世界の終わりとメメントモリ(霧)
びちゃり……。
びちゃり……。
びちゃり……。
前と同じようにだらしなく口を開けたまま、コハルは広がる赤い水に逆らうように、ゆっくりと歩を進めていた。左右あべこべの視線を漂わせ、血の涙を流しながら、ゆっくりと。まるで夢遊病患者のように。だけど足取りはまっすぐ僕に向かって近づいてくる。
「いや……いやああああ!!」
その通り道で一人の少女が尻餅をついて悲鳴を上げていた。腰を抜かしているのか、この赤い水が満ちる中なのに。
「モミジィ! おい、立て! 逃げろ!」
ハヤトが叫んでいた。それより今すぐ駆け寄って助け起こしてやれよ、とも思ったが、ハヤトはおろか誰一人として動こうとする人はいなかった。
怖いのだ。思えば僕とカズハ以外はこのコハルを見るのは初めてのはずで、ゾンビのような、という比喩で言えば先程のハヤトなど足元にも及ばない。不気味で底知れない存在の歩む先に、自らの身体を置くというのは自殺行為にも等しいのだと、周りの連中は感じているに違いなかった。
「こ、来ないで……」
せめてそのおぞましい顔を見ないようにか、モミジは自分の頭を抱えこんだ。哀れな生贄の子羊という表現がまさに当てはまりそうなその様子に、周りの誰もが息を
「う、お、お……」
ただ一人、
びちゃり……。
びちゃり……。
びちゃり……。
コハルはそれら全てに意識すら向けず、一直線に僕の元へ向かってくる。
カズハがナイフを構えようとする。
「大丈夫だ」
それを僕が止めた。
「大丈夫……大丈夫なんだって」
コハルがここにいる誰かを傷つけるなんて有り得ない。自分に言い聞かせるように、その言葉を繰り返した。
ダイチと
「アァー……」
コハルは目の前でようやく立ち止まってくれた。ほんの少しだけ、僕の中で張り詰めていた緊張が解かれたような気がした。だけど、
アヤコノノロイ――
いつかの教室と同じように、ぼそりと誰かが呟いた。
アヤコだ。
あれが?
アヤコだって。
間違いないよ。
アヤコ、アヤコ、アヤコ、アヤコ、アヤコ……。
その名を口にせずにはいられない病が、足元に広がった赤い水を伝って血液感染でもしたかのように、皆が異口同音に同じ名前を呼び始めた。
たまらずダイチが、
「おい、何言ってんだお前ら。どうみてもアヤコじゃねえだろうが」
と反論するが、一度広がりだしたアヤコ連鎖はとどまる気配を見せない。そこにいた数十人が余すところなくその名を口にした頃になって、
「だから私はそう言ってるじゃんっ!! ずっとずっとずっとお!!」
のどが引き裂けんばかりの叫び声が響き渡って、ようやくその連鎖は終わりを迎えた。
モミジだ。いままで口数が少なかった彼女が、胸の内に溜め込んできた全てを無理矢理一瞬で吐き出したような声に、誰もが目を奪われていた。涙と鼻水で顔はもうぐちゃぐちゃだ。
彼女は駆け寄ったハヤトに今ようやく抱き起されながら、とめどなくしゃべりだした。
「これはアヤコの呪いなんだ。アヤコが舞い戻ってみんなの首を狩りに来たんだよ。きっとあの世で寂しくなって、首だけでもいいからってあの世に持ち去って、あの頃の三年三組をもう一度作ろうとしているんだって。首だけで、朝礼やって、出席とって、授業して部活してそして次に誰を仲間入りさせるのかを話し合ったふりをして、それで一人ずつ迎えに来てるんだって、私ずっとそう言ってるじゃん! 私、霊感あるからわかるんだって!」
そこでモミジはギッと僕を振り返り、指さした。
「それをアイツ、
気付いたら、カズハが飛び掛かっていた。
「いい加減にして!!」
叫びながらナイフの刃を細い首に押し付ける。
「それ以上ユウをそんなふうに言うのは許せない。訂正して」
「嫌! だって本当の事じゃん。全部アイツのせいなんだって。ねえ誰か早く殺してよ! 死ね、緑川! 死ね! 死ね死ね死ね死ね、死んでくれ!!」
滅茶苦茶な言いがかりだ。支離滅裂にもほどがある。どう見たって、恐怖で頭がおかしくなっているようにしか思えなかった。それなのに、
アイツノセイダ……。
アイツノセイダ……。
アイツノセイダ……。
感染症は新しい言葉を取り入れて、あっという間に広がっていった。皆が殺意のこもったまなざしで、僕をギラギラと焼き殺そうとしている。
「違う! ユウじゃない! ユウのせいなんかじゃない!!」
カズハがその真ん中で、必死に上空へ、赤い雨に向かって叫んでいた。
「むしろ私の……私のせいなのに――」
消え入りそうな声は、何を意味していたのだろうか。
しかしその時、
オオオオオオオオオオオオ――――――
あの重低音だ。警察のバンから逃げた時に聞いたあの声が、僕の身体全体に覆いかぶさってきた。世界がまた泣き始めたのだ。いや、あの時よりもっと大きくて近い。
背中の方、赤い川の中からそれは聞こえてくる。誰もが本能的に死への恐怖を嗅ぎ取って、ダイチも、瀬尾さんも、カズハも、川に近い方から順々に振り向いて、白い柵から一歩、また一歩と距離をとる。
突如、真っ平らな赤い水面に、ぬっ、と黒くてやけにゴツゴツした塊が浮かび上がった。顔だ。人の顔だった。赤い雫をしたたらせて現れたその顔には見覚えがある。忘れるはずがない。何度も蹴られた痛みはまだ身体に染み付いている。
「アブ……嘘だろ」
ダイチがまさしく信じられないものを見た様子で、口を開いた。
背後では同じように数十人分の驚きと恐怖が生み出されていく。
だけど、まだこれで終わりではなかった。
いや、それでもまだ終わらない? 他にも次々と黒い塊が水面に浮上してくる。
どうしてだ。犠牲者はもう油屋と後藤の二人を残すだけだったはずだ。それが今、川から姿を見せ始めたのは十……二十……いや、もっと。間違いなく僕ら生きている側と同じくらいの数がいる。
「おい、ヤバイだろ。これ、絶対ヤバイやつだろ」
ダイチが僕の左肩を掴んで引っ張っていた。それでもまだ僕は目の前の光景から目が離せない。
これまで、何かが僕らの頭を喰って、その犠牲者が黒い怪物になるとばかり思っていた。目の前に現れている頭数はそれだけじゃ決して説明できない大群だ。いったい何が起きている?
白い柵に近づいてくる黒い身体の群れを端から端まで見渡して、それを説明できそうな何かを必死に探した。
そして見つける。その二体を。雷が落ちたような衝撃だった。例によって顔の表情は醜悪で、凶悪なものへ変わり果てていたけれど、一目見ただけでそうだとわかった。なにせ十数年一緒にいたのだ。一年経ったくらいで判らなくなるわけがない。
ああチクショウ、つまりはそういうことだ。現れたのは今回の犠牲者だけじゃない。
「父さん、母さん……」
きっと二人の耳には届かないであろうその言葉を、それでも僕は呟かずにはいられなかった。
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