怖いもの知らずには敵わない
急に手に重みを感じる。
その途端、ビューン! と引っ張られる。
急に地面が近くなり、砂つぶまで見え、次の瞬間、それが糸のように流れて飛んでいく。
視野が狭くなり、ぐわん、ぐわんと、流れて行く。
激しい揺れと、蹄の音、それと、風。
私は息を飲み……それっきり呼吸が出来ない。
うわああああああああああ!
叫びたいけれど、口は固く結ばれたまま。
落ちる!
落ちる!
助けてーーーーーーー!
そして、目の前がぽっかり開けて、何もない空間に投げ出され……。
「ぎゃーーーーー!」
……あ、夢か。
人はストレスを感じると、高いところから落ちる夢を見るという。けれど、私の場合、いつの頃からか、馬に走られて振り落とされる夢なのだ。
落ちてゆく感触で、目がさめる。
未だにその悪夢から逃れられない……トラウマってのは、こういうのを言うのかな?
危険を伴うスポーツ。
私はとことん臆病だ。
怖いもの知らずには敵わない。
「乗馬ってのは、意外と怪我が少ないスポーツなんだぞ? スキーの方がよっぽど怪我率高いんじゃないか?」
そうかも知れない。
知っているだろうか?
実は、乗馬で一番多い怪我につながる事故は、落馬ではない。
うっかり馬に足を踏まれることだ。
きちんと調教の行き届いた馬に、ちゃんとしたインストラクターがついていたら、まず、相当のことがないかぎり、落ちない。
思ったよりも揺れたりするから、恐怖はあるかも知れないが、やることをきちんとやって、やっちゃいけないことをやらなければ、安全なのだ。
それでも馬は草食動物で臆病だから、不意に見慣れないものがあったりすると、驚いて逃げようとしたりする。
カンカン……と鳴る踏切と次に来るだろう列車の音は、馬が驚くに十分。だから、私は身構えて緊張してしまった。
いや、馬に乗っている間から、こいつは何かに驚くじゃなかろうか? と常にも構えて、緊張していたのだ。
体が固くなり、不意な馬の動きについていけず。
おそらく、平常心でさえあれば10年乗馬を続けてきたのだ、対処できるだけの技量はあったはずだろう。
恐怖心とそれから生じる体の硬直は、乗馬技術の向上の妨げだ。
そんな中、必ず一人くらいは、怖いもの知らずがいるものだ。
こんなトラブルさえ楽しさにすり替えるツワモノが。
「あはは、走っちゃった! イェーイ!」
怖いもの知らずには、敵わない。
恐怖心に打ち勝たなければ、上達するのは難しい。
氷の上に叩きつけられるのが恐ければ、スケートは思い切り練習出来ない。
斜面が恐ければ、スキーは滑れない。
スピードが恐ければ、モータースポーツは出来ない。
馬が暴れたり走ったりが恐ければ……馬に上手に乗れるようになるはずがない。
私は臆病者だった。
だが、それをひた隠しにして、強がって、恐怖心と戦い、無理をしていた。
馬に乗る前は、いつも悶々と葛藤していた。
乗馬用の靴に履き替えながら、なんでだよ、と自分に問う毎日だった。
「なんでだよ。なんで馬に乗らなくちゃならないんだよ、こんなに怖い思いをして、しかも、大金を払って……今からでも遅くはない、お腹が痛くなったことにして、レッスンなんかキャンセルすればいい、そうすれば、この緊張から解放されるし、今日は馬に振り落とされなくて済むんだよ?」
実は、今でもその葛藤は、時々あるのだ。
それくらい、私は臆病だ。
シェルという信頼できる相棒がいて、恐怖よりも楽しさが少し上回っただけのこと。他の馬に乗れば、やっぱり怖い。
だが、乗馬は所詮趣味なのだから、楽しく思えるほうがいい。
臆病で下手くそだからこそ、シェルという相棒を求めたのだ。
……が、なんせ、シェルはもった当時は3歳の若駒。
年齢詐称か? と思えるほど冷静沈着な馬だったが、決して安心して乗れる馬ではなかった。
落馬もあったし、落馬しそうになったことも、数えきれない。
恐怖に負けそうになった時、私はあることを考えるようにした。
「私が怖い時、シェルはもっと怖いと思っている。だから、私がしっかりして、シェルを励まさなくちゃ」
私とシェルは、誓約を結んだ。
シェルは、私のいうことを聞かなければならない、その見返りに、私はシェルを守らなければならない。
「私が上に乗っている限り、おまえの身の安全は守られているよ」
記憶が飛ぶほどのひどい落馬をした。
シェルに乗って馬場に降りた記憶すらない。まるで眠っていて夢を見ていたような、モワッとした記憶しかない。
気がつくと、洗い場の横で座っていて、別の人がシェルの足を洗っていた。
うわ、こいつ、おっかねー! とか言いながら。
シェルは、後肢に触られるのが嫌なんだよねぇ、と思いつつ、私はどうしてここにいるんだ? と、ハッと気がついた。
最後に覚えているのは……。
今、ここで飛び降りなければ、シェルが大怪我しちゃう! だった。
だが、実際は、シェルが馬場で大きくつまずいて前転しそうになり、その勢いで、私はポーンと前に投げ出され、一回転して地面に叩きつけられたそうだ。
激しい落馬だったので、頭絡はちぎれていた。
あっけない一瞬の出来事だったので、上記の記憶は改ざんされたものと思われ……。
ただ、私は自分が誇らしかった。
自分のことしか考えられなかった私が、とっさの判断で、自分の身を挺してもシェルの身を守ろうと考えた、その自分の成長が嬉しかった。
その落馬は、数日歩けないほど痛かったが……。
時々、馬って人に乗られてかわいそう……乗馬って虐待よね、と言う人がいる。
だが、それは乗せる人によって違う。
人次第で、乗馬は虐待にも馬を幸せにもする……人なりなのだ。
私が知っている馬は、人を背中に乗せることで、安心している。安全を保証されている。
肉食獣の脅威にさらされて生活していた馬の祖先に比べ、なんと幸せなことだろう、とすら思う。
私の臆病は治らないが、シェルという馬を持ったことで、心構えからして変わって、随分と軽減されたと思う。
それと、以前ほど「怖いもの知らず」を羨ましく思わなくなった。
馬は本来臆病な動物だ。
怖いもの知らずは、馬の本質からすると、随分と遠い。
技量を磨くには、怖いもの知らずの方が有利に違いない。でも、馬の気持ちを理解するには、ちょっと臆病ぐらいがちょうどいいんじゃないだろうか?
私は臆病だ。
だから、これだけ準備すれば大丈夫! と思えるくらい、シェルと綿密に打ち合わせしてから、乗っている。
「ま、いいかあー!」で何もしないで自分の度胸任せで乗ってしまう人よりも、数倍、安全な乗馬ライフを送っていると思う。
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