永い夢の終わり(狂)
「どうしたのかしら……」
「おいっ、やめろおお、やめてくれえええ!! 頼む!!」
……いや、違う。あれは神輿じゃない。もっと有機的で肉体的な命の塊、つまりハヤト自身だ。大勢が
異様な光景にぞわりと全身が総毛立った。
「聞け、あれはゾンビじゃねえ! 感染するもんじゃねえんだ!! おい、聞けよお!!」
ハヤトの涙ながらに訴える声があたりに響いた。手足でも縛られているのか、ただ必死にグネグネともがいている。まさに
「やめろ、嫌だ、嫌だ、嫌だああああああぁぁぁぁぁぁ………………」
叫び声が
僕ら四人の誰もが言葉を失っていた。集団が狂気におちいるとこうなるのだ、ということをまざまざと見せつけられた気がしていた。
「いけない。あの人達から離れた方がいい」
カズハがいち早く我に返ったけれど、
「……いや、もう遅かったみたいだぜ」
とダイチが自嘲気味に答えていた。
そう言われてなお、僕はこの暗さで事態を飲み込めていなかった。ようやく気付いた時には全てが遅く、四人全員が袋のネズミの状態にあった。狭い通路の両端が黒い影に囲まれている。化け物どもでもなく、
「取り押さえろ!」
その掛け声で僕らは一瞬で揉みくちゃにされ、ダイチもカズハも何もできぬまま、四人とも地面に押さえつけられてしまった。そして腕や肩を何人もの手でがっしりと鷲掴みにされたまま、吹き抜けの脇を通って反対側まで引きずられていった。
誰も何も言わない。押しつぶされたような沈黙だった。なんで皆がこんなことをするのか全く理解できないまま、次にハヤトみたいに地獄へ投げ落とされるのは僕かもしれないという想像ばかりが頭を駆け巡っていた。
「君達、よくやった」
引きずられていった先で、
「
一番端で床に押し付けられた
……撃たれたのだ。ハヤトを殺すことに最期まで抵抗したのだろうか。暗闇の中ここで何が起きていたのか、その一端を想像できそうな気がした。
「チクショウ、どうしてだよ。どうしてハヤトが殺されなきゃいけなかったんだ。委員長だって。なあ刑事さん、どうしてだよ!」
とうとうダイチが我慢できずに口を開いて、思うままに恨み言を並べ立てた。瀧川への睨みも忘れず、
「タキ、お前までどうしちゃったんだよ。なんでこんな状況なのにそんなに嬉しそうに笑ってられるんだ。おかしいって……」
「だって、しょうがないじゃない」
瀧川は何食わぬ顔で反論していた。
「このままだと私達みんな死んじゃうかもしれないもの。ハヤト君はダメよ。だってあんなに大きな傷をこしらえていたんだもの。……ねえ、刑事さん?」
「あ、ああ」
続く加賀美刑事の釈明は、どこか狂っていた。
「襲い来るあの黒い連中がゾンビのような、感染症の
今度は金久保の
「もっとも、そこの彼だけは最後まで反対していてね。私もなんとか理解してもらおうと努力したのだけど、激昂した挙句に銃を奪おうとしてきたんだ。そのはずみでの暴発だ。……仕方なかった」
仕方なかった?
今この人は二人の若者の死をその一言で片づけようとしたのか? ゾンビだなんだと不条理で浅はかな思い込みで人を死に追いやっておいて、たったそれだけ?
はらわたが煮えくり返るようだった。
当然ダイチだって怒りが収まるはずがない。
「そんなんで許されると思ってるのかよ! 誰だよ、ゾンビとか言い始めた奴はよ! ハヤトがそうなるとは限らねえだろ!」
「もちろん、通常ならただでは済まされないことだと思っている。でも今は完全な異常事態だ。中途半端な対応では全滅の可能性だってある。より大勢の生存率を上げるためにも、誰かの犠牲がやむを得ないこともある。それに、あの化け物に命をささげることで、変わり果てたこの世界が元に戻るかもしれない。そういう声もあるんだ」
加賀美刑事は完全に暴走していた。拳銃を握りしめたこの人を止められる人はここにはいなかったのだ。むしろ全員が彼にすがろうとしていたのかもしれない。この終わりの見えない絶望的な状況で、こうすれば助かるんだという救いの道を示してくれたのだから。それがどんなに滅茶苦茶に破綻した道だったとしても。
そして二つが天秤にかけられた。一人を犠牲にすることで自分は生き残れるかもしれない、という馬鹿げた理論。化け物に変異するかもしれないがそれでも人を殺めてはいけない、というちっぽけな倫理感。
あっさりと後者が負けてしまったわけだ。それも連敗。連敗に次ぐ連敗だ。端と端を取られたオセロみたいに全て真っ黒になって、多数派を占めた。完全に間違った情報と、完全に間違った判断をもとに、極めて民主主義的に正しいプロセスで、完全に間違った結論にたどり着いてしまったのだ。そして皆が人の道を簡単に外れていった。もう誰も正せない。わずかに正そうとした少数派はあのザマなのだから。
「まだ世界は戻らないわね。なかなか上手くいかないわ」
瀧川が白々しくも嘆いた。その芝居がかった言い回しで直感的に悟った。こいつだ、と。瀧川がけしかけているに違いない。恐怖に飲まれた加賀美刑事は簡単に踊らされてしまったのだ。
「そうだな。でも、まだ試してみる価値はある」
魂が抜けたような冷たい声で、加賀美刑事はそんなことを言った。
「だって、試せる命がこれだけあるのだから」
ゆっくりと僕ら四人を見定める視線に、最初彼が何を言っているのかよくわからなかった。いや、それは確定的に明らかなのだけど、僕の脳は理解することを拒否していたらしい。
だけど、
「てめえ、狂ってやがる……!」
とダイチが吐き捨てて、カズハが下唇をギュウと噛みしめて、そして瀬尾さんが何も言わずただガタガタと歯を打ち鳴らすのを見て、ああそうか、僕らはこれから死ぬのか、と他人事のようにすんなりと理解できてしまった。
「いや、もちろん私も犠牲は最小限にしたいのだよ。だから可能性が高い人からにしたい。つまり、君からだ」
加賀美刑事が僕を指さしていた。
「緑川君、やはりこの事件は君の仕業なんだろう。だから、君が死ねばこの世界は元に戻るんじゃないのかな。きっとそうに違いない。……おい」
その合図でぎゅっと黒子が僕の周りに集まって、いとも簡単に僕の身体は持ち上がった。そしてゆっくりと吹き抜けの深淵が近づいてくる。
なんだこれ。なんなんだよ。まるで筋が通らない。支離滅裂だ。こんなわけのわからない展開で僕は死ななきゃならないのか。こんなの現実世界で起きるはずがない。
……だから、僕はこれを夢だと思うことにした。
「やめて! 私から、私が先にいくから!」
大勢に押さえつけられながら、カズハが涙ながらに自己犠牲を主張する。でもカズハ、そんな必要はないよ。だってこれは夢なんだから。
「てめえらやめろ! マジでふざけんな!」
ダイチを押さえる連中は苦労しそうだ。暴れ牛のごとくいきり立っている。ダイチも夢なのに、そんなにムキになっちゃって。
ぼんやりとその様子を眺めていると、僕の身体は吹き抜けの際まで運ばれていた。三階分の高さが今はその十倍くらいの摩天楼にすら感じる。その地の底で化け物どもがひしめき合って僕を見上げていた。今からそこに飛び込むのだ。だけどそれも夢と思えば不思議と怖くなかった。
身体が宙に浮いた。
「ユウーーーーーーーーーーっ!!」
カズハが僕を呼んでいる。でもその声はすぐに遠ざかって、身体全体で重力の作用を感じ取った。僕は一直線に落ちていく。ほら、よくあるだろ。落ちる夢。今回もそれさ。だって、もしこれが現実だったら今ごろ走馬燈の一つや二つ見ていたっておかしくない。それが今、頭は綺麗に空っぽのままで、化け物どもの地の底がぐんぐん近づいてくる。
落下地点の一体の身体がやけに大きく見えた。
僕は脱力したまま勢いよく飛び込んで、油屋は僕めがけて黒く鋭いかぎ爪を繰り出した。それは僕の
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