第4話

 朝方まで雨が降っていたおかげで、その日はいつもより暖かかった。マフラーをしっかりと巻いていると、汗ばんでしまいそうなくらいだ。

 エラは大急ぎで王子と待ち合わせた広場に急いだ。ドレスの完成に喜んで、つい時間を使いすぎたのだ。広場は滅多に行かない貴族街にあるから、エラには土地勘がない。もし道に迷ったら遅刻してしまうだろう。


 道幅の広い通りに差し掛かると、あちこちから商人の声が響いてきた。どの商人も、自分の店のものが一番だと口々に叫ぶ。魚や野菜など、たくさんの食料が露店に並んでいた。


 この国は周囲を海に囲まれた島国だったから、肉よりも魚の方が食卓に上る機会が多い。露店のなかに、非常に安く魚を売っているお店を見つけて、一瞬足が止まったが、そんな理由で王子を待たせるわけにはいかない。

 なにより、鮮魚を持って王子に会いに行く娘が、どこの世界にいるのだろう。

 エラは必死に欲と戦いながら、なんとか商店街を通り抜け、大通りに出た。


 たくさんの馬車が行き交う大通りを、大急ぎで駆け抜ける。しかし急いでいたせいなのか、エラは目の前の水たまりに気付けなかった。

 あっと気づいた時には、もう水たまりは目の前に迫り、とても避けられるような距離ではなくなっていた。せっかく縫ったスカートの裾が、泥で汚れてしまう!


 勢いのまま駆け抜け、水たまりを通り越してから、恐る恐るスカートを見下ろす。


(汚れて、いない……?)


 スカートに汚れは見当たらなかった。その場でくるくる回って、何度も何度も確かめるが、結果は変わらない。

 エラは後ろを振り返った。エラが通った道には、大きな水たまりが確かに存在する。でもそれは、綺麗な円形をしているわけではなかった。運良く、水たまりを踏まずに通れたのだろうか。あれほど大きな水たまりを……?


 腑に落ちなかったが、あまりのんびりもしていられない。きっと、神様が見ていて助けてくださったのだ。そう思うことにして、エラは貴族街の方へ足を向けた。


 エラが家を出てから十分以上歩いた頃、ようやく貴族街の入口が見えてきた。

 待ち合わせの広場は、貴族街の入口近くにあった。広場は大きく、地図上では隣に位置するはずの教会が、ひどく小さく見える。薔薇で作られたアーチや植木がエラを出迎える。今は季節外れで、枝や支柱の骨格が見えてしまっているが、花が咲く季節には、息を飲むほど美しい光景になるのだろう。


 王子は広場の中心の、白いベンチに腰掛けていた。

 王子は短い黒髪と黒い瞳、端正な顔立ちをしている。しかし彼に初めて会った者は、まずその目に惹きつけられる事になるだろう。澄んだ瞳は聡明さと優しさに満ち溢れ、着ている青い軍服とは幾分不釣り合いに感じられた。剣を振るうよりも、書類に向かい合っている方が似合いそうだ。この国は現在、戦争はしていないが、軍隊は保有している。きっと彼もそこに所属しているのだろう。


 王子はまだエラに気付いていないのか、静かに本を読んでいた。その姿はまるで一枚の絵画のようで、自分がそこに加わったら、絵の均衡が崩れてしまうような気さえした。


 エラが近付くのをためらっていると、何か感じたのか、王子がふと顔を上げ、エラと目が合った。王子は本を閉じ、にっこり笑うとエラを呼んだ。


「おはよう。こっちにおいでよ」

 呼ばれて、エラは少し安心して王子に近づいた。王子の目の前まで来ると、スカートの裾をつまみ恭しく礼をした。


「おはようございます、王子様」

「やあ、エラ。来てくれてありがとう」

「もったいないお言葉です」


 顔を伏せたまま硬い口調で話すエラに、王子は苦笑する。いつも王子は、もっと楽にして良いと言ってくれるけれど、相手は王子だ。頼まれても気軽に接することなどできなかった。


「今朝方、雨が降っていた時はどうしようかと思ったのだけど、晴れてくれてよかった。雨の中の散策というのは、いまいち気乗りがしないからね」

「きっと神様が見ていてくださったのです。綺麗なお空ですもの」

「なるほど、君の日頃の行いがよかったおかげかな」


 顔を真っ赤にして否定するエラを見て、王子はおかしそうに笑った。

「エラは面白いなあ。

 ……あ、そこ段差があるよ。足元注意してね」

 王子はエラに注意を促すと、ふと気づいたようにエラの靴に目をやった。

「あれ、エラ。もしかして、その靴……?」

 驚きと期待を含んだ王子の声に、エラの声が少し高くなる。

「はい、そうです。ガラスの靴です。王子様に初めてお会いしたときに履いていた、あの靴です」

「履いてきてくれたの? ありがとう! ドレスが違うから、すぐには気付かなかったよ。

 ……ああ、そうか。そうだよね、ドレスは普段使いには向かないよね」


 合点がいったようにぽんと手を打つ王子に、エラは少しだけしゅんとなった。王子はそんなエラの様子に気付かないまま、いつかドレスを着てこれる場を用意すると言った。エラの表情がみるみる暗くなる。


「……申し訳ありません。それは、ダメなんです。

 その……、舞踏会に着て行ったドレスは、もう、ないのです」


 エラは申し訳なさそうにうつむいた。王子は不思議そうに首を傾げている。

 できることなら、全てを王子に打ち明けてしまいたかった。お城に向かう途中で魔女のおばあさんに出会ったこと。魔法のドレスのこと。そして、十二時の鐘とともに、魔法が解けてしまったことを。


 信じてもらえないかもしれないけれど、それでもよかった。でも、それはできない。この国で、いや、この世界では、魔女という言葉は禁句なのだ。こんなに親切な王子に隠し事をしている罪悪感が、エラの胸を締め付けた。


 話してしまおうか。だって嘘をつくよりもずっと、真実は尊いはずだもの。

 エラは少しだけ顔を上げる。すると偶然、王子の顔の向こうに教会が見えた。その教会は尖塔に鐘を掲げ、神を讃える十字架の文様が複雑に鐘に堀込まれていた。その文様はここからではよく見えなかったが、十字架に人が磔にされている様が描かれているはずだ。


 それを見た途端、エラは真実を話そうという気を失ってしまった。それを話したら、どうなるか。考えるだけで恐ろしい。


 魔女は悪しき存在だ。人心を惑わし、悪魔と取引をする。それがこの世界の常識だった。だから魔女は発見され次第、火炙りにされる。魔女と取引をした人間も同様だ。その習慣は魔女狩りとか、異端審問と呼ばれた。数年前に禁止されたらしいけれど、その恐怖は未だに国民の心に根付いている。


 エラは魔女のドレスを着て王子と出会った。もしもそれがばれたら、王子を魔法で誑かしたといって、火炙りにされる可能性は充分にあった。

 エラ自身、魔女のおばあさんに会ったときには、恐怖で足が竦んだのだ。でも不思議とエラには、あのおばあさんが悪い人には見えなかった。確信めいた何かが、信頼できると叫ぶのだ。

 しかしそれを、他の人たちに信じてもらうことは難しい。もし王子が信じてくれたとして、何になる? 重い秘密を王子に押し付けても意味はないのだ。


「……ごめんなさい」

 きっと王子は、エラが何かを隠していることなど気付いているのだろう。でも、それを追求することはなかった。エラは心底ほっとして、感謝した。きっと王子は、エラの様子を見て気を使ってくれたのだ。


「そんなことより」

 王子はパチンと手を合わせると、見せたいものがあると言った。

 この広場は、四つの庭園に分かれていて、それぞれが春夏秋冬に割り振られている。今は秋の庭か冬の庭が最も美しい。王子と待ち合わせたのはエラの家に一番近い春の庭だったから、花が咲いていなかったのだ。


「さあ、ほら。こっちだよ」

 王子はエラの手を引くと、秋の庭に連れて行った。春の庭の寒々しい雰囲気から一転、鮮やかな紅色が目に飛び込んできた。

「わあ、きれい」

 エラはつい、声に出して賞賛していた。


 秋の庭園を囲う木々は全て赤か黄に色付き、見る者の心を楽しませている。風が吹くと枝葉が揺れて、その色合いに変化を生じさせた。庭の中心には小さな湖があり、反転した紅が湖面に揺れている。湖の中心には浮島があり、琵琶や寒椿、柊の花が咲き乱れる。


 春の庭にはまったく人気がなかったが、ここにはちらほらと人影が見える。王子に気付いた何人かが頭を下げた。

「ここはね、国が管理している広場なんだ。国民のために作ったんだけど、作った場所のせいで、ほとんど貴族しか寄り付かなくなっちゃったんだよ。せっかくなら誰でも気軽に来れる場所にするべきだったのに」


 たしかに、エラのような人間はそもそも貴族街には近寄らない。

「でも、もしも下町に広場をお作りになるのでしたら、きっとバザーが開けるような、大きな広場が喜ばれると思います」


 この広場が美しいのは、緻密に計算された植物の配置のおかげだ。しかし下町で喜ばれるのは、繊細な美しさよりも実用的な機能だ。

「そうか、何事も適材適所なんだな。

 ……おいで、エラ。こっちも案内するよ」


 王子は楽しそうにエラを連れ回しては、あちこちにある草花について説明する。どの話もエラの知らない事ばかりで、とても面白かった。


「エラは、花が好き?」

「ええ、好きです。花も木も、それに鳥や虫も。

 私、植物にはそこそこ詳しいつもりだったのですけれど、まだまだ知らないことが多いのですね。驚きました」

 しゅんとして肩を落とすエラに、王子は笑って「これから覚えていけばいいよ」と言った。


 そのあとエラは、日が傾くまで王子と広場にいた。草花のこと、国のこと、王子の子どもの頃のこと、エラの生活のこと、話は絶えなかった。


「へえ、お父上は薬剤師をなさっていたのか」

「そうです。なので、薬になるような珍かな植物なら、少し知っています」

 王子は植物が好きなのか、これには興味を示した。エラは少し照れながら、知っている薬効のある植物について話した。


「そうですね、例えば……、コノハミという高山に生息する草は、湿らせると布のように柔らかくなります。さらに鎮痛剤としての効果もありますから、打撲傷に貼るといいです。あとは、アカヒメノという高温を好む花は、多量に用いると幻覚効果があって毒ですが、少量では麻酔に使用されます。最近見つかったばかりの例では、砂漠に生えるサボテンの一種から取れる蜜が、蕁麻疹に効果があるとわかりました。でもこれはまだ副作用も不明なので、一般での扱いは禁止されています」


 流れるように説明するエラを見て、王子は目を丸くした。

「……驚いた。本当に詳しいんだね」

「私もいつか、父のような薬剤師になりたいんです。だから、今から頑張らないと」

「すごいね。今から目標があるなんて」

「王子様だって、立派な王様になるために、今から努力なさっているのでしょう?」

「そうだね。……僕は立派に国を治めなきゃいけない」


 王子は少し言葉に詰まった様子だった。国王という役職は、きっと王子にとって輝かしいばかりのものではないのだ。当然だ。国民の命が国王の両肩に乗るのだから。


 エラは失言を恥じた。今この時間は、王子に役目を忘れて楽しんでもらいたいのに。エラは慌てて話題を変えた。王子はなんら気にした様子もなく、エラの話に乗ってくる。エラは胸中でそっと胸をなでおろした。


 あっという間に夕刻になり、冷え込みが強くなってきた。エラは王子と別れ、家路に向かう。

「またね、エラ」

 王子はそう言ってお城へと帰っていく。エラは深々と頭を下げて、王子が見えなくなるまでずっとその姿を見つめていた。

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