私にまかせて!
マリーだよ、あの、マリーだよ。
乗る前にちゃんと回して運動させておく、下乗りもする、だから、大丈夫!
自信を持って。
……って、言うけれど、あの、マリーだよ。
ブツブツ、ブツブツ……また私の葛藤が。
「なんでだよ。なんで馬に乗らなくちゃならないんだよ、こんなに怖い思いをして、しかも、大金を払って……しかも、あの、マリーだよ」
靴紐を結ぶ指先が震えてうまくいかない。
根本的な問題なのだが、自分がなぜ、こうも馬に関わっているのか、理由がよくわかっていないのである。
好きだとか、楽しいからとか、そんな理由じゃない。
とにかく、やらなければならない使命のようなものに追われて、やっている。
随分と堅苦しくて面倒な趣味の楽しみ方だ。
確か、バンビの時も同じような葛藤していたなぁ。
でも、結局、仲良しになったじゃないか、マリーだって仲良くなれるかも?
などと、自分で自分に言い聞かせた。
マリーは、思ったよりも乗りやすい馬だった。
軽くてチャカチャカしているのかと思ったら、比較的重いくらいで、鞭にも動じない馬だった。
ハミを嫌がって首をブンと前に出すことがあり、引っ張られもしたけれど、牝馬であまり力がないので、どうにか持ちこたえることができた。
おお、思ったよりもいけそうだ……。
と思った翌日は、ずっとチャカついて、ついに走り出し、あれーーーーー!
周りに大迷惑をかけて、小さな囲われた馬場に引越し、そこでも落ち着かず、インストラクターに乗り替わってもらい、再騎乗。
かと思えば、また随分と乗りやすく落ち着いていて……あれ?
そう、マリーは日替わりで様子が変わる馬だった。
そういうところ、女の子なんだろうなぁ。
とんでもない日もあった。
その日は、乗馬をやりたいかも? と言う人たちが、クラブを見学にきていた。
マリーは、その人たちの目の前で大暴走して見せた。
「うわー! 馬って怖い!」
「いえ、そんな怖くはないんですよー!」
怖いけど……。
「えー! でも止まらないんですよねぇ!」
「いえ、本当は止まるんですよー!」
止まらないけど……。
営業妨害したくはないから、必死に馬上から叫ぶものの……。
「やっぱり、怖そうです!」
「いえ、そんなことは……」
どて!
マリーがすっ転んで、私はさらに1mほど先に投げ出され……落馬。
「やっぱりやめておきます」
……という声をひっくり返ったまま聞いた。
こんな調子だったけれど、私はなぜか落ち込まなかった。
今日はどっちだよ? と不安になりつつも、まぁ、いいさ、そのうち、10回中5回が、3回になり、2回になり、1回になるさ……とおおらかでいられた。
多分、マリーが私にすごくなついたからだと思う。
ボケーっとしていたメディに比べ、マリーは積極的に甘えてきた。
「大好きよ」という態度を、あからさまにとってくれた。
しかも、精神的にも落ち着いたのか、ほかの人に対しても、威嚇したり、噛み付いたりはしなくなった。
それだけではない。
まるで醜いアヒルの子が白鳥になるように、とても美しい馬になった。
ブロンズのような毛色、牛のようなカクカクしたお尻はふっくら丸くなり、バランスのいい体になった。
目は相変わらず出っ張っていたけれど、それすらも、大きな目で可愛かった。
女の子らしい上品な動きで、小柄ではないけれど、大きすぎず、力もさほど強くないので、女性が乗るにはちょうどいい馬になった。
それでも時々牝馬らしいヒステリックな行動を取り、インストラクターが乗りわかってくれても、ますます落ち着かず、汗だくになっておしまい、ってこともあり、インストラクターの評価はなかなか上がらなかった。
「マリーはダメだな」
「でも、故障少ないですよ」
「そういえばそうだな」
マリーは、故障のない馬だった。
蹄が左右で大きさが少し違っていたので、時々、足が腫れることもあったけれど、跛行はせず、安定していた。
そこは、休み明けは体が凝り固まって動けなかったメディとは大違いだった。
とにかく、私はマリーのいいところを、常にインストラクターに伝える役割を担った。
マリーは、
「私にまかせて!」
乗っていて私がひるむと、マリーは必ずそう言った。
馬は口をきかないけれど、私には、いつもマリーがそう言っているように感じた。
勇気があって、物怖じせず、物見してぶっ飛ぶようなことは滅多になかった。
何かやらかす時は、乗り手の扶助にご機嫌斜めになった時、牝馬らしい気難しさが出た時だった。
全くの初心者には危険かもしれないが、ライセンスを目指す人になら、頼りになる馬になるだろう。
一度だけ、マリーが「私にまかせて」じゃなかった時がある。
今までとは違う怖さを感じた。
ものすごく責任を感じた。
多分、私が「これが馬術」と感じた、初めての感覚だと思う。
「すべてあなたに従います」
マリーはそう言った。
クラブを去る時、マリーにお別れを告げた。
メディにはすがって号泣したが、マリーとは笑顔で別れた。
メディの将来は心配だったけれど、マリーは安心できたのだ。
インストラクターが、何度も匙を投げかけたのを、一生懸命、マリーの良さを
そして、本当に素晴らしい、皆に愛される馬になり、これからもずっと大事にされるだろう、と思った。
輸送に難点があるので、外の競技会には連れていけないかも知れないけれど、クラブ内の検定会では、力を発揮するだろう。
特に、女性はマリーに乗ったら、映えるに違いない。
マリーと出会えたこと、一緒に成長できたこと、マリーが素晴らしい馬になってくれたこと。
私は、マリーが誇らしかった。
マリーと一緒に歩んだ自分も誇らしかった。
私がこのクラブを去り、自分の馬を持って乗馬を続けよう……と決心できたのも、マリーが私に自信をくれたからだ。
だから、マリーとは涙のないお別れだった。
私のマリー。
今は天国に住んでいる。
放牧中の事故で、ロープに引っかかって転倒し、二度と立ち上がれなかったそうだ。獣医さんが呼ばれて、安楽死処分された。
クラブの不注意だと非難する人もいたし、てんてんてんマリ……と名付けられただけあって、そういう事故もありえる馬だったよ、という人もいた。
だが、クラブを離れて、その場にいなかった私には、もうあの可愛いマリーが、この世にいないことが信じられない。
マリーのことを思うと、いつも、あの声が聞こえてくる。
「私にまかせて」
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