その人達が帰った翌日も使われた。

 2鞍目のレッスンの時、事件は起きた。

 なんと、レッスン中に激しい下痢を起こし、止まらなくなり、みるみる縮んでしまったのだそうだ。


 以来、ずっと休ませていたものの、背中を触るだけで大暴れし、乗ってみたらガタガタで、とても使い物にならない、という。



「あのままじゃあ、出されちゃうわ。もう使えないもん」




 なんてことだ。


 確か、あーこのファンがいたな、自分の馬みたいって言っていた人が。

 その人は?


「え? もう他の馬を可愛がっているよ。あーこはダメだからって」



 仕方がない。


 ダメになった馬は諦めないと乗馬を続けられない。

 馬を持つにはお金がかかる、乗馬を続けるのもお金がかかる。

 使えない馬を引き取っても、生かす道を与えられなければ、人も馬も不幸になる。


 でも、私はすでにメディを見捨てた。


 もしも、メディにできなかったことを取り返すために、この運命が巡って来たのなら、私は約束を果たさなければならない。


 シェルがいる私には経済的にも時間的にも精神的にもゆとりはない。

 ましてや、あーこはたった2ヶ月手をかけただけの馬だ。

 本当にダメになっていたら、自らの手を汚して、屠場に送るなり、安楽死させるなりしなければならない責任を負うことになってしまう。



 でも、ここであーこを見捨てたら、永遠に後悔するだろう。



 私は即決した。


 ただ、悩んだのは……このわがままを身内にどう理解してもらうか、だけあった。

 身内の理解なしでは、馬は続けられないからだ。

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