永い夢の終わり(憶)

 赤い空の下、横殴りの雨が僕とコハルを叩いている。この風雨では無謀とも言える自転車の上、後ろでコハルは飛ばされないように僕の腰をきつく抱きしめていた。背中に触れる温もりが、疲れ切った僕を動かすエンジンになる。


 橋を渡り切れば町の外に逃げられる、はずだった。家から自転車にまたがって、コハルを後ろに乗せながら思い描いた逃走ルートは、死神に対してはいささか安直過ぎたらしい。

 町はずれの川にたどり着いた時には、すでに大雨で膨れ上がった濁流が外界へ繋がる大橋を飲み込んでしまっていた。

 おまけに溢れた水はあっという間にかさを増して、休む間もなく僕ら二人を追い立てくる。


 僕らはUターンを余儀なくされて、死が満ち溢れる町の中心部に戻ってきてしまった。外へ出口はもう一つ、この道を端から端まで走りきって反対側から出るしかない。


「いくよ、コハル」

「うん」


 僕とコハルの腹はとうに決まっていた。それがどれだけ恐ろしいことであっても、残された手はそれしかなかったから。


「絶対に守るからな」


 そう言ってペダルをこぐ脚に力を込める。コハルの腕にも力がこもる。

 風は最悪の向かい風。それも二人乗り。地面は水浸しで所々に首なしの死体が転がっている。そんな悪条件の中を僕は必死でペダルをこぎ続けた。脚はとっくにパンパンに腫れて感覚すらおぼつかない。だけど、ここで諦めるなんて選択肢は頭の中に浮かびすらしなかった。


 突然、塀の影からぬらりと黒い化け物が姿を見せる。僕に向かって腕が伸びてくる。長いリーチをなんとか避けて走り抜ける。音を聞きつけてか、また一体、また一体、どんどん腕が増えてくる。

 もう無我夢中だった。奴らのかぎ爪が肩をかすめるのも無視して、ただひたすら前に突き進んだ。コハルもずっと目をつぶってしがみついている。

 やがて町はずれの標識が見えてきた。ここを抜ければ助かる、はずだった。


 通り抜けようとした木造住宅の壁がいきなり木端微塵に飛び散って、黒い触手が煙のように立ち昇った。長さは道の幅をゆうに超えている。

 それが真横に振るわれた。


 まずい。

 避けなきゃ。

 守らなきゃ。


 一瞬で頭がパンクした。だけど身体は全く言うことを聞かなくて、それをどうにかする手段なんて何一つ持ち合わせていなかった。

 瞬く間に凄まじい衝撃が襲いきて、僕らは宙を舞った。浮いている間、折れ曲がった自転車とコハルのポニーテールが視界に入りこむ。それに伸ばした手は最後まで届かず、僕は泥だらけの地面に真っ逆さまに墜落していった。




 ……雨の夜だ。バツバツと雨粒が地面を叩く音を耳が間近に拾っている。

 気付けば僕は仰向けに寝転んでいた。背中には泥状にふやけた大地をびたりと感じる。大粒の雨が容赦なく僕を打ち付けていた。


 今、僕は何をしていたんだったか。

 すぐに我に返って、コハルと逃げていたことを思い出す。


「うっ……」


 動かそうとした身体が泥のように重い。あばら骨が何本か折れているのかもしれなかった。

 腕で目を庇いながら両まぶたを開けていくと、視界がうっすらと赤みを帯びてくる。なんとか首を左右に動かすと、辺りには白い大地が広がっているのが見えた。でこぼこの丘陵、生い茂る雑木林、崩れそうな古い木造住宅が、かろうじて輪郭を残して灰のような白に沈んでいる。


「コハル……」


 そこに彼女を見つけた。僕と同じように地面に身体を横たえて泥にまみれている。目はかろうじてこちらを向くも、意識は朦朧もうろうとしているようだった。


 びちゃり……。


 音がした。唐突に。雨音じゃない。もっと重い何か。

 いやに生々しく聞こえたそれは方向感を欠いて、かなり遠くのようにも、すぐ近くのようにも感じた。


 びちゃり……。


 まただ。今度は不気味なくらいはっきりと聞こえた。その音でとうとう僕は見つけ出す。

 触手だ。何本もの黒い触手がウネウネと蠢きながら泥の上を進んでいた。そしてその根元に小さな人の姿をとらえ、思わず息をんだ。


「ガク……」


 カズハの弟。すでに全身が人間ではない何かへと変わり果てていたが、あの面影はガクに間違いない。

 声に反応してか、その黒い顔がこちらに向いてニコリとあどけない笑顔を見せた。意図もわからず、嫌な予感だけが急速に膨らんでいく。


 また、びちゃり、と足音を立ててガクが一歩コハルに近づいた。触手がジュルジュルと地面の上を伸びていってコハルの身体を這いまわる。


「ユウ兄チャントカズハ姉チャン、三人デ新シイ家族」


 やめろ。

 やめろ。

 やめろって。

 ガク。

 お願いだ。


「ソレ以外ハ、ミンナイラナイ」


 触手の先端が開いて牙を剥いた。コハルの頭に狙いを定めている。


 身体は頑として動かない。どうやったって間に合わない。

 もう叫ぶしかなかった。仮に無意味だとしても。叫ぶ以外に何ができるっていうんだ。

 僕は身体に残った力をかき集め、この光景を塗り替えんばかりに肺の底から解き放っていた。


「やめろぉおおおおおおおおおおっ!!」







 ……そこで目が覚めた。

 身体は汗がじっとりと滲み、心臓がバクバクと暴れている。


「う……あ、ああ……ああああ」


 嗚咽おせつが口から漏れて止まらなかった。涙がボロボロとこぼれてくる。

 今見た夢を反芻はんすうしようとして、何かが必死にそれを食い止めていた。僕だ。僕自身が必死にそれを押しとどめる。こんなのは受け止められないから。

 頭が痛い。割れそうなほどに。


 不意に倒れたままの身体がゆらゆらと揺れた。また貧血だろうか。でもすぐにそれが僕を乗せた迷彩色のゴムボートのせいだと把握する。頭をもたげると黄土色の水面がどこまでも広がっていて、その上に僕は浮かんでいた。


 雨は止んでいる。あれだけ吹きすさんでいた風も今は嘘みたいにいでいた。

 不思議に思って上空を見上げると、僕の上だけぽっかりと円形に雲がなくなって、白い筒状の壁ができている。これは……台風の目か。珍しいこともあるもんだ。筒の先には早朝の薄い青が広がって、まるで天に召されるための道ができているようだった。


 思わず、僕はまだ生きているよな、と手を胸に当てて確かめそうになった。いや、手錠がなければ実際そうしていただろう。

 その透き通るような青はどこまでも残酷で、僕の心の中のもやまでも晴らしてしまいそうだった。


 どうしてもその青を直視できなくて遠くを見渡すと、水面の彼方に大きな四角い建物があって、黒い煙をもくもくと上げているのが見えた。


「カズハっ……」


 さっきまでいたはずの場所が、あんなに遠くに。


「コハルぅ……」


 また大粒の涙があふれてくる。

 何も考えられないまま、僕は背中をボートに横たえた。


 そこで背中に何かが当たった。振り返って見ると、細長い端末がボートの上に転がっている。日野ひの刑事の録音機器ボイスレコーダ。なんでこんなものが……。

 日野刑事の最後の姿を思い返す。床に転がったこれを拾えたのは一人しかいない。


「カズハ、カズハっ!」


 うわ言のように繰り返し、手錠をガチャガチャと鳴らしながら背中越しにボタンを試していった。幾度かの失敗を経て、小さなスピーカーからゴワゴワと太い声で事件の記録が読み上げられていく。


 ――六月十六日、一一○○イチイチマルマル……聴取開始。


 やはりこれは日野刑事の記録であるらしい。

 メニューを送っていくと病院でのやりとりや、名取なとりの死後の聴取の様子などが流れてきた。さらにボタンで先を急ぐと、瀧川たきがわの自宅を捜索する様子も記録されているようだった。

 それが気にならないでもなかったけれど、次の記録へ先を急ぐと、


 ――ユウ。


 待ち望んでいた通り、カズハの声が記録されていた。

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