永い夢の終わり(命)

 白――


 気付けば辺り一面の白色の中に僕はいた。いや、この表現は正確じゃない。辺り一面の白があって、僕がいない。

 我思う、ゆえに我あり、というのは誰の言葉だったか。今は僕の意識だけがあって、それ以外は何もない。腹の激痛も、鼻のむず痒さも、手錠をはめられたもどかしさも、脳天から指先まで全ての感覚が消え去って、僕自身の存在感はこれ以上なく希釈きしゃくされていた。


 ――ユウ!


 誰かが僕の名を呼んでいる。たぶんカズハなんだろう。だけど彼女特有の音色というべきか、凛とした個性はそぎ落とされていて、それは壊れかけのスピーカーから聞こえてくるみたいに雑音ノイズ混じりで、遠く、小さかった。上から聞こえているのか、下からなのかもよくわからない。

 五感の内、死に際に最後まで残るのは聴覚だという。だからやはり僕は死にかけているのかもしれないし、あるいはもう死んだ後で現世の残響だけを遠くに感じ取っているのかもしれない。


 要するに、全ては現実だったのだ。赤い雨が降るとか、人の頭が喰われて化け物が産み出されるとか、ショッピングモールで人々が殺し合うとか、現実離れした出来事ばかりが続いたとしても、結局それが起こらない可能性はどこまでいってもゼロじゃないのだ。カンダタは一人で助かろうとして地獄へちた。僕も一人だけ夢の世界へ逃げ込めるほど甘くはなかったというわけだ。


 ――見ろ、世界が元に戻った。化け物もいない。助かったぞ。


 加賀美かがみ刑事だろうか。その声に続いて幾重もの歓声が沸き上がる。


 ――君の言った通りだったな。

 ――ふふ、そうですね。皆が助かってよかったわ。


 これは瀧川たきがわか。こんな優等生な言葉は本当の彼女には似合わない。


 ――しかし、元の世界に戻っても一階が水に浸かったままとはね。やはり浸水が起きていたのか。……そこの君達、あんまり離れないで。電話で応援と救助を呼びますから。この水じゃ外に出ないほうがいいでしょう。


 加賀美刑事は、やはり刑事らしく、テキパキと残った面々をまとめ上げているようだ。状況が人を大きく変えるということなのだろう。狂人の言動はすっかり影をひそめて、今はまさに頼れる主人公だ。さながら映画のエンディングで、この事件は終わりを迎えたのだという空気が蔓延し始めている。


 ――たちばな、信じたくないのもわかるけど、やっぱりそういうことだったんじゃないか。

 ――カズハちゃん、残念だけど、ユウ君はもう……。


 ダイチと瀬尾せおさんが慰めの声をかける。もうこれで終わりだと。

 しかしカズハだけが、


 ――そんなはずない。絶対。……ねえユウ、聞こえてる? 私、あなたに謝らなければいけないことがあるの。それをあなたに伝えたい、伝えなきゃいけない。だから……目を覚まして。


 懇願にも近い呼びかけだった。

 思えばカズハがこんなふうに想いを吐露するのは、これが初めてかもしれない。普段はそっけない態度で決して本心を明かさない。だけどずっと僕のそばに居て、僕が傷つくことを他の何よりも恐れるような反応を見せていた。僕の守護者になっていたのだ。時に、自他を傷つけることさえいとわない覚悟で。


 それが恋心のような甘酸っぱさからくる行動でないことは、何となくわかっていた。むしろ重い鎖にがんじがらめにされた印象ですらあった。

 もしそれが自責のたぐいなら、僕に罰かゆるしを求めてのことだとしら、僕が死んだらカズハは……。


 だから、その呼びかけに応えたいと強く願った。でも、応えるすべはない。もはやまぶたの感覚はなく、声の出し方もわからない。

 世界はなるようにしかならないし、ならないようには絶対にならない。いつだって残酷だ。

 だけど、もしもちっぽけな奇跡があるのなら、それを願ってよいのなら……。


 ――だいじょうぶだよ。


 声が響いた。


 ――カズハちゃんを、もっと大事にしてあげて。


 コハルの声だった。


 ――ほら、ユウ君、なにやってるの。


 その言葉で、僕の中の何かにミクロの光がともる。微弱な電気信号が走り抜け、柔らかな細胞の歯車が緩やかに形を変えて、やがて大きなうねりとなって、


 ドクン――


 命の音がこだました。


「鼓動が……」


 カズハが呟いた。カズハの質感を伴って聞こえた。

 眼前の白一色に緩やかにピントが合い始め、それが明かりの戻ったこのモールの高い天井だと気づく。吹き抜けを通って最上階まで突き抜けそうだ。


 全身の感覚が戻ってくる。まだ腹部の激痛が全てで、口はピクリとも動かせない。だけど頭を包む温かい感触。カズハが浸水した床から僕の頭をすくい上げて、膝に乗せてくれていた。


「お前ら全員、ハヤトを殺したことを忘れんじゃねえぞ」

「おい君、この期に及んでまだ暴れようなんてしないでくれよ」


 加賀美刑事がダイチを牽制している。その他大勢が僕らを輪のようにとり囲んで、良からぬことを起こさないように監視していた。瀬尾せおさんが心配そうにダイチを見やる。


「タキ、お前も見損なったぜ。最低だよ」

「あら、どう思われようと結構。綺麗事だけじゃ生き残れないもの。……それにあなただって、口ではそう言いながら、内心助かって喜んでるんじゃないの? そういうのが一番卑怯なんじゃない?」

「んだと!?」

「おい、そこまでだ」


 加賀美刑事が拳銃を取り出してその場をいさめる。そうでなければすぐにでもダイチは瀧川に飛び掛かっていただろう。弛緩した空気が一変して、僕らの中に再び緊張が満ちていく。誰もが次の言葉をためらったその瞬間、




「誰か、いるか?」




 モールの入り口からバリケードをかき分けて、野性味のある野太い声が入り込んできた。

 誰もが声の聞こえた方に目をやって、皆の隙間から僕も少しだけ様子を伺うことができた。少し遅れて、ちょうど真正面に見える入り口から熊のような風貌が姿を現した。カズハがはっと息をむ。


 加賀美刑事が思わず呼びかけた。


日野ひの先輩……」


 もう一人の刑事さんだ。ボロボロのジャケットの上に雨合羽をまとい、ざぶざぶと長靴で水をかき分けながら歩み寄ってくる。そして道中で立ち止まった。


「加賀美、お前……、拳銃チャカなんて持ってどうした?」


 日野刑事はそう言って、血まみれの僕と加賀美刑事を交互に見た。

 はたから見たらこの光景がどう見えるのか、加賀美刑事は咄嗟に理解したのだろう。


「いや、ち、違うんですよ。赤い世界に引き込まれて、やはり彼が、緑川みどりかわの仕業だったんですよ。だからこれは正当な措置で――」

「ああ、わかった、落ち着け。詳しくは後で聞く。俺は何度も注意しただろ。お前は先入観にとらわれ過ぎるきらいがある、とな」

「……え?」

「ったく、ショッピングモールが火事だっつうから来てみたらこのザマだ。難儀なもんだな、全くよお」

「はあ……」


 加賀美刑事の間抜けな返事も意に介さず、熊男はさらに歩み寄って僕らの輪に加わった。そして僕を見た。いや、僕を看取るカズハを、か。


「そこの座り込んでる嬢ちゃん。橘とかいったか。……あんた、正しかったよ」


 そんな言葉が投げかけられた。どういう意味だ、と思う間もなく突然支えがなくなって、僕の頭の後ろ半分がざぶんと水の中に沈んだ。

 だけど同時に視界の端で捉えていた。カズハが瞬間的に立ち上がって、猫のように飛び掛かるのを。相手は加賀美刑事でもない。日野刑事でもない。もちろんダイチでも瀬尾さんでもない。


 瀧川たきがわ澄玲すみれだ。その端麗な顔から余裕が一瞬で消えた。

 彼女が何かを言おうとするよりも早く、カズハの右腕が内から外へ一直線に振り抜かれる。手にはナイフが握られていた。瀧川の首筋からバッと黒い血が飛び出していく。


 日野刑事が何かを叫んでいた。おそらく彼も意図しない展開だったのだろう。




 パァンっ!!




 ほぼ同時に加賀美刑事の手によって銃弾が放たれた。

 カズハの背中のど真ん中に小さな穴が開き、血が線になって噴き出して、彼女は水の中へ倒れこんでいった。


「タチバナァああああ!!」


 ダイチが叫んだ。ダイチだけじゃない。突然の狂乱に僕以外の皆が思い思いの言葉を叫んでいた。

 僕はその一員になれなかったことに激しい怒りを覚えて、ピクリとも動かない身体はミシミシと軋み鳴らすのだけど、同時に僕の中の何かが告げていた。

 舞台はまだ終わっていない、と。本当の恐怖劇はこれからなのだ。

 そしてその再演の幕を開けるかのように、




 ぐにゃり――




 視界に映る世界が全て、完膚なきまでに歪んでいった。

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