馬は栄誉を知っている
「長く乗馬をやっているんだから、ライセンスを取ったらどうだ?」
インストラクターに勧められた。
だが、昔、乗馬をやっていた仲間で、ライセンスをわざわざとった人はいないと思う。あまり意味のないことだ。
最初は乗り気じゃなかった。
「これだけ乗りに来ているんだから、何か目標になることがあった方がいいだろう。ライセンスに意味はなくても、ライセンスをとる練習には意味があるぞ」
なるほど。その通り。
こじんまりしたクラブで、外の競技会などにはいかない。
だから、乗馬検定会が唯一のイベント、日頃の努力の成果の見せ所、ちゃんと乗馬用のジャケットをお借りして、正装する。
普段とは違う独特の雰囲気、白い柵で20×40mの馬場を作り、決められた経路を踏んで、拍手喝采を浴びる。
皆、張り切るのだ。
その本番に向けて、一生懸命頑張るのには、意味がある。
私は最初、メディで出る予定だった。
大好きなメディとやりたかったのだ……が、メディは何度練習しても、小さく円を描いて回ることが出来ない。
なんとかその日は出来たとしても、翌日にはまた出来ない……という状態だった。
しかも、本番2週間前になり、放牧で怪我をしてしまった。
本番には間に合うかも知れないが、練習が出来ない。
「バンビで出るのはどう?」
えー! 嫌だ! 怖いよ、あんな馬!
バンビはサラブレッドではなく、トロッターのいう種類の馬だ。
3歳からこのクラブにいて、最初は素直で大人しかったので、皆、安心して乗っていた。が……。
私の目の前で、馬場に入った途端、ビューンと大疾走して、ドロドロの馬場に人を落とし、さらに走り続ける馬がいた。
「悪くなったなぁ」
と、誰かが呟いた。
その馬が、バンビである。
いつの間にか、手に負えない馬になってしまった。
理由は、いろいろ噂された。
ある人が、扶助が通じなかったから鞭で叩いた。以来、おかしくなってしまったのだ、という。
すっかり臆病になってしまい、
その後、再調教でびっちり乗られ、やっと最近、また人を乗せられるようになった、そんな馬だった。
初めて乗った時は、思った以上に素直でいい子でびっくりした。
が、2回目に乗った時は、理由もわからず、ぶっ飛んで行って、落とされた。
その落ち方も……非常に痛かった。
どうやら、乗り手の扶助に違った反応をしちゃったようだ、と思うと、勝手にパニックを起こしてしまうらしい。
叩かれる前に、逃げなくちゃ! と思っているようだ。
噂は本当かも知れない……と思うような反応だった。
バンビは、正直、それほど賢い馬ではない。
昨日驚いたものを、今日も驚く。何度見ても、また驚く。多分、明日も慣れるまで驚き続けるんだろう。
いい感じでできたぞ、と思ったら、誰かが荷物を馬場の横においた、もうそれだけでパニックである。
2週間、インストラクターに下乗りしてもらい、馬を落ち着かせてもらい、びっしり練習して、どうにかいけるかも? と思った前日。
総仕上げで一度経路を回ろう……となった。
途中まではいい感じだったけれど、地面においてある横木をまたぐところで、びっくりして、猛ダッシュで走り出し、私は地面に叩きつけられ………。
しばらく地面に倒れていたけれど、その間、地面が揺れていた。
バンビが半狂乱になって、馬場中走り回っているのを感じた。
横木をまたぐのは、もう何度も練習している。
だが、その日は初めてだった。
それでかよ……。
いつもの私なら、もういいわ……になるところだけれど、落ち着いたところでもう一度乗った。
明日が本番だから、悪いイメージで終わるわけにはいかない。
それに、多分、頭を打っていたから、恐怖心も飛んでしまっていたのかも?
本番の日は悲惨だった。
1日経つと、起きるのも大変なくらい、落馬のダメージが大きかった。
あたた、あたた……でまともに歩けない。
全身打撲である。
そして、人の手を借りて、やっとの思いで馬に乗り……。
だが、バンビはいつもと違う雰囲気に飲まれたのか、そわそわしていて、全く思い通りに動かなかった。
経路を一回踏んでみたものの、これは無理でしょ? と思えていた。
が、ついに本番が来てしまった。
人から借りたジャケットを汚すわけにはいかない、落馬できないぞ。
覚悟を決めて回ったら……完璧ではないものの、どうにかバタつくわけでもなく、無事に回って来ることができた。
ホッとした。
嬉しかった。
やった!
周りから拍手が上がった。
すごいすごい! と声も上がった。
本番に強いねー! と、驚嘆の声も。
まさか、あの状態で、無事に帰ってこられるとは、私も思っていなかったけれど、他の人も思っていなかったんだろう。
私はいっぱい愛撫して、バンビを褒めまくった。
他の人も、バンビをたくさん褒め称えた。
……が、奇跡はそれからだ。
その日から、バンビはガラッと変わって、人を落とさなくなった。
驚いたりはあっても、パニックを起こして逃げ出すような、乗り手を無視して走り出すような、そんなどうしようもないことをしなくなったのだ。
おどおどしたところはなくなり、目つきから変わった。
誰もが驚いた。
あの日、やり遂げたこと、そして、皆に褒められたことが、バンビにとって自信に繋がったんだろう。
自分のやるべきことがわかったんだろう。
私は、その時、3級ライセンスを取った。
でも、それよりも、とても貴重な体験をさせてもらった。
馬は栄誉を知っている……ということを、身をもって教わった。
馬は、人に褒め称えれると自信を持ち、叱られると自信を失う。
馬を褒め称えることの大事さ、叱る時の用心、自信を持たせてあげることの大切さを、バンビに教えてもらった。
バンビはお調子者で、褒めれば、とても喜ぶのだ。
「顔デカイねー!」というと、褒められたと思って、喜ぶ。
叱ると怯え、褒めると調子に乗る、そんな馬。
バンビは今も信頼のおける馬としてクラブで活躍しているそうだ。
きっと、顔デカイねーと言われて、えへん! と思っているだろう。
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