グランギニョールの倫理(紅)

「ぐ………………ぁ………………」


 本当は絶叫のはずだった。全身を支配した激痛に、のた打ち回っているはずだった。だけど、身体は仰向けのままピクリとも動かず、自分の声が掻き消えそうなほどに遠い。


 化け物はすでに消え去ったようだ。奴の腕が刺さっていた腹は栓を失い、代わりに大穴が開いている。命がどくどくと流れ出るのを止めようとして、何もできなくて、僕はただ赤い空に伸びる分厚い校舎の壁を眺めていた。




 ――ヒドイ有様ダナ。


 そうだな。まさか、こんなことになるなんて……。


 ――モット上手クヤレタ■ジャナ■カ?


 そうかもしれない。だけど、思えばいつだって現実は残酷だった。

 思い通りになんていきやしない。


 ――モ■、コレ■終ワ■デモ■イノ■モナ。


 終わり……。

 本当に、これで終わりなのか?

 逃げて、逃げて、逃げ続けて……、その結果がこれなのか?


 ――ヨウヤク、■■ル■■コ■■イ■■。


 何を言ってる。僕には……理解できない。


 ――アア、サ■シ■■タ……。


 ………………。




 ただゆっくりと時が浪費されていった。視界はじわじわと狭くなって、校舎と空の境目はますますぼやけていって、何の区別もつけられない。


 たぶん、これが僕の終わりなのだ。

 普通なら、もっと長く生きられるような人生だったのかもしれない。誰かと結婚して、子供を授かって、長く静かに余生を送るような道もあったのかもしれない。

 だけど僕は願ってしまったから。明日なんて来ないでくれと懇願し続けてしまったから。だから早々と終わりが向こうからやってきてしまったのだ。おあつらえ向きな最期なのだろう。


 ――ソラ、オ迎エガ来タゾ。


 その声と共に、この世のものとは思えないような、凶暴な気配を感じた。

 校舎の屋上だ。それはまさに終わりそのものだと、どういうわけか僕は理解していた。


 かろうじて一欠片残された視界の真ん中で、その終わりが空を覆わんばかりに広がった。

 触手だ。まるでたこが八つ足を広げるように一本一本がウネウネと蠢いて、そのうちの一本が僕に向かってゆっくりと伸びてくる。三階という高さを苦にする様子は微塵もない。

 卵のような形状の先端には、横一文字に裂けた口だけがあって、中ではギザギザの歯がひしめき合っていた。獲物を待ちきれないのか、大粒のよだれをたぎらせている。


 もう……好きにしてくれ……。


 そこで僕の視界はとうとう光を失った。どちらにせよ終わりが近い。自らの残酷な最期を見ないで済むのは、ある意味では救いかもしれないとも思った。が、


 びちゃり……。


 同時に、他の何かの存在を感じた。どこからかゆっくりと近づいてくる。


 びちゃり……びちゃり……。


 僕のすぐそばまで来たと思ったその瞬間、肩を担がれるように僕の身体が持ち上げられた。

 これ以上はないと思っていた激痛をさらに上回る痛みが腹部から爆発する。だけど、口からはもはや悲鳴すらも出てこなかった。

 それをいいことに、そいつは僕をどこかへと運んでいく。


 やがて、そいつはどこかにたどり着き、僕の身体を地面に横たえた。

 すでに僕は痛みすら感じられなくなっていた。ただ闇があって、無音、無風、無味無臭。これが死ぬということ……なのか。ただなんとなく、寂しい、その一つの感情だけを抱いて、重く静かな闇へと同化していく。そのまま、僕の細胞の最後の一粒まで闇に溶け出してしまったように思えた……その時、




 ぽとり――――――




 雫が落ちた。

 それはほんの小さな、米粒にも満たないほどの小さな一滴だった。だけどその一滴には、新たな生命が芽吹きそうなほどの生命力が凝縮されていて、どこまでもざらざらした鉄の味が口の中に広がった。


 血――――


 また、ぽとりと、その雫を舌の付け根で感じた。また一つ、また一つ。

 やがてそれは滝になって、奔流となって流れ込んでくる。


 僕の口に――――――血を――――――


 熱い――――――――――――――――







 ……そこでその記憶は途切れていた。

 反芻はんすうした非現実的な出来事を舌でなぞりながら、半ば愕然がくぜんとする。頭はまだ熱をもって、鼓動と共にズキズキと痛みを発した。


 今の記憶は……何だ?


 あの夜、ランニングの最中に五十嵐いがらしの死体を見た後、僕はそのまま気を失ったんじゃなかったのだ。

 化け物に追われて、深手を負って、ほとんど死の淵まで行っていたはずが、最後は……何かに助けられたのだろうか。


 制服のシャツをまくり上げて、穴が開いていたはずの腹をさらけ出す。

 ……ない。穴どころか、その傷跡すらも。

 先ほど殴られた部分が少し赤くなっていたが、穴が開いたらそんなもんじゃ済まないはずだ。触ってみても何の違和感もない。病院の検査だって、何の異常もなかったのだ。


 にわかには信じられない。さっきまで五十嵐いがらし名取なとりの顔をした化け物に追われていなかったら、とても正気の記憶だとは思えなかっただろう。

 でも、今ならわかる。あの夜の化け物の顔は殺された中学の先生だ。間違いない。


 改めて周囲を見回してみると、暗い学校の廊下には蛍光灯の電気が点いて、傍目には何も起きていなかったようにも見える。

 だけど、足元には用済みとなった消火器と、ぐにゃりと曲がったトロフィーが転がっていて、なによりすぐそこの床には円状のヒビが残っている。他にあんなものを作りようがない。コハルが名取を仕留めた時のものだ。やはり、これは現実に起きていることなのだ。


 だとすれば、どういうことなのだろう。

 一つ言えるのは、あの赤い空の世界に迷い込んで、頭を失い殺された人は、化け物になって人を襲うのだ。その赤い空の世界が徐々に現実世界に深々と混ざりこんできている。切り替わる時間も長くなって、迷い込む人の数も増える一方だ。このままいけば、本当に世界の終わりが……つまり、この世界が完全に赤い空の世界に浸蝕しんしょくされて、皆が化け物に襲われるだけの未来になってしまうのかもしれない。


 ――だからその前に、元凶を見つけ出して対処しないといけない。


 いつかのカズハの言葉が思い出された。

 元凶って、何だ?


 連想したのは、赤い空を背に校舎の屋上に現れていた、あの気配。

 あれを止めろと、カズハは言っているのか?

 そんな、無茶な……。


 それに、どうやってあれを見つける?

 ……わからない。まだ、わからないことが多すぎる。


 カズハに会わないと。絶対に何かを知っているはずだ。

 それに、


 ――ぼうっとしていると、今度こそ死ぬわよ。


 五十嵐に襲われる間際の、あの瀧川たきがわの言葉。

 今度こそ、って何だ? あいつ、どこまで知っているんだ?

 瀧川も見つけて問いただそう。まだ、そんな遠くには行っていないはずだ。


 そういえば……コハルはどこだ?

 ようやく、いるはずの人がいないことに気付いた。


「コハルーーーーっ!」


 叫び声が廊下の奥へとこだまするも、何の反応もない。


 くそっ、完全に油断していた。馬鹿か、僕は。

 名取の時は、世界が元に戻った時にコハルも元通りになっていた。だけど、今回もそうだという保証はどこにもない。

 それに、瀧川はどこか得体が知れない。今、あいつとコハルを会わせるのは危険だ。


 急ぎ、元の道を戻る。

 立てこもった教室のドアには穴が開いたままだ。だけど中には誰もいない。

 渡り廊下を戻って、教室棟を横切り、昇降口へ。

 そしてその手前にようやく人影を見つけて、


「コ――」


 呼びかけようとして、思わず息を飲んだ。




 その子には、頭がなかったから。




 時が止まる。

 首なしの少女が、僕の行く道を塞いで、音もなく立ち尽くしている。

 視界の中央に居座って、私を忘れるな、と忠告するかのように。


 どうして?

 今はあの赤い空の世界じゃない。明かりに電気も通っている。

 まさか、浸蝕がさらに進んで……?


 僕は一歩も動けずに、ただ彼女の首からあふれ出る鮮血がその服を汚し、廊下に広がっていくのを見続けていた。


 どれだけの時間が経ったのか、突然、


 カラン――


 と乾いた音がして我に返る。

 だけど、それではもう何もかもが遅すぎた。




 バ――――――――……………………。




 突然の閃光と爆発音。あまりにも強烈なそれは鼓膜の許容量を一瞬で越え、キィンという耳鳴りと共に、僕は平衡感覚を完全に失った。

 ようやく視界が戻る頃には、僕の身体は機動隊のような格好をした大男達に組み伏せられていた。


「確保ーーっ!! 被疑者少年、確保ーーっ!!」


 大男の一人が野太い声で叫んでいる。

 もがこうとしたのだけど、後ろ手に手錠をはめられた上に何人もがのしかかっているようで身動きができない。肺が押しつぶされそうな圧を感じて、たまらず前を向いて気道を確保する。

 ……でも、そこまでだった。麻酔でも打たれたのか、意識が急速に身体から遠ざかっていく。


 コハル――


 再びその名を呼ぶこともできぬまま、僕の意識は闇の中へとちていくのだった。

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