グランギニョールの倫理(無)

 犯人は私。

 瀧川たきがわは今、そう言ったのか? 突然の告白に僕の思考は完全に停止していた。


「ふふ、それならどう?」


 灰色にせた教室の湿った空気に、その声は蜜のように絡みついてくる。窓からは赤い光が差し込んで、中央の机に腰かける肢体は祭壇に捧げられた生贄いけにえのようにすら見えた。

 彼女はゆっくりと片膝を持ち上げて、さも愛おしそうにそれを抱きしめる。スカートはまくれ上がって、艶やかな黒髪は肩からさらさらと流れていって、そのしぐさの始めから終わりまでずっと僕は目を離せずにいた。まるで誘うように蛇のような目がじっと見つめ返してくる。


「殺す理由はそれで十分じゃないかしら。今、司法の支配が届かないこの場所で、私を止められるのはあなただけ。ここで私を殺さなければ、ますます死者は増えていく」


 窓際で立ち尽くした僕をその声が追い詰める。大脳が外側からじわじわと溶かされているかのようだ。


「そんなの、間違ってるよ」

「いいえ、事実、皆がそれを望んでいるわ。殺人鬼を殺せ、首刈り魔を殺せ、悪い奴は皆殺せ。あなただって口ではどう言おうと犯人には死んでほしいと思っていたんじゃないの? 何でもいいのよ。刺殺、撲殺、扼殺やくさつ、物足りなければぐちゃぐちゃにレイプしてから――」

「もうやめろよ!」


 とても聞いてはいられなかった。

 言葉を遮っても瀧川の不気味な笑みは消えない。


「さっきから言ってることが滅茶苦茶だ。僕が犯人だったり、君が犯人だったり、結局からかっているだけなんだろう? いや、もし仮に君が犯人だとしても、君を殺すだなんて間違ってる」


 そこで初めて瀧川は少し意外そうに眉をひそめた。


「あら、そうかしら。殺すしか止める方法はないかもしれないわよ」

「だとしても殺人は悪だ。君がその罪を犯したとして、同じ悪に染まるわけにはいかないよ」

「ふふ、こだわるのね」


 子馬鹿にするように鼻で笑い、


「同意しては……くれないんだな」

「ええ、言ったでしょ。そんな考え、種の存続の過程で遺伝子にこびりついたあかのようなものよ。ただ本能を盲信しているだけで、私にしたら性欲を抑えきれない色情魔と大差ないわ。本能がいつも正しい保証なんてどこにもないのにね。ねえ緑川みどりかわ君――」


 さらに問う。


「あなたはいつまでそんな綺麗事を掲げていられるのかしら。あなたの命が脅かされた時、大切な何かを失いそうな時、同じことを胸を張って言えるのかしら」


 ああ、きっと言えるよ。そう頭の中で発せられたその答えは、最後まで音を形成してはくれなかった。尋常ではない瀧川の雰囲気に気圧されていたのか、それとも本当にそんな未来がくるという予感に怯えたのか。とにかく僕は言葉を失って、


「アアァー……」


 代わりにコハルが応える格好になってしまった。どこか間延びした声に、張り詰めていた緊張感も雨の音に溶けだしていってしまう。

 瀧川も毒気を抜かれたのか、目を閉じて少しばかりの冷笑を浮かべるだけだった。


 振り向くと、コハルはこちらではなく、なぜか窓の外を向いている。


「おい、コハル、どうした――」


 同じように外を見て、また言葉を失った。

 コハルが向いた窓の先、校門のあたりに何かがいた。黒い影のような身体がぐねぐねと、壊れたヤジロベエみたいに大きく左右に揺れながら、しかし間違いなく一直線にこちらに向かってきている。

 そして上に乗った顔には見覚えがあった。両目はどす黒く充血して光はなく、歯茎も黒く汚れ、頭髪も所々禿げていはいたものの、最近テレビで見た顔の面影が色濃く残っている。今、ある意味近所で一番の有名人と言ってもいい。


五十嵐いがらし……なのか?」


 なんか、しばらく見ないうちに人相が変わったな。

 そう呑気のんきに考えたところで割れるような頭痛に襲われた。現実逃避は許さない、とでも言われているかのように。そしてついに僕の記憶の断片が一つ、沼の奥底から顔を覗かせた。それは今いる教室と全く同じ風景だった。


 そうだ。僕は前にもこんな光景を見たことがある。ちょうど立っているこの場所で、この窓を挟んで、あんな化け物と対峙していたはずだ。


 記憶に導かれながら、ふらつく脚を引きずるように反転して教室のある一点を目指した。出口は扉が外されてテーピングがされたまま……いや、そこじゃない。そばに掃除用具入れのロッカーがある。ベコリと凹んだ戸を無理やり開け放つと、足元にゴロリと二つの塊が転がった。

 錆びついたように汚れてはいるものの、だからこそ直感的に理解した。


 僕のランニングシューズだ。


 もはや言い訳のしようがない。五十嵐の死体を見つけた夜、僕は学校ここに来ていたのだ。

 でもどうして――


「ふふ、ぼうっとしていると今度こそ死ぬわよ」


 理解が追い付かない僕のすぐ後ろで、瀧川は軽やかにテーピングを潜り抜けて廊下へと走り出していく。


 いつ死んでもいい、なんて言ったくせに、逃げ足は速いんだな。


 そんな感想がふと浮かんだけれど、それ以上瀧川のことをどうこう言う余裕もなさそうだ。窓を見れば五十嵐が半分くらいまで距離を詰めてきていた。

 コハルはまだ窓の手前で棒立ちで、動こうとする気配がない。


「くそっ」


 汚れたままのシューズに迷わず足を入れ、紐を結び直す。いつもの蝶々結びも指が震えて上手くいかない。

 その間にも徐々にあいつが近づいてきているのだろう。


「コハル、行くぞ」


 ようやくコハルのもとへ駆け寄った時、五十嵐の顔をした何かは窓のすぐ隣のところまで近づいていた。至近距離で目が合う。葡萄ぶどうが腐ったような黒い眼球だった。




「オォオオ……」




 五十嵐の口が低く濁ったような声を吐き出す。横隔膜を揺らすような重低音だ。

 聞いた瞬間、両腕の肌が泡立った。およそ意味などわからず、しかし向けられたものは十二分に感じ取れていた。殺意だ。


「行くぞ、行くぞ!」


 その叫びはコハルに向けてか、自分への鼓舞か。震える脚に無理矢理喝を入れ、強くコハルの手を引いて教室の出口へと走り出す。テーピングを取り払ったあたりで振り返ると、黒い身体が上体まで教室の中に入り込んでいた。

 まずい。死がすぐそこまで押し寄せてきている。逃げるんだ。逃げなきゃだめだ。逃げなければ、殺される。


 弾かれた様に、どこまでも続きそうな灰色の廊下を走る。だけど、思うように速度が上がらない。


「アァー」


 コハルは僕と違って必死に走ってはくれないのだ。その手を引きながら、またズキリと頭が痛む。


 コハルを置いていけば、僕は助かるんじゃ――


 一瞬芽生えかけたその思考に、激しい自己嫌悪が渦を巻いた。僕はコハルを守ると決めたんだ。その決意を再度奥歯で噛みしめる。

 だけど状況は絶望的と言ってもいい。油屋あぶらやとやったのとはわけが違う。今や命賭けの鬼ごっこなのだ。


「こっち!」


 角を曲がって渡り廊下を突っ切って別棟へ向かう。振り返ってみると、五十嵐は曲がり角のあたりから、またぐねぐねと黒い身体を揺らして追いかけてくる。走るほどではないものの、早歩き以上の速さは感じた。速度勝負では分が悪いかもしれない。


 前を向くと空き教室がいくつも並んでいて、その中の一つのドアが半開きになっていた。迷いは一瞬、もう他に手は思い浮かばず、コハルと一緒にその中になだれ込んだ。二つあるドアのどちらにも鍵をかけ、コハルを引き寄せて廊下側の壁を背にしゃがみこんだ。

 コハルがまた声を上げそうになって、慌てて手でそれを塞ぐ。手にじめりと熱を感じて少し泣きそうになった。


 びちゃり……。


 びちゃり……。


 びちゃり……。


 壁に耳を当てて様子を伺う。五十嵐と思しき足音が段々と近づいてきている。

 つられて僕の心臓もどうしようもなく暴れだして、音をたてないように息をするのだって本当に苦しくて、ああ頼むからこのまま気づかないで通り過ぎてくれって祈るような気持ちで、気を抜いたら奥歯がガチガチ音を立てそうになって、本当に苦しくて、このまま通り過ぎてくれって何度も祈って、それこそ心の中で何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も――




 ガッ!




 だけどそんな祈りは当たり前のように届かなくて、いきなり激しい音を立ててドアが揺れた。鍵のおかげでなんとか踏みとどまったそれは次の瞬間、


 ベキィッ!


 という音と共に大穴があいた。黒い腕が入り込んでイソギンチャクのようにウネウネとあたりをまさぐり始める。


 ああそうか。遅まきながら理解した。どうして最初の教室でドアが外されていたのか。こいつは簡単に壊してしまうんだ、このドアを。


「アアアァー!」


 コハルが威嚇でもするかのように叫んだ。

 それが聞こえたのだろう。黒イソギンチャクの動きは激しさを増して、ドアがガタガタと悲鳴を上げ始める。壊されてしまうのはもはや時間の問題だった。


 もうこうするしかないよなぁ。


 僕の思考を支配したのは、恐怖を通り越して一種の諦めにも近かった。死の恐怖がなくなったわけじゃない。だけど、コハルを守らなきゃ、その一心が僕を突き動かしていた。


「必ず戻ってくるからな」


 そう言い残して、それで心は決まった。

 急いでもう一方のドアを開け、廊下へ飛び出し、叫んだ。


「こっちにこいよ、化け物ぉっ!!」

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