永い夢の終わり(鏖)

 まさに地獄だ。つい先ほども三階で同じことを思ったはずが、今の状況と比べればぬるま湯も同然だった。




 オオオオオオオオオオオオ――――――




 僕らを囲む壁となっていた化け物どもが怒涛のようになだれ込んで、その人智を越えた力に対して僕らはあまりにも無力だった。皆が瞬く間に解体されていく。血が噴き出し、四肢はちぎれ、はらわたはこぼれ落ち、バラバラの骨と肉塊だけが水の底に沈んでいく。かろうじて抜け出して出口までたどり着いた人も、自らが築いたバリケードに阻まれて、背後から串刺しにされ死んでいった。


 逃げなきゃ、と立ち上がった僕を立ち眩みが襲う。さすがに血を流し過ぎていた。


「お前、生きてるのか」


 ダイチがそんなことを言って、僕の肩を支えた。目が驚きに見開かれている。

 だけど今は説明している暇などなかった。


「ユウ! みんな、私の後ろに!」


 カズハが僕らの前に躍り出た。今、唯一の希望が彼女だ。黒化した右腕を振り回して応戦する。

 一対一なら互角以上だった。立ち回りの鋭さはすでに人間の動きを遥かに超えて、目にもとまらぬ黒い殴打で奴らの頭を一つ、二つ、三つと吹き飛ばしていく。


「嬢ちゃん……」


 日野ひの刑事が自らの危機的な状況も忘れて感嘆の声を漏らした。

 ダイチと瀬尾せおさんも固唾を飲んでその背中を見守っている。


 しかし気づけば僕ら以外全員が死に絶えて、必然的に数十を超える化け物の意識が僕らに集まり始めた。多勢に無勢は明らかだ。

 黒い大きな身体の連なり、その中でも頭一つ飛び出た油屋あぶらやの巨体がカズハの前にそびえ立つ。それだけでもうカズハの華奢な身体が押し潰されてしまいそうだった。

 無数のかぎ爪の連撃が彼女に襲い掛かって、僕の鼻っ柱まで血が飛び散った。左肩が大きく裂けている。それでもなんとかカズハは踏みとどまると、


「二階へ!」


 その指示でダイチが僕の腕を引いて走りだした。続いて瀬尾さんが、日野刑事が、飛び込むようにエスカレーターを駆け上っていく。カズハがしんがりとなって化け物の侵攻をなんとか一対一に持ち込もうとした。


「ふふ、頑張るわね。でも上も注意しないとダメよ」


 薄暗い前方、瀧川たきがわがいつの間にか二階にまわって左腕の触手を構えていた。


「伏せろおおおおおおおおっ!!」


 日野刑事が叫んだ。視力に劣る瀬尾さんの反応がわずかに遅れた。


「あ――」


 満足に悲鳴をあげることもできないまま、瀬尾さんの細い身体が垂直に跳びあがって、まるで道端にゴミでも捨てるかのように放り投げられた。すでに首から上はなく、文字通り血の雨が僕らの上に降り注ぐ。


「先生ええええ!!」


 ダイチが叫んだが、それだけだ。大切な人なのは言うまでもない。だけど、もはや僕らに周りを気遣う余裕なんかこれっぽっちもなかった。


「この悪魔っ!!」


 カズハが僕らの上から瀧川に飛び掛かって、なんとか二階への道を切り開く。

 瀧川は薄ら笑いを浮かべながら、軽やかなステップで退いていった。が、


「ぐああああっ!」


 振り返ると、最後尾になった日野刑事のどてっぱらに黒い腕が深々と突き刺さっていた。すぐにおびただしい量の血液が前後の傷口からこぼれ始める。背後からは奴らが猛然と押し寄せていた。挟み込まれるだけでカズハ一人の守りは簡単に瓦解してしまう。一人一人、死神のルーレットに選ばれた順から脱落していくほかないのだ。

 次は自分だ。僕とダイチはただ目を見合わせて、言外にその予感を共有し合うことしかできずにいた。

 ……もう一人の登場が、この状況を一変させるまでは。




「アアアァー……」




 どこかで聞いた声がした。気の抜けたその声は一瞬何かの聞き間違いかと思ったほどにこの地獄には場違いで、奴らの低いうなり声をくぐり抜けて僕の鼓膜に優しく触れた。


「コハル……!」


 二階のフロアに沈殿する暗闇に小さな影がゆらりと揺れる。

 裏を取られた格好となって表情を引き締めた瀧川が、その振り向きざま、


 ドウッ――


 車が突っ込んだような音がして吹き抜けの下まで吹っ飛んでいった。


「アァー」


 おぼろげな輪郭が一階からの炎で照らしだされる。あるいは幽霊のようだ。油屋との闘いでできた傷だろうか。着ている制服は袖がなくなり肩までがあらわになって、幾つもの裂傷から黒い血が指先まで流れ出ていた。足の運びだって前より数段おぼつかない。


 それでもコハルはたった一度の跳躍で、カズハはおろかエスカレーターにいる僕らまでもを飛び越えて、日野刑事を襲う化け物に飛び掛かっていった。


「おじさん、しっかり! たちばな、手を貸せ」


 その隙にかぎ爪を引き抜いた日野刑事の手をダイチが掴んで、無理矢理二階へ引っ張りあげていく。カズハがもう片方を掴んで柱の裏まで引きずっていった。太い身体が筆と化して、タイル敷きの床にべったりと赤い道が残る。


「六月十八日、時刻不明、深夜……」


 日野刑事が胸ポケットから細長い端末を取り出して、


「くそ、コイツもおじゃんか……」


 そう言ってカランと床に打ち捨てた。

 追いかけるようにどろどろと真っ赤な血が広がっていく。


「俺はもう駄目だ。……お前ら、俺は置いていけ」

「おじさん……」


 広がる血も構わず、ダイチが膝をついて寄り添った。


「こんな時だけど……いや、こんな時だからこそ謝りたいんです。もう知ってるんでしょう。アヤコが首刈り魔じゃないかって警察に話したのは、俺です。俺が周りに相談しちゃったんです。それで噂が広まってアヤコは……自殺を……。でも実際はそうじゃなかった。俺がアヤコを殺したようなもんです。俺……本当に、取り返しのつかないことを……」

「げはっ、げはっ……」


 そこで日野刑事が盛大に血を吐いた。笑おうとしたのか、それでも口角は笑顔を成している。


「人の心には悪魔が住んでやがるんだ。誰一人例外なく、な。それが人を悪魔に見せるんだ。しょうがねえよ」

「……え?」

「だけど警察を舐めんじゃねえ。娘が首刈り魔じゃないなんて、そんなのとうに知れてるこった。ああ、だが、あのガキが犯人だとはわからなかった。……くそっ、トチったな。捜査から外されたってのに、そこの嬢ちゃんに乗せられて、結局自分を止められなんだ。そしたらこのザマ。笑えねぇよ」


 そう言って口からまた血がこぼれ出る。

 ダイチが迷いなく立ち上がって僕らを見た。


「橘、緑川みどりかわ……お前らだけでも先、行け」


 その言葉に僕は何も言い返せなかった。

 なんとなく理解できてしまったから。本当にダイチがやりたかったのは贖罪しょくざいなのだと。もう守ることのできないアヤコの代わりに、僕を守り続けてきたのだと。そして今その父が危機に瀕しているとなれば、それは自明の選択だった。


 カズハが小さく頷いた。僕の腕を引いて走り始める。

 僕はいつものように振り返ろうとして、ダイチの叫びがそれを押しとどめた。


「緑川、前だけを見ろ、振り返るんじゃねえ! 生き残れよ、お前は生き残らなきゃ駄目だ! コハルちゃんも戻ってきてくれたじゃねえか! 橘もいる! 生き残れ! そしたら俺も胸を張れるんだ! 今度はちゃんと守ったって、笑顔であいつに誇れるんだ!!」


 カズハは僕を連れてさらに上、エスカレーターで三階に向かった。下ではコハルが孤軍奮闘していたが、僕らの足音が響いて化け物が何匹か漏れ出てきた。あれでは二階はもう……。


「逃 ガ サ ナ ァ イ」


 さらに薄暗い三階で再び瀧川が襲い掛かってきた。

 わずかの間に容姿はさらにおぞましく変化している。美しかったあのストレートの黒髪が幾つもの束に分かれて、その一つ一つが意思をもった蛇のように蠢いていた。ギリシャ神話の怪物メデューサのような姿を前に、僕の身体もほとんど凍り付いてしまっていた。

 左腕の触手による初手はカズハが右腕ではじくも、髪の触手の追撃がカズハの身体を貫いていく。


「カズハっ!」


 しかし僕の叫びとほぼ同時に、後ろからコハルが飛び掛かって瀧川の触手を二、三本引きちぎっていった。


「毎度毎度、邪魔シテクレルワネ」


 恨み言を噛み潰すように漏らしながら、今度はコハルを触手が襲う。

 その隙に、


「ユウ! こっち!」


 ほとんど真っ暗な中で、カズハが血をまき散らしながら三階を走っていくのをかろうじて目で追うことができた。一つの店舗に飛び込んでいく。あれは鉄板焼きの店じゃなかったか。

 その後を辿りながら、カズハがどうしてこの暗闇で僕の腕を手放したのか、違和感を覚えていた。いや、そもそもどうして三階なのか。単に窓から逃げるなら二階のほうがずっといい。


 店の中に入りこむと奥の窓に赤い空が広がっていた。それがカズハの黒いシルエットを切り出して、他は真っ暗で何も見ることができなかった。いや、それゆえに闇の中で、


 シュー……。


 と空気が漏れるような音を耳が拾った。追いすがる化け物の叫び声の中でもその音は力強く、勢いを失わない。

 続けざま、鼻腔に独特の臭気を感じた。一瞬だけ意識が朦朧もうろうとしかけて気を保ちながら、ようやくカズハの狙いを悟った。

 ガスだ。確かに今の彼女なら、プロパンのボンベに傷をつけるくらいたやすいだろう。でも、それじゃ……。


 僕の足首に何かが巻き付いた。それで僕はバランスを崩して、床に思い切り身体を打ち付ける。


「捕 マ エ タ」


 瀧川だ。彼女も執念深く追いかけてくる。化け物も大勢がすぐそばに迫っているようだった。すぐさま組み争う音がして、「アァー」という声と共に足の触手が解かれる。

 僕は窓まで這い進みながら叫んだ。


「カズハ、駄目だ。このままじゃコハルが!」


 瀧川に追いつかれた以上、押さえこんでおくにはコハルが不可欠だ。このままじゃコハルも巻き込むことになる。


「ごめん、ユウ。でももうこれしかないの」


 赤い空を背に、カズハの表情は黒く塗りつぶされている。


「だめだ。カズハ、やめてくれ。僕はコハルを守るって決めたのに……」

「ねえ、落ち着いて聞いて、ユウ」


 カズハが、まるで子供にそうするように、ゆっくりと僕に言い聞かせた。




「コハルはもう死んじゃったの。生きてはいないのよ」




 コハルが………………死んだ?

 その言葉が矢となって僕の胸に鋭く突き刺さったような気がした。吐き気が止まらない。これはきっとガスのせいだけじゃない。


「嘘だ!! コハルが死ぬわけない。だって……」


 反論しようとして、すでにしかばねのような姿をしていたのは、そういうことだったのかもしれないと思い至る。ある意味では当たり前の可能性。でも僕はそれを考えなかった。考えたくなかったから。


 カズハは何も言わない。沈黙がさらに僕を締め上げる。


「……いつだよ。それはいつの話だ。油屋が死んだ時か、それとも名取の時か。いやそれとも踏切で――」

「ううん、違う」


 涙ながらに、カズハが否定した。


「もっと、前よ」


 右腕が動いて何かが空中に放たれた。ナイフだ。すべてがスローモーションの中にある。

 それが僕の上を通り過ぎ、席に備え付けられた鉄板に刃をぶつけて小さな火花を散らした。それを始点にガスが炎をまとって瀧川を、コハルを、化け物の群れを、僕ら全てをゆっくりと飲み込んでいく。

 僕の意識が吹き飛ばされるまでの永遠のような刹那せつなの間、コハルが笑顔のまま僕を見つめていた。その顔は橙色の光に照らされて、本当の太陽のようにまぶしく輝いていた。

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