永い夢の終わり(喰)

「ゲホっ……ゲホっ……」


 世界が歪むと同時に身体の感覚が一気に戻って、口から血と汚水が混ざったものをひとしきり吐き出した。口の中にザラザラとした感触が残って、それで思い出す。夜の校舎で飲んだ血の味を。世界が切り替わったことで、あの力が再び僕を動かしているようだった。気付けば腹の傷がほとんどふさがりかけている。




 オオオオオオオオオオオオ――――――




 あの重低音が突如として響き渡る。モールの高い天井に反響して圧を増したその音は、浸水の水面をビリビリと震わせ、僕らの鼓膜を押し潰さんとする。

 たまらず頭をもたげて周囲を見回すと、僕らは黒い化け物にすっかり取り囲まれていた。

 カズハはうつ伏せのまま起き上がらない。まさか……死……?


「な、なんじゃこりゃあ……」


 初めてこの世界に取り込まれたのだろうか、日野ひの刑事が驚愕に打ち震える。


「最悪だ……。最悪のタイミングだ……」


 加賀美かがみ刑事は拳銃を両手で握りしめたまま、ガクガクとそれを震わせていた。そのリボルバーで戦うにも弾不足なのは言うまでもない。

 誰もが皆同じように死の恐怖におびえ、ほとんど錯乱状態になっていた。泣き叫ぶ人もいれば、こらえきれず嘔吐している人もいる。


「あーあ、もうバレちゃったのね」


 その中で一人だけが奇妙に落ち着きを払い、落胆していた。


「もう少しバレずに楽しめるかなと思っていたのだけど。なかなか上手くいかないわね」


 瀧川たきがわだ。カズハに切られたはずの首筋には黒いジェル状の組織が集まって、ジュルジュルとうごめきながら傷を塞いでいる。その醜悪な治癒の経過を見せびらかしながら、彼女は自慢のロングヘアをさらりとかき上げて、チロリと唇に舌を這わせた。


「な……え……?」


 その姿を何度も確認しながら、加賀美刑事はそれでも目の前のことが信じられないでいるようだった。


「加賀美、そいつが犯人ホシだ。押さえろ!」

「し、しかし……」


 加賀美刑事はたじろいだ。撃つこともできただろうが、撃たなかった。認めたくなかったのか。今まで銃口を向けた全てが間違いだったということを。あれだけ引き金とたわむれておきながら、一番肝心なところで二の足を踏むだなんて。


 瀧川が左の袖をまくっていた。白い腕が見るもおぞましい変化を遂げる。表面をまた黒いジェルが覆ったと思いきや、それが細胞分裂の高速再生のように自己増殖を繰り返して、元の三倍くらいにまでに膨れ上がった。

 あの触手だ。左肩から先が黒い大蛇に生まれ変わったかのように自由自在に動いて、その先端が牙を剥き出しにする。


「ひあああああああっ!!」


 情けない声を上げてようやく加賀美刑事が、パァンパァン、とニ発の弾丸を立て続けに撃ち込んだ。だけどそれは触手から数滴の流血を引き起こしただけで、運命は何一つ変えられなかった。カチ、カチ、と撃鉄だけが虚しく動く。弾切れだ。


「刑事さん、あなた、なかなかだったわ」

「――ああああぁ、あっ、ギ、ゴ……」


 一瞬だった。大蛇が真上から加賀美刑事の頭に喰いついて、黒スーツの身体が重力を失ったように宙に浮く。せめてジタバタとその腕と脚は暴れようとしたのだろうが、それも許さないとばかりに躊躇なく触手は彼の頭を喰いちぎった。あわれ、司令部をもがれた身体が真っ赤な水面にちて水飛沫をあげる。


 まさか、瀧川が……すべての元凶? いや、まさかもクソもない。彼女は今それを衆目の中で、これ以上ない形で実演してみせたのだ。


 触手の先端が、いかにも不味そうに喰った頭部を吐き捨てた。床に張った赤い水に落ちるや否や、そこから黒い身体が発芽する。


「ひっ……」


 瀬尾せおさんが恐怖に声を詰まらせた。これを初めて見る人には生理的な嫌悪感しかないだろう。


「あははははっ」


 それをさげすむように瀧川は笑っていた。

 あたりでは幾多もの悲鳴が渦を巻いている。でも化け物に囲まれて逃げることもできない。阿鼻叫喚の図。混乱と絶望。誰もが自身の死の運命に打ちひしがれて一歩も動き出せずにいた。

 その時ナイフを振りかざした、ただ一人を除いて。


「ふっ!」


 銃で撃たれたはずのカズハだった。

 その大笑いの隙を待っていたかのように水面から勢いよく起き上がって、コンパクトな構えからナイフを突き出した。

 それが額に届こうかという瞬間、


「ふふっ」


 瀧川は不敵に笑っていた。

 触手が鞭のようにしなって、バシィ、と音をたててカズハの身体を弾き飛ばす。華奢な身体が二階まで届きそうなくらいに跳びあがって、僕の目の前に落ちた。


 背中から着水した彼女はすぐに上体を起こす。しかし腕が、ナイフを持った右腕が、関節が三つくらい増えたみたいにグチャグチャに折れ曲がっていた。


「はっ」


 だけどカズハも笑っていた。こんな状況で? 小さな口からは一筋の血がドロリと流れ落ちてくる。

 次の瞬間、瀧川と同じような黒いジェルがカズハの右腕を黒く塗り上げ、ガリ、ゴリ、と骨が削れる音と共に無理矢理に本来の形に修復していく。


「ぐう……」


 右腕を激痛が満たしているのだろうか。カズハの表情が歪む。

 隣で僕は何が起きているのかさっぱりわからなかった。他の皆もそうだろう。

 だけど瀧川だけは、


「ふふふ、そういうことね。たちばなさん、よくやるわ」


 さもありなん、という面持ちで頷いていた。


「あなた、私の触手コレ、食べたのね」

「……ドブみたいな最悪の味だったわ」


 カズハが吐き捨てるように応じた。

 そうか。モミジが喰われた時、カズハは触手をナイフで何度も……。


 ――この世界で、食べるという行為は特別な意味を持つみたい。


 なんて、無茶を……。


「あははははっ、いいわ、あなた、面白い」


 瀧川はまだ人間らしい右腕と、黒い触手の両方で身もだえるように自身を抱いた。そのグロテスクな螺旋は悪魔崇拝サタニズムの不気味さだ。

 そしてカズハに問いかける。


「ねえ、どうして私だってわかったのかしら」


 カズハはしばらく無言だったけれど、やがて口元をぐいと拭って、


「この事件は……アヤコの死に対する復讐」


 そう冷静に語り始めた。


「必然的に候補はその周辺に絞られる。その中で、踏切に供えられていたスミレの造花……あれがずっと引っかかっていた。最初の犠牲者、望月もちづき先生への献花だと筋が通らなかったのだけど、一年前のアヤコに対する手向けの花だと考えればストーリーが浮かび上がってくる」


 瀧川は笑顔のままだ。

 カズハは続けた。


「あの造花はアヤコからのプレゼント。それを彼女に返したのね。あの日、あなたは踏切にいた。そして近くにユウが通りかかった」


 カズハがちらりと僕に一瞥いちべつをくれる。


「そこであなたは悪魔の力を手に入れた。復讐心を燃やして、ユウが連れてきた悪魔に見初められて……。そうアタリをつけると、あなたには怪しいところがあった。例えば警察署であなたに会った時、普段つけない香水に死の匂いを嗅いだ気がした。だからそこの刑事さんにあなたの家を調べてもらうようお願いしたの」


 日野ひの刑事が言葉を継いだ。


「最初は半信半疑だったがな、お前さんの家から二つの死体が見つかったよ。頭部のないお前の両親だ。死後二日は経っていた」

「タキ……嘘だろ……」


 ダイチが、信じられない、と声を漏らす。

 瀧川はまだ笑顔のままだった。左頬から黒い組織がじわりじわりと浸蝕し始めている。なのにどうして彼女はあんな綺麗な顔ができるんだろうか。僕にはその心の中が全く見えなかった。


「……首刈り魔もあなたの仕業ね」


 カズハがさらに切り込む。


「ふとしたきっかけでそれがアヤコに知られてしまった。だけど、アヤコはあなたに憧れていたからそれを隠した。そして幾つかの掛け違いで自殺してしまった。そんな彼女にあなたは親近感シンパシーを感じて――」

「六十点……というところかしら」


 そこでようやく瀧川が口を開いた。


「ふふ、幾つかは正解よ。首刈り魔は私だし、あの造花はアヤコからもらったもの。だけど肝心のところが間違ってるわ。殺したのは復讐じゃない。アヤコが生きようと死のうと、そんなの私には大したことじゃないわ」


 復讐じゃない? それならどうして――


「それにしても思ったよりも推論ばかりじゃない。よくそれで私に切りかかってきたものね。その刑事も詳細を話していなかった。間違えてたら大変よ?」

「確かに……百パーセントの確証があったわけじゃない。でも、あなただって推論でハヤト、ユウに手をかけた。……お返しよ」

「あははははっ!」


 また瀧川が我慢できずに破顔した。


「やっぱりいいわね、あなた。殺すにはもったいない」


 そう言いながらウネウネと触手を身体からほどき、


「んん、でも駄目、駄目ね。特別扱いはできないわ。もうタネも明かされたことだし、そろそろお開きにしましょうか。恐怖劇グランギニョール終幕フィナーレは盛大に――」


 右手を掲げて、パチンと軽快に指を鳴らす。




「皆殺しよ」




 軽やかな、なんのためらいも罪の意識も感じさせない澄んだ声で、瀧川はそう宣言した。

 この合図を待ちかねたとばかりに化け物どもが盛大に雄叫びをあげる。

 大虐殺の始まりだった。

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