グランギニョールの倫理(夜)

 病院で目覚めた時、前夜の記憶はそれで全てだと思っていた。

 でも、そうじゃなかったんだ。







 レンガ造りの道に横たわりながら、僕はあたりを見回していた。


 赤い空から赤い雨。

 押し黙ったままの公園の木々。

 色を失った地面に散らばる赤い水溜まり。

 そして、目の前には一体の首なし死体。


 ――アァ、アノ夜ト同ジダ……。


 ふと、僕の中の何かがそんなことを思い出した。途端に、身体中の血液が凍り付いたような感覚に襲われて、寝ころんだままひとしきり身震いを繰り返す。

 ようやく身体を起こすと、着ていたランニングシャツは死体から流れ出た血と雨でドロドロに汚れてしまっていた。


「だ――」


 誰かいませんか。

 この惨事を誰かに伝えるべく声を上げようとした僕を、何かが必死に押しとどめた。


 ――アノ夜ト同ジナラ、声ヲ出スノハマズイ。


 直感が警告している。訳も分からず、でもなぜか、それに従う方が良い気がした。

 再びあたりを見回しても、首なし死体の他には人の姿はない。壊れたテレビの砂嵐のように、今ここでは雨の音に埋め尽くされていた。が、


「……ゲェ……ギギィ……」


 あるいは蝉の断末魔か、とても声とは言い表せないギザギザの音が、微かに異物として混ざり始めた。


 ――来タゾ。


 警告が繰り返される。


 ――見ツカルナヨ、見ツカッタラ終ワリダ。


 言われるまでもない。嫌な予感だけがブクブクと胸の内に膨れ上がっている。

 身体は灯台と化して、サーチライトのようにゆっくりと周囲を見回していく。


 まっすぐに伸びる公園沿いのレンガ通り。

 時が止まったかのような背の低い住宅街。

 再び通りの尖った木々に視線を通し。

 公園の中心は生垣に丸く囲まれている。


 ふと、公園の奥で、何か黒い影が小さく動いたような――


「ゲゲ、ギゲゲェ……」


 脱兎。

 電流のような反射で、反対の住宅街へと僕は走り出した。雨を切り裂くような凄まじいはやさに自分でも驚いていたが、


 ――イヤ遅イ、遅カッタ、姿ガ見エテカラジャ駄目ダ。


 無意識が油断を許さない。

 住宅街の網の目を縫うように、区画をジグザグに走り抜ける。どこにたどり着くかなんて考えは一ミリも頭にない。ただその何かから逃れることだけに必死で、三十秒ほど全力疾走をした後は一棟の古びたアパートが見えてきて、半分闇雲にその大きな入口の影に身体を滑り込ませた。


 ひゅっ……ひゅっ……。


 呼吸を無理やり抑え込むと、奇妙な音が口から洩れて、すぐに両手で塞ぎ直す。自分の鼓動が頭に響いてうるさい。他には何も聞こえない。雨の音しか。いや――


「ギギィ……」


 壁を背に覗き込んだ先、交差点の横道から奇声と共に、ぬうっ、と横顔が現れた。化け物、もう追いついてくるだなんて。

 細長い影のような身体はゆうに二メートルは越えているだろう。てっぺんには特徴の乏しい男性の顔が乗っていて、それがまるで地獄の釜で煮られたような苦悶の表情を浮かべている。その横眼がぎろりとこちらを向いて、慌てて物陰に身体を引っ込めた。


 ――追ッテキタナ。速イゾ。


 走っている最中、追われている気配はなかった。あれだけでたらめに走ったのに、どうして追ってこれるんだ。


 ――血ノ匂イダ。


 はっとして、自分の格好に目を落とす。

 すぐさま頭からシャツを脱いで、奥の方に投げ捨てた。だけど、もう遅い。


 びちゃり……びちゃり……。


 そいつは間違いなく迫ってきていた。

 迷っている暇はない。入口からアパートの脇へ、腰ぐらいの高さの生垣をかき分けて、塀をよじ登る。


「ギィエアォオッ!!」


 獣のような咆哮。振り返ると、奴の動きまでもが獣のそれで、アパート一棟分の距離が一瞬で無と化した。ブンッ、と投擲とうてきのように長い腕が振るわれ、かぎ爪のような先端が僕の脚のすぐ後ろにまで届く。


「ひっ」


 すんでのところで飛びずさって、隣家の敷地へ。後ろではまだ狂暴な声が続いていたが、すぐに塀を登ってくる様子はない。そのかぎ爪ゆえに、障害物を越えてくるのはそこまで得意ではないのかもしれない。

 ならば、できるだけ狭く、障害物のあるルートで逃げるしかない。

 街中の障害物走パルクールなんて生まれてから一度だって経験はないが、今やれなければ死ぬだけだ。


 道を横切り、幾つかの塀を越えながら逃げる。逃げ続ける。すると見慣れた学校の校舎が前方に見えた。死が後ろから激しく追ってくる今、それはまさしく避難所のように思えた。もう息が切れそうだ。閉じた校門を登り切り、校舎に向かって必死の思いで駆ける。


「ギィアアッ!」


 まだ、やつは追ってきていた。校舎の中に隠れるしかない。

 他に方法は思いつかなかった。創設者の銅像が見下ろすなか、並ぶ樹木の周りに転がるレンガを一つ拾い上げ、手近な教室の窓を叩き割り、鍵を開けた。窓を開け、身体をねじ込む。

 教室内から振り返ると、奴はちょうど校門を越えて僕がいる教室へと狙いを定めていた。

 急いで割れた窓とカーテンを閉め、廊下へ。


 ――待テ、靴ダ。血ガ染ミ込ンデイル。


 声に従って、二足とも掃除用具のロッカーに乱雑に投げ込んだ。廊下へ出て、教室のドアを閉めた丁度その時、


 ガシャアアンッ!!


 耳をつんざくほどに、教室の窓が激しく割れる音がした。

 反射的に身をかがめる。すんでのところだった。もう少し遅かったら、姿を見られていたかもしれない。

 そのまま足音を立てないように、しかしできる限りの速度で廊下を進む。教室内ではまだガランガランと机が蹴飛ばされるような音がしていた。続けざまに、


 ゴッ!!


 という轟音。あるいは血の匂いに誘われて、やつがロッカーを潰したのかもしれない。

 確かめることはできないし、そうするつもりも毛頭ない。とにかく急がなければ。


 しかしすぐさま、さらに大きな轟音が響いた。なんとかギリギリ間に合うかたちで、廊下の角を曲がって階段に這いつくばる。


 びちゃり……びちゃり……。


 廊下を足音が近づいてくる

 今度は教室のドアが破られたに違いない。


 ――アァ、イヨイヨマズイナ。


 無意識がそう嘆いた。

 だが足を止めている暇はない。音を消しながら二階へと向かう。


 ――ナア、ナンデ、ソコマデシテ生キタガル。


 だって、僕はまだ死にたくない。


 ――イヤ、モウコノ世ニ未練ナンテナイハズダ。


 そんなことない。この身体が生きたがってるんだ。


 ――イイ加減アキラメロ。夢ハモウ終ワリダ。


 うるさい。


 ――終ワリダ。


 うるさい。


 ――終ワリダ。


 うるさい、うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさい!!

 お前は黙ってろ。僕は生き抜いてやる。絶対に。


 二階にたどり着いたその下で、まだ足音がびちゃりびちゃりと近づいている。その一音一音で、心臓が跳ねあがるようだった。が、その音が、少しずつ、わずかだけれど少しずつ、小さくなっていっているような気がした。

 階段を通り過ぎた、のか? そうだ。そうに違いない。

 盛大な安堵と共に、音のないため息を漏らす。


 その油断が命取りだった。


 手すりにもたれかかった時、緊張を解いた脚がバランスをわずかに崩して、


 カン――


 左腕の腕時計が硬い手すりにぶつかった。

 空き缶が落ちるよりももっともっと小さい音だったけれど、それが階段の壁をピリピリと伝って、


「ゲギャギャギャッ!!」


 見つかった。

 一瞬のうちにビチャビチャと足音が戻ってくる。階下に奴の黒い身体が見えた。


「くそっ」


 一気に駆け上がって、三階へ。でもそこが最上段だ。廊下へ。でも、その後は?

 振り返ると、やつはもう階段を登り切って三階へ足をかけていた。やはり速い。

 ぐりん、と顔がこちらに向く。両目とも上を向いて、ほとんど白目をむいていた。その下でボロボロに紫がかった口が、ニタァアと大きく笑って、ぐんぐん近づいてくる。


 追いつかれる。間に合わない。

 どうするんだ、ユウ。考えろ、考えろ。やつを止めるには、倒すには何が必要か。武器になりそうなものが周りにあるのか。机? 椅子? そんなものじゃ駄目だ。他には、他には、他には!! ……ある。ここは三階だ。


 高低差。


 窓から、こいつを叩き落とす。そして……。

 でも、間に合うのか? できるのか?


「ゲギャアッ!」


 すぐ後ろで奴の叫び声が、僕の後頭部を震わせた。

 やるしかない。


 一番近い教室のドアを開け、窓に向かって走る。

 振り返ると、奴の崩れた顔がもう目と鼻の先に――


 ブスリ……。


 腹の左側に、違和感。

 異物が突然生まれて、じわじわと育っていき、胃の中で膨らんで、口から溢れた。


 「ごふっ」


 奴の腕が深々と、僕の胴体につき刺さっていた。視界がぼやける。

 だが、窓はすぐそこ。化け物も勢いを緩める気配がない。

 このまま――


 額と肩にそれがぶつかった感触があった。押されるままにゆっくりとたわんで、バリンという音と共に抵抗がなくなり、そして僕は地面すらも失った。三階から窓の外へ。腹と腕がつながったまま、化け物まで一緒になって、僕らは赤い空の下へ飛び出していた。奴に躊躇は見られない。なるほど、こいつなら三階から落ちても問題はないのかもしれない。


 でも、落下地点が平面じゃないとしたら?


 勢いを利用して奴と体勢を入れ替えた。醜い奴の顔が間近にあって、その両端をがしりと掴んでかろうじて狙いを定める。肩口の向こうに見えた。地面が。そして銅像が! その片手は高々とこちらを指さして――




 ぐしゃり。




 腕に伝わる感触は一瞬で、生温かく、それでいて強烈だった。だけどその意味を確かめる間もなく、僕の身体は堅い地面へと激しく叩きつけられていた。

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