終章 永い夢の終わり
永い夢の終わり(暗)
右手で誰かの手を後ろに引いていた。その誰かに向かって僕は声をかける。
「まだ走れる?」
「うん。……急ごう」
そこにいたのはコハルだった。びしょ濡れなのもお構いなしに一心不乱に走っている。肩で息をしながらも、いつもの笑顔で僕に応えてくれた。
白い田園の中に瓦屋根の大きな平屋建てが近づいてきた。見慣れた我が家だ。
だけど、その前の砂利道で僕らは何かを見つける。
「父さん! 母さん!」
僕はそんなことを叫んで駆け寄った。かつて両親だったものが、まるでマネキンのように打ち捨てられていた。二つの身体は共に頭部を失って血と泥にまみれている。
「くそっ! くそおっ……!」
ひざまずいて父親のゴツゴツした大きな手をとった。両手できつく握りしめる。だけど、もうわかっていた。二人は死んでしまった。もう戻ってこないのだ。
「酷い……」
コハルがポツリと漏らした。彼女は目を閉じて合掌、二人の冥福を祈っている。この赤い雨の中、頬に流れているのは透明な雫だった。
びちゃり……。
足音がした。近くにいる。家の裏側か。
瞬間的に気を取り直した僕は、とっさにコハルの手を取り叫ぶ。
「――—―――!!」
……はて、この時僕はなんて言ったんだっけか。よく覚えていないのだけど、目の前でコハルはこの大雨すら晴らすかのような笑顔を作ってくれたのは覚えている。青い唇は震え、目には涙を浮かべながらも、恐怖に抗い気丈に振舞ってくれた。それで僕も勇気をもらえたような気が――
「
不意のダイチの声が僕を現実に引き戻した。今、三階の吹き抜けの手すりの前に僕はいる。幾つかの窓からうっすらと赤い光が差し込んではいるが、ショッピングモールの中はほとんど薄暗い闇の中に沈んでいた。
「ああ、大丈夫。一年前を……思い出してた」
今までの強烈な出来事が僕の脳を刺激したからか、さっきまで意外なほど鮮明に昔の記憶が湧き出てきた。どうして僕は今まで忘れていたんだろうか、と思うほどに。
僕の返事でダイチの顔が神妙なものに変わった。
「一年前か……。お前らの故郷でも、同じようなことがあったんだろ?」
「ああ。表向きは大洪水ってことになってるみたいで、僕もすっかり忘れてたんだけど……。カズハから聞いたのか?」
ダイチがこくりと頷いて言った。
「よく、生き残ったな」
「確かにな。すごいな僕。どうやったんだろ」
それも一つの謎だった。去年もあれだけの大災厄が起こって、確かに多くの人が犠牲になったのだけど、僕とカズハ、あとコハルの三人が生き延びたことになる。そして世界は元に戻った。
ひょっとしたらコハルに助けられたのだろうか。彼女の話も聞きたい。聞けるのならば。今、どこにいるのだろう。
「とにかく生き残る方法はあるってことだ。それが希望だな。……なんか覚えてないのか?」
そう言われてさっきの記憶の続きを辿ろうとしたのだけど、一度中座してしまったからか、代わりに得られたのは酷い頭痛だけだった。その先へはどうしても進められそうにない。
「……ごめん、ダメみたいだ」
「いや、いいさ。本当は
そう言ってダイチが振り返る。飲食店が立ち並ぶ三階で、その先には鉄板焼きのチェーン店があって、入り口からほど近い二人掛けのテーブル席にカズハは寝かされていた。食品売り場で倒れて以降、カズハはとても会話ができる様子ではなく、玉のような汗をかいてうなされ続けていた。今は
吹き抜けの向かい側にも幾つかの人影がうっすらと見えた。向こうも飲食店らしき店舗が並んでいて、ガスか何かで明かり確保したらしい。幾つかの
それもあって他の人達はみなそっちに集まっているようだった。ハヤトもその一人だ。結局、僕らと一緒は嫌らしい。ちゃんと傷の手当てができていると良いのだけど。
「ハヤトも心配だ。なんとかしてやりたいけど、薬局は一階だしな……」
そう言ってダイチは僕と同じように、吹き抜けの手すりから身を乗り出して下を眺めた。
オオオオオオオオオオオオ――――――
一階はまさに地獄というほかない。腰の高さくらいまで赤い水が張って、黒い化け物どもがひしめき合っている。食品売り場のあたりにだけ炎が残っていて、このモール全体が大きなランプになっていた。この光景が、あの後に訪れた混沌だった。
僕らが食品売り場から出たすぐ後のことだ。一階は僕らを追うように化け物どもが溢れ出して、皆が阿鼻叫喚の声をあげながら二階へ、三階へと逃げ惑っていった。
ただ不思議なのはここからで、奴らは二階までは追ってこなかったのだ。エスカレーターや階段は少なくとも五つはあった。それをのぼれないわけじゃないはずだ。夜の学校では三階まで追いかけてきたのだから。なのにあえて一階に留まったままゾロゾロと動き回って、不気味な声を上げながら
ひょっとしたら僕らを逃がさないようにしているんじゃないか。そんな考えも浮かんでくる。
そんな統率がはたしてあり得るのだろうか。あり得るとすればあの親玉か。モミジを襲ったあの触手。あれが化け物どもをコントロールしているのかもしれない。
しかしあれこそ、なぜ今僕らを襲わないのだろうか。思い返せば今までの犯行は――
考えを巡らす僕の横でダイチが、
「絶景だな。この世の光景とは思えないぜ」
と独り言のように吐き捨てる。
僕も「ああ」と頷きながら、頭の中では『蜘蛛の糸』の物語を思い出していた。あの泥棒が落ちた地獄もこんな風景だったのかもしれない。もっとも、僕らへの蜘蛛の糸はここには垂れていないようだけど。
「で、この後はどうする?」
そう、それが問題だ。戦うのか、それとも逃げるのか。この状態におちいってから、まだ僕らはその決断を下せずにいた。
「カズハが言っていたのは、この世界の終わりを引き起こす元凶がいて、それを倒せば食い止められるということらしい。あの黒い触手のことだ。……本当かどうかはわからないけど」
「倒すったってな……あれは相当ヤバイ。まずあれが何なのか知りたいぜ。そうでなきゃ、たぶんただ殺されるだけだ」
ダイチがそう言うのももっともに思えた。例えば生活雑貨の店にでも行けば、包丁を始めとして幾つか武器がそろうだろうけど、それで十分戦えるとは思えなかった。あの元凶の全容はまだ知れない。カズハなら、判断がつくのだろうか。
「なら逃げるか。だけどこの暗い中であの一階に降りるのは自殺行為だと思う」
「じゃあボートはどうだ? 二階にキャンプ用品店がある。カヌーやゴムボートがあったはずだ。それで二階から外に飛び降りれば……」
「それも……最後はそれに賭けるしかないかもしれないけど、結局外に出た後に追いかけられるかもしれない。だから、今は待つのがいいと思う」
「待つ?」
「うん。世界の変異はずっとは続かない。どこかで元の世界に戻る。その時にはあの化け物達も消えるはずだ」
「なるほどな。それが一番確実か。……で、どうやったら戻るんだ?」
「それは……」
正直それは全く分からなかった。いや、前までは誰かが死ねば戻るものだと思っていた。でもその法則は今は崩れて――
パァンっ!!
突然、耳をつんざくような乾いた音がモールの中に響き渡った。それはちょうど吹き抜けの反対側、他の連中が集まっているところから聞こえてきた。この音は聞き覚えがある。拳銃の発砲音だ。
向こうで何かが起きている。絶対に良くないことだという確信があった。
「何が……おきたの?」
後ろからカズハの苦しそうな声が聞こえた。起きてきたらしい。
「カズハ、大丈夫なのか」
こちらに歩み寄りながら、赤い光に照らされたカズハの顔は目の周りが黒ずんで、半分ほどゾンビが混ざったようにさえ見えた。変異したコハルの面影がうっすらと重なる。
「心配かけてごめん。でももう大丈夫。二度目だから」
二度目……?
どういうことだ?
そう
「うわああああっ! やめろおおおおっ!」
向こうで誰かが大声で叫んでいた。命の危機に瀕した、恐怖に駆られた声だということが音の震えで嫌というほどに伝わってくる。
ヤハトの声だった。
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