グランギニョールの倫理(亡)

 声に反応して、五十嵐いがらしの顔がぐるんと僕を向いた。長い右腕は軟体動物を思わせる動きでずっぽりとドアの穴から抜き取られ、その拍子にまた黒い身体がゆらゆら揺れる。無駄に振れ幅の大きい動きは出来の悪い操り人形を連想させた。


 大きい――


 間近でそのサイズを思い知る。形こそ人の輪郭をしてはいるものの、腕や脚は僕の倍ぐらいの長さはありそうだ。猫背を正せば頭は天井に達してしまうに違いない。


 そいつはようやくバランスを取り戻し、今度はゆっくりと覗き込むように顔を近づけてくる。どす黒く変色した眼球のさらに暗い黒目の部分は互い反対方向を向いていて、一体どうやって視界を確保しているのかは見当もつかなかった。


「オォオオ……」


 また五十嵐が不気味な声を発した。口からはもはや唾液かどうかも怪しい黒い飛沫が放たれて、床をまだらに汚していく。

 その床を、びちゃり、びちゃりと、奴は不安定な足取りで近づいてきた。


 いいぞ、もっとこっちへ来い。

 くそっ、ほんとに来やがった。


 脳内では完全に正反対の思考が飛び交って、何が僕の本当の気持ちなのかさえわからない。

 脚は鉛のように動かなくなって、


 ブンッ――


 その隙に奴の長い腕が下から鞭のように振るわれた。僕の顔に向かって。奴の手が視界の真ん中でウネウネと蠢く。まだ十分に距離は残っていたはずが、それだけで心臓が縮むには十分だった。


「うわっ」


 飛びのいて、その勢いで廊下の奥へ走り始める。

 五十嵐もびちゃり、びちゃり、と追ってきた。


 やはり、そこまで速くはない。このままならいずれ引き離せそうに思えた。

 が、それでは駄目なのだ。奴がコハルのところに戻ってしまうかもしれない。つかず離れず、このままどこかへ誘導して閉じ込めてしまうのが最上の策なのだろう。


 とはいえドアを軽々と壊してしまう化け物を閉じ込めておける場所なんて、すぐには思い浮かばなかった。

 ただ、このまま進めば部活動エリアだ。体育館もある。最悪閉じ込められなくても、こいつを窓から外に誘導して校舎から追い出すくらいは――


 そこまで考えて自分の向かう正面を見据えた時、僕は自分の浅はかさを呪った。


 体育館の前に、もう一体、黒い身体が待ち構えている。

 どこかで見た横顔、雑草のように荒れ果てた頭髪はまだ生前の明るい色を残していた。


 名取なとりだ。


 油屋あぶらやの最期はこいつを見つけていたに違いない。なぜ複数いる可能性を考えなかったのか。後悔の波が押し寄せる。


 すぐに名取の顔がこちらを向いて、だらりと垂れた舌とあごがブランコのように揺れた。


「ヴァアア……」


 名取はのどが潰れたような叫び声を上げて、足を引きずるように真正面から向かってくる。

 後ろからは五十嵐が。一本道で、挟み撃ちだ。両側は壁で窓はない。

 咄嗟に、近くの部屋のドアに手を伸ばす。


 ガッ――


 開かない。鍵が。


 その間も五十嵐と名取はどんどん迫ってくる。どちらも部屋二つ分くらいの距離しか残っていない。


 一瞬のうちに、あらゆる思考が脳をかき混ぜては消えていった。あるいはこれが走馬燈なのかもしれない、とすら思ったほどに。


 扉を壊す。間に合うのか?

 他の部屋は? 鍵が開いている保証はない。

 戦う。やれるのか? この僕に。

 これまでの死者は何人だ? 油屋あぶらや後藤ごとうで二人、いや中学の先生もいる。皆が同じ化け物になっていたら……くそ、コハルを残してきたのは失敗だった。コハルのところに急いで戻らないと。

 脳裏に彼女の笑顔が浮かんで、迷いは消えた。


 やってやる。


 のどがゴクリと動いた。激しい動悸に脳はほとんど麻痺しかけて、視界までもがぼやけてくる。とめどない恐怖のその裏で、


 ――今度ハモット上手クヤレルダロ。


 無意識がそう語りかけてきた。

 今度は、ってどういう意味だ?

 ゾクリと背筋に悪寒が走る。辻褄が合わない。自分自身に得体のしれない何かが潜んでいるようで、どこか空恐ろしい気持ちになった。

 だけど、整理する時間はもう残されてはいない。


 びちゃり……びちゃり……。

 びちゃり……びちゃり……。


 奴らの足音はますます大きく迫っていた。

 圧縮された時間の中、ほとんど無心で、名取との間、床に置かれたそれが目を引いた。

 こいつなら……。ああ、そういえば防災訓練でやったっけな。落ち着け。操作は簡単だ。ピンを抜いて、ホースを――


「ヴァアアア……」


 襲い来る名取に向かって構え、レバーを強く握りこんだ。


 ブシュゥウウウ!!


 消火器による目くらまし。ホースの先から大量の白い粉末が吐き出され、名取の大きく開いた口にその奔流を喰らわせる。たちまち粉末の煙が充満して廊下は白一色に塗りつぶされた。


「オオォオオ……」


 後ろからは五十嵐が肉薄していた。即座に反転、そちらにも白色の濁流を浴びせかける。

 しかしそれも一瞬で、僕はまだ薬剤が出続けるのも構わず、勢いに任せて消火器本体を五十嵐の顔目掛けてぶん投げた。


 ゴンッ!


 重い金属音がした。当たる様子は確認しなかった。そんな暇はない。

 もう一つ、廊下脇のガラス戸の中に目に留まったものがあった。


「ダイチ、借りるぞ」


 部活動の入賞トロフィーだった。どれがダイチのかなんて覚えちゃいないが、せめてもの断りを入れておく。

 そこへ躊躇なく右拳を叩きこむとガラス戸がバリンと音を立てて割れた。中から一番大きな一本を引っ張り出す。ずしりと重さを感じたそれを逆向きに構えて前を向いた。少し手を切って血が出てしまったが、痛みはない。どうやら相当アドレナリンが出ているらしい。


 急いで両手で握りこみ五十嵐に向き直る。白い煙の中でまだ黒い影がもがいているように見えた。

 もはや迷いはない。そんなものが混ざりこむ余地がないほど僕は集中していた。


「ああああああああっ!!」


 勢いよく踏み込んで、あらん限りの力を込めて、トロフィーを五十嵐の頭めがけて振り下ろし――


 ゴッ!!


 確かな手ごたえ……いや、手ごたえがありすぎた。腕がびりびりと痺れ、驚きの眼で白い煙の中を見ると、手に持ったトロフィーはぐにゃりと折れ曲がっている。五十嵐はしっかりとその黒い腕で受け止めていて――


 ドッ!


 腹に強い衝撃。

 次の瞬間、視界は勢いよく下へ流れ去って、気が付いたら背中に床を感じていた。


「どう……して……」


 何が起きたのかわからない。五十嵐に……ふっとばされたのか?

 見上げると、白い煙の中から名取の顔が逆さまに覗き込んでいた。大きく開いた口から黒い液体が僕の顔に垂れてくる。

 それを払おうとするも腕に力が入らない。ただ、粘土作りのような醜い顔を見上げながら、


「バァーカァ……」


 と名取が罵る声を耳で拾うことしかできなかった。


 ああ、そうさ。僕は馬鹿野郎だ。戦うだなんて、土台無理な話だったのだ。こんな化け物ども相手に、どうして勝てるだなんて思えたのか。

 コハルを救おうとして、それも果たせず僕は死ぬ。きっと、今ここで。


 コハル、ごめん……。

 それに、カズハ、ダイチも。瀬尾せおさん、短い間だったけどお世話になりました。


 何もかもを諦めて、ゆっくりと目を閉じようとしたその刹那せつな、ゆっくりと流れていた白い煙が突如として暴れだした。

 疑問が形になる間もなく、ドシャ、という生々しい音が響く。


 奴らが僕を解体し始めた?

 ……いや、違う。

 目を見開いて視界を取り戻したその時、眼前の白煙の中を突き抜けて何かが名取を襲った。


 ドンッ!!


 床が激しく揺れて背中を震わせた。


「何……が?」


 今更になって痛みだした腹を押さえながら起き上がると、晴れる煙の中で何かが揺れていた。それはいつも見慣れたポニーテールだった。


「コハル……なのか?」


 今まで以上に目の前で起きていることが信じられない。

 束ねた髪を揺らしながら制服姿の女の子が背中を向けて立ち尽くしていた。

 その足元では床が円状にひび割れていて、名取の残骸と思われる黒い塊が蒸発するように廊下の空気の中へ消えていってしまった。

 振り返ると五十嵐の姿もすでにない。ただ白い煙だけが漂っている。


「アアアァー」


 生気を失ったような声と共にその顔が振り返った。間違いなくコハルだった。

 その叫びで何を伝えようとしているのだろうか。彼女は今、僕を救う天使なのか、それとも悪魔なのか。


「ぐぅ……」


 忘れていた頭痛が再び暴れだす。内に閉じ込めていた何かが蒸気のように膨張して、頭蓋骨いっぱいに流れ込んできた。


 これは……記憶だ。今、僕は思い出しているのだ。


 手足ががくがくと震え始めた。視界が赤く塗りつぶされる。


 そうだ、これは、あの夜の記憶だ。

 五十嵐が死んだ、あの夜の……。

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