世界の終わりとメメントモリ(血)
「逃げろおおお!!」
背中の方で誰かが大声で叫んでいた。泣きわめく声、助けを呼ぶ声、驚天動地の大混乱。現れたやつらの正体を正確に理解できた人など、その中には一人としていないだろうが、それでもやつらに捕まれば殺されるというイメージは否が応にもついたはずだ。狩る側の立場が一瞬にして逆転する。それがどれほどのパニックをもたらすのかは想像にかたくない。
「
ダイチの手が左肩を揺さぶる。
「ユウ!」
カズハが叫んでいる。
「あ、ああ」
揺れる心をなんとか落ち着かせて、迫る化け物どもに背を向けようとしたその時、
「アアアァー……」
コハルのポニーテールが僕の横をすれ違って、化け物の群れへ向かっていく。
あっ、と咄嗟に手で止めようとするも、ガチャリと手錠に邪魔された。
「コハル……コハルが!」
追いかけようとして、しかし目の前にはカズハが回り込んでいた。
「ユウ、コハルは連れて行けない」
「でも……!」
「ユウ! お願い!」
カズハの黒い大きな瞳が訴えかける。
「でも、でもっ!」
コハルを見捨てる、その決断をこの一瞬で下せというのか。
ああでもわかってる。危険なのはみんなだ。カズハも、ダイチも、
「ああああああ!!」
脳から脊髄を通って五臓六腑に至るまで、身体中がねじ切られそうな痛みに襲われた。そんなことを決めるだなんて、僕には――
「だいじょうぶだよ」
そんな風に、コハルの声が聞こえた気がした。
前を見るとコハルは怪物の群れに怯むことなく対峙している。正面に向かい合うのは今まさに白い柵を越えてきた
油屋は少し首を捻って、コハルの出方をうかがっているようだったが、その脇から、
「ギイイイイィ!」
奇声を上げながら、
「ギイイイイィ!?」
奇声を上げながら後藤は他の化け物を二、三体巻き込んで赤い水の中へ沈んでいった。
「ユウ!」
「あ、ああ、行こう、行こう!」
コハルを見捨てるなんてできない。だけど僕らが加勢しても死ぬだけだ。他にも何体もの化け物が柵を越えて迫ってきている。だから今は、コハルの言葉を信じるしかない。
「ね、ねえ、私のメガネ、落ちてない?」
瀬尾さんが不安そうにダイチにすがりついている。
「先生、メガネはもう無理だ。俺の腕を掴んで」
ダイチの言う通りだった。脅威は化け物だけじゃない。溢れた川の水も徐々に水かさを増して、今はくるぶしを越えたところまできている。メガネが落ちているとすればすでに水の中だ。探すチャンスはないに等しい。
オオオオオオオオオオオオ――――――
化け物どもが一斉に雄叫びを上げる。
これはただの
生きとし生ける全てのもの取り込み、我らが属とするために、と。
僕らは逃げた。ばしゃばしゃと水飛沫をあげながら必死に走って、どうにかまだ水に浸かっていないコンクリートの道へたどり着く。
後ろからは化け物の群れが白い地面を飲み込みながら追いかけてくる。まるで津波だ。コハルがどうなったかなど、もう知る術もない。
「どうする。どこへ向かったらいい?」
ダイチが走りながら問いかけた。さすがに運動部だけあって余裕がありそうだ。
一番つらそうなのは瀬尾さんで、すでに息がかなり上がっている。メガネもつけていないとぼんやりとしか視界が確保できないらしく、時折つまずきそうになって僕らをひやりとさせた。
追ってくる化け物からはなんとか差を保てているけれど、油断はできない。あの化け物に持久力の概念があるのかは疑わしいし、油屋の巨体を見るに、どうも化け物の間でも個体差があるらしい。生前の特徴が多少なりとも反映されるのか、だとすれば足の速い個体が他にもいるかもしれない。
「頑丈で、やつらの襲撃にも、耐えられて」
並走しながらカズハが手早く目的地の条件を挙げる。
「あと水害の避難所にも、なるところ」
その二つの条件なら学校に戻ってもよかったかもしれない。だけど学校ではすでにやつらに襲われて散々だった記憶もある。もう一つの選択肢が僕の頭に浮かんでいた。
「ショッピングモールは? ここから、そんなに遠くない」
「ありだな」
ダイチがすぐさま賛同する。
カズハも頷いて、
「少なくとも、一時的な避難所としては、申し分ないと思う。ただ……」
「ただ?」
「他に誰かが、先に逃げ込んでいたら、ユウが襲われるかもしれない」
そう言いながらカズハの表情が曇った。
確かに、その可能性を無視してはいけないだろう。だけど、そのデメリットは他の場所だって同じだし、何か状況を打開するための品物が手に入るかもしれない。リスクを冒す価値はありそうに思えた。
「いや行こう。大丈夫だ。瀬尾さんも、それでいいですか?」
瀬尾さんは返事の代わりに、一度だけコクリと頷いた。やはり、体力的にはかなり厳しそうだ。
「たぶん、あと一キロぐらいだから、先生、頑張って」
ダイチの応援に先生は力なく首を振る。
「完全に足手まといよね、私。……ねえ、もしもの時は、私を置いていって」
「先生……」
ギイイイイイイイイイイィ――――――
その時、一際かん高い雄叫びが後方から聞こえてきた。ぎょっとして振り返ると、遠くの方で黒い群れを押しのけて、小柄な一匹の化け物が先頭に躍り出ていた。
後藤だ。
はっきりとは見えなかったが、そう確信できた。コハルは大丈夫だろうか。強烈に後ろ髪を引かれながら、しかし今僕らは僕ら自身をどうにかしないといけない。あいつの動きも機敏だった。追いついてくるかもしれない。
ダイチが左手で瀬尾さんの腕を引きながら、
「先生、諦めちゃだめです。そう簡単には死なせませんからね。……おい、お前らは先に行け。最悪、俺が何とかする」
そう言って右手のバールをきつく握りこんでいた。
実際、今この四人でまともに戦えそうなのはダイチしかいない。
「ダイチ」
「ん?」
「奴らは、頭が弱点だ」
コハルがやつらを撃退した時、頭を潰していたことを思い出す。
「はは、そうか。わかりやすいな」
「……悪い。頼む」
「いいって。言ったろ。やりたくてやってんだ」
ダイチはそう言って、汗のしたたる笑顔で白い歯を見せた。その笑顔が僕の胸の奥にズキリと痛みを残して、それが深く突き刺さらないように心を非情で塗り固めながら、カズハと共に速度を上げる。
やがて降りしきる赤い雨の中、前方に目的地が見えてきた。完成してから日の浅いそのショッピングモールは、駅舎サイズの建物を三つか四つほど横に繋げたような長い長い直方体だ。外壁の頑丈さは申し分ないだろう。それにたとえ一階に奴らが侵入してきても、中でバリケードでも作れば安全を確保できるかもしれない。
視線を手前に戻すと人影が見えた。
彼らは振り返り僕らを認識すると、一様に顔が恐怖に凍り付いた。それは僕に対してか、それとも後ろの化け物の大波に対してか。
僕も振り返る。少しダイチとの距離は離れてしまった。
「おい!」
ダイチが叫んでいた。
「後藤が迫ってる! お前らも気をつけろ!」
さらに後ろを見やると、後藤の黒い影がみるみるうちにダイチと瀬尾さんの元へ近づいてくる。とてもモールまで逃げきれそうにない。
しかし同時に前からも、奥山らとの距離は縮まっている。
状況は急速に複雑になってきていた。
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