さらば! 負の遺産


「これで過去の自分とおさらばしなさい」


 インストラクターはそう言った。

 私もそのつもりだった。


 他のクラブで行われる親睦目的の競技会に参加し、そこで結果を出す。

 私だけが走られ、私だけが落とされ、私だけがバカにされる……そんな過去を払拭し、トラウマから解放され、心の傷を癒し……そして、今後は自信を持って、馬とお付き合いして行くのだ。


 そう思っていた。


 だが、初めての競技会で、私は馬に爆走され、破茶滅茶で終わり……。


 同じ馬で競技に出た会員さんたちの、やり遂げた喜び・盛り上がりについていけず……。

 3日間、泣き続けて、クラブに顔を出さなかった。




 クラブに顔を出さないこと、3日目……心配した会員さんが、電話をくれた。

 一緒に同じ馬で競技に出た人だ。


「あなた、ちょっと失敗したくらいで、何をメソメソして、いじけているの? だいたい、他の人よりキャリアが長いからって、無理に上のクラスにチャレンジするからだよ! そんな見栄なんかはっているからこんな結果になるんだよ! ちゃんと自分の実力を考えて、もっと、しっかり基礎からやり直しなさいよ!」


 叱咤激励しったげきれいしたつもりなんだろう。

 ……が、私ははらわたが煮え繰り返る思いだった。


 そうか、そういうことなんだ……。




 カイザーは、ベテランの馬。

 小心者でお調子者、そして、とても賢かった。

 インストラクターが見ていると、しっかりやるが、目を離すと、自分勝手な行動をとって、乗り手を無視し、馬場の横の草でも食べるような馬。

 駈歩と号令がかかる前に、勝手に走り出すような馬。

 そして、初めて乗る人は、ご挨拶に暴走して、自分の方が偉い! って思わせる。


 が、やることはワンパターン。

 ここからクラブハウス側に向いたら、暴走する。でも、馬場の出入り口に近くなれば、止まるから問題ない。

 人を落とすような暴れ方はしない、落としてはダメだと知っている。ただ、自分の優位性を乗り手に示したいだけだ。

 だから、こちらがゆとりをかましていれば、なーんだ、驚かないのか……と、真面目にやり出す。


 検定会の時も大活躍のカイザーだが、ちょっとした悪い癖があった。

 経路の1発目は、悪ふざけして、まともにやらない。走ったり、柵をまたいで場外に出てしまったり、散々なことをする。

 が、2回目からは、はいはい、わかりましたー! とばかりにしっかりこなす。

 しっかり……と言えるかなぁ?

 時に、乗り手を無視して、勝手にきちんと回ってくるのだ。


 新馬に乗ることが多くなった私だが、時々乗せてもらえるカイザーは、安心して乗ることに集中できる、色々勉強できるいい馬だった。

 カイザーで、今までわからなかったことが、ああ、なんとなく、こんなことだったのかなぁ? などと気付かされた。

 好きな馬だった。


 そのカイザーで、3人で競技に出ることになった。



 最初は、皆、同じ課目にエントリーしていた。

 が、ある日、インストラクターに呼ばれ、お願いされた。


「皆、同じ課目だと時間的に厳しいんだ。りんさん、一つ上の課目に出てくれないか?」


「無理です。私なら走られてしまいます」


 一つ上の課目は、出る予定だった課目よりも20m馬場が長い。

 馬にとっては、直線が長いほうが走りやすいのだ。

 しかも、出番が1発目になってしまうので、今までのカイザーの振る舞いを思えば、まず、走られることは間違いない。

 実際、前年も私よりもはるかに上手な女性ライダーが同じ課目で走られている。

 力のある男性なら走られずに済むかもしれないが、私は非力で小柄な女性だ。


「大丈夫、りんさん、ベテランだから。他の人は……ほら、いきなりだと不安なんだよね」


 確かにエントリーしたメンバーを見れば、私が一番キャリアが長い。

 親睦競技会だから、本馬場での練習時間もあるから、最初にインストラクターが本馬場に慣らしてくれさえすれば、どうにかなるかも?

 そう思って受けた。



 が、結果は……。


 カイザーは馬運車に乗るのも一苦労。屠場とじょうに行くとでも思ったのか?

 着いてからも、とても興奮していて、にんじんさえ食べない有様。馬が前を通るたびに嘶いていた。

 不安が募る中、インストラクターは、他の会員さんと馬にかかりっきりで、カイザーを本馬場練習することなく、下乗りらしい下乗りもせず、私に渡したのだった。


 え! 私の本番が、本馬場慣らし?

 お願いしますって……そういう意味だったの?


 私は、正直、気が動転した。

 カイザーは、今までのカイザーではなかった。

 だが、ここまできたらやるしかない!

 物見して横っ飛びしたが、耐えた。

 審判席を見て、蛇行したけれど、蹄跡に戻った。

 オーバーランしたが、経路違反にならないギリギリのところで戻った。


 散々……だが。


 最後の敬礼をした時は、やり遂げた! という爽快感だけだった。

 臆病な私が……あんなに走られたのに、最後までやり遂げたんだよ!

 多分、火事場の馬鹿力、アドレナリン出まくり。

 それで乗り切れたんだろう。


 でも、笑顔でいられたのは、馬場を出るまでだった。

 迎えにきたインストラクターの一言で、私は大ショックを受けた。

 てっきり、いやすまなかった、もう少しケアしてあげられたらよかったのだけれど……と、労ってくれるのかと思っていたのだ。


「カイザー、馬鹿馬だよな」


 その馬鹿馬は、残りの二人を乗せて、汗だくになりながらも、きちんと経路を回って、帰ってきた。二人は大喜びだった。

 そして、言った言葉は……。


「りんさんは、運が悪かったのかなぁ?」


 違う。


 馬が馬鹿なわけでも、私に運がなかったわけでもない。

 これは、必然、当たり前の結果。

 その中で、私はベストを尽くした。実力以上のものを出した。

 ……なのに、誰もそれに気がつかない。


 私が3日間、泣き続けたのは、そのせいだ。


 なぜ、走られたのか? がわからなくて……じゃない、わかったからだ。


 思えば、私はいつもクラブで『人身御供』のような役割を果たしていた。

 上の課目に挑戦することになっても、カイザーで練習は出来なかった、他の馬で練習をしていた。

 なぜなら、他の二人も競技会前にびっちり練習にきていたからだ。さらに私が乗れば、競技会前に疲れ果ててしまう。

 毎日のようにクラブに通ううち、いつの間にか、半スタッフのような感覚になっていて、私が遠慮するのが当たり前になっていた。

 私も、その役割に満足していたのだが……。

 

「これで過去の自分とおさらばしなさい」


 インストラクターがそう言ってくれた、前日の練習が、唯一、カイザーとした経路の練習らしい練習だった。

 競技の準備も、競技当日の準備も、何一つ整っていなかった。

 文句は言えない。カイザーはクラブの馬だから。私だけの馬じゃない。

 競技でベストを尽くしたいなら、私だけの馬がいる。



 そして……。

 私は、これで過去の自分とおさらばした。


 頑張っても頑張っても報われなかった日々、ただ、悪い癖ばかりをつけてしまった日々……もう一度、まっさらに戻って、馬と出会いたい。

 馬から落とされ、その度に、「馬鹿野郎!」と怒鳴られていた日々をなくしたい。

 何度そう思ったか。

 そして、メディのような優しい馬に乗って、インストラクターの優しい指導を受けて、のびのびと上達したかった。

 このクラブで乗馬を始めた会員さんたちと同じように。

 私は、彼らが羨ましかったのだ。


 ……が、それはふしのない竹のようなものだ。

 促成栽培の樹木のようなものだ。


「いきなりだと不安」とインストラクターに言われていた人が、私に「もう一度、基礎からやり直せ!」と説教してくる。


 悪意はないのだ。

 この人は、まだ、挫折を知らない。

 挫折しないように、インストラクターから守られている。

 この人が、本当の乗馬の難しさ・厳しさを知るのは、これからだ。


 多くの挫折を乗り越えて、いっぱい節を作ってきた。

 辛い冬を乗り越えて、細かな年輪を刻んできた。


 この挫折を経て、自分にやっと自信が持てるようになった。


 過去は負の遺産だ。

 だが、その負の遺産こそが、私の財産だ。



 私が、彼らを羨ましく思うことは、もう二度とない。















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